34.a.
2014 / 07 / 03 ( Thu ) 誰かに呼ばれたような気がして、リーデン・ユラス・クレインカティは意識を浮上させた。 浮上させた――はずなのだが、すぐに違和感を覚えた。(ここは……?) 僅かな光さえも認識できない、完全な闇に包まれている。 古びた木材の臭い、通気性の悪い空間。屋内のはずなのに外の冬の寒さと変わらない低温。 (屋内……そうか、僕は屋敷の中に潜入して……) 気怠い。頭が靄がかかったみたいにぼんやりするし、手足も動きそうにない。 リーデンは何度か冷たい息を吐いた。 (あーあ、しくじった。取り逃がした上にこのザマかぁ) 殺害対象であった男はヤシュレ出身の大富豪で、調べによると屋敷を五つほど構えているという。何でも少数民族の奴隷を集めるのが趣味だったそうで、呪いの眼の一族の住まう林もかつて何度も訪れてはその度に族長にこっぴどく追い払われていたらしい。十二年前にシャスヴォルの政府が村の殲滅を決めた時、何処からか噂を聞きつけて便乗したのだとか。 人間のクズとはこういう男の為にある言葉だ。得体の知れない種への恐怖ならまだギリギリ理解できなくもないが、この男の動機といえば、手に入らない他人様の玩具を逆恨んで壊そうとする、幼児以下の思考回路だ。 だがあろうことかそんな人間のクズには金があった。腕の立つ用心棒を大勢雇えるほどに。 全部の屋敷の警護は完璧、しかも自分がどの屋敷に滞在しているのかは常に曖昧にして。奴はそうしてのらりくらりと追跡をかわし、今日この日までどんな敵にも――もちろんゲズゥ・スディルにも――首をかられることなく生き長らえている。 本来なら暗殺行為を得意とするリーデンは、今回は焦りすぎた。これまでの四人の仇は兄が一人で始末したのだから自分も一人でやってみせなければ意味が無い、などとくだらない意地を張っていた。もっと周到に下調べをしてから協力者を揃え、寸分の狂いも生じない計画を立てるべきであった。 今更それを後悔してももう遅い。ターゲットはとっくに遠くへ逃げているだろうし、屋敷の人間は今も侵入者を仕留めようと目を光らせている。見つかるのは時間の問題に過ぎない。 (時間といえばどれくらい経ったんだろ。この屋根裏空間には窓があった記憶があるんだけど) 逃げ込んだ時にはこんなに暗かっただろうか? 最初に覚醒してから数分経ったはずなのに、何度瞬いても視界に明るみはもたらされない。知らぬ内に夜になっていたのだろうか。しかし夜だとしても今宵は新月ではない。 せめて自分の手くらいは見えるはず、そう思ってリーデンは右手に意識を集中させた。首を傾け、手を顔に近付ける。近付けたつもりであった。 指先が睫毛に当たっても、全くこれっぽっちも見えない。 脳の片隅にちらついていた一つの可能性が、いよいよ無視できない勢いをつけて警告を出している。 「視神経をトばす毒ね。また厄介なモノを……」 思い出した。敵から逃れた時、吹き矢が太腿に当たったのだった。その直後に身を隠し、いつの間にか意識を失っていた。 負った傷はそれだけだったのにこの急激な疲労、毒にやられたと考えるのが筋だ。他にも心当たりがあるとすれば、たとえばさっきから数分に一度、思い出したように吐き気が喉の奥を上っている。もう毒は回っていると考えられる。 左脚からじわじわと広がる疼痛が煩わしい。リーデンはため息を漏らした。 それと同時に霧が晴れるが如く、少しずつ視界に形が現れていた。全体の暗さは変わらない。 「なに? コレ」 リーデンは淡く光る薄い水たまりの中に居た。リィン、と音とも言えない音で、水たまりに波紋が浮かび上がる。 「幻覚、にしてはなんか……」 ――怖い。 不覚にも恐怖に震えた。自分の身に起きていることに対してそんな感情を覚えたのは、果たして何年振りだろうか。 死そのものが怖いのかというと、そうではない。リーデンは死後の世界に興味が無かった。死んだら同胞と再会できるなどと安易な考えは持っていない。意識が途切れて終わる、そのようにしか考えていない。 (違う。これはそういうんじゃない。消える) 何故そう思ったのかはわからない。 水たまりの中に青白く光る白玉のような丸い物が無数にぽこぽこと出てきた。 じっとそれを観察してると、それはやたら頭だけ大きいグッピーの群れのようだった。魚たちは小さな口を開いて、歯を見せた。 それらの一匹が、ぱくん! とリーデンに噛み付いてくる。実際には己の輪郭が何処にあるのか未だに見えないので、噛み付かれたような印象を受けた、ということになるが。 (僕という人間が『喰われる』!) 魚たちの動きが速くなった。今度はちゃんと、皮膚をかすったような感覚があった。 (嫌だ。この世から存在そのものが、僕がいたという事実が消えるのは嫌だ……!) 自我と記憶を失う恐怖。 リーデンには、覚えのある感覚だった。 それは即ち過去の経験――。 |
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