34.e.
2014 / 07 / 14 ( Mon ) 「幻……じゃなくて。ほん、もの……?」
「何の話だ」 そっけない返答。疑う必要は無いと、左眼がドクンと強く鼓動を打った。 ――血の臭い。まさか此処まで来る途中で怪我したんじゃ―― 喉頭を使うよりも呪いの眼の通信機能の方が楽だったので、直接呼びかけた。依然姿が見えないけれど、確かに傍でその存在感を放っている血縁者に。 ――どうでもいい。ほぼ返り血だ。 至近距離からの「返事」は、何やら不思議な感じがした。 ――ほぼって、じゃあ多少は違うんだ……。 ――そんな話よりお前こそしっかりしろ。 大したことないよ、と声に出して笑おうとした途端、胃が急に凝縮した。焼けるように熱い物が喉を逆流する。苦味がひどい。 ゴボッ、と重苦しく濡れた噎せ方をした。液が唇から溢れて顎を伝う。それがそっと拭かれる感触があった。 ――ねえ、兄さん。僕はまだ、其処に居る? ――…………。 沈黙からは気遣われているような、心配されているような雰囲気が滲み出ている。 ――手足とか指とか揃ってる? ――質問の意味がわからんが、四肢は揃ってる。後は……アザが。 その一言から察した。全身の肌が所狭しと醜いアザに覆われていて、それも毒の作用なのだろう。 自分を取り巻いていた光景が幻覚に過ぎなかったのだと発覚して、リーデンは僅かに安堵した。それはほんの束の間の安堵ではあるが。 絶対的な別れの刻が迫っているのに変わりはない。 ――僕は今でも、里親を殺したことを後悔していないし、それが間違っていたとも思わないよ。でも、もしもあの時の僕に二人を赦すだけの器があったのなら……もしかしたら違った結末を迎えられたかもって、思う。 ――結末? くだらない話をするな。結末は今じゃない、もっと先にわかることだ。 ――先なんて無理だよ。だって…… ――無理じゃない。互いの存在が本気で鬱陶しくなって、どっちが先に老衰で逝くのか、遺る財産は誰の手に渡るのかと言い争うのが日常になるまで、ずっと付き合ってもらう。 「あはは、面白い、こと……言う、んだね」 それは彼らとは無縁な未来だった。財産と呼べるほどの何かが貯えられ、老衰による自然死を迎えるなどと。 「死ぬな、リーデン」 無機質が常な声に、一筋の焦燥が差す。 「お前が死んだら、お前だった魔物を捕えて籠に閉じ込めて一生苛めてやる」 横たわるリーデンの肩を支える手に、ぎゅっと力がこもった。温かい滴が落ちて来る気配がする。 「なに……それ。兄さん、すごく、きしょくわるいよ」 表情筋が緩んで笑みになったかもしれない。これまで聞いたことの無い、そして二度と聞く機会の無いであろう、兄の冗談が珍しくて。 (あーあ、どうしよう。今更、怖いなんて。寂しいと思うなんて。人間の感情って本当にめんどくさいなあ) この世に残るたった一つ意味のある存在の腕の中で息を引き取れるんだから、これでいいやって満足できれば良かったものの。 「冗談はこの辺で終わりにして、帰るぞ。ミスリアも、お前の可愛がってる女も待っ――……」 語尾に向けて、言葉が聴き取れなくなっていく。 (あれ? 水の中を伝ってるみたいに、ごぽごぽしてて聴こえないや) それだけでなく、握られている手を握り返したいのに、さっきから全く指が動かない。 残存する自我の中で、「嫌だ」と「ここまでか」という抵抗と諦めの意思がせめぎ合う。肉体からメキメキと引き剥がされるような妙な手応えがある。兄の声がすっかり遠のいたリーデンの耳には、獣の鳴き声が代わりに入り込んでいた。またお前らか、人喰い魚ども。 嫌だ、消えるのは嫌だ。まだやりたいことも話したいこともたくさんあるのに! ――助けて! 誰にも届かない声がさざなみと化して闇の中を広がる。助けて、助けて、助けて、助けて…… すり減らされた魂は震えながら泣いた。 嫌だ。泣き声は弱り、子供がぐずっているような音に変わっている。 いよいよこれで終わりか――? こんなに暗くて怖い場所が最後の思い出に残るなんて耐えられない。そう思っていても、魂が肉体から引き剥がされる―― ふと気が付けば黙り込んでいた。遠くから何かが来ると感じたからだ。透明な霊力と潤いを含んだ音が、遥か闇の向こう側から染み込む。 『お願いです、リーデンさん…………どうかゲズゥを独りにしないで下さい』 すぐ真上で何かがチカチカと光り出す。黄金色の信号だ。灯台の灯りと同じで、意識をそちらに集中させるべきだと、なんとなくわかった。 同調しながら気付かされた。 孤独な最期を恐れていても仕方がない。愛する者を独りにできないという想いの方が、恐怖を塗り替えられるだけの力を持つ。それを優先すればいいだけの話だ。思いやる心は力となる。 送り主の優しさをそのまま表した、この温かく淡い光が導いてくれる。 (諦めなければ、君が奇跡を呼び寄せてくれるんだね……。いいよ、ついて行こう) 光はおもむろに勢いを増して、散々しつこかった暗黒を破っていく。青白い小魚たちが光に触れるごとに銀色の素粒子となって分解される。暗闇はやがて曇ったガラス程度に明るくなり、次には――。 円の形に一箇所ずつ、曇りガラスから曇りが、見えない手によって拭い去られる。 長いこと封じられていた視覚に光が戻って、リーデンはつい目を眇めた。視界が安定した頃にちゃんと目を見開く。銀色のペンダントがすぐ近くにあった。羽の生えた槍にも見えるそれは、ヴィールヴ=ハイス教団と聖獣信仰の象徴だ。黄金色の輝きを未だに纏っている。これが光源だったのか、と静かに納得する。 そして次に目に飛び込んできた映像にリーデンは驚いた。いっそ、これまでの人生で一番驚いたかもしれない。 「なにそれ……もしかして、泣いてるの?」 からかうつもりは無い。無いのだが、あまりにも信じられない状況だからか、思わず明るく笑ってしまったのだった。 |
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