30.h.
2014 / 03 / 30 ( Sun )
 硬直が解けたミスリアは大急ぎで水道橋から降り始めた。
 叫び声が止んでいる。少年は頼りない肩を激しく震わせながら、荒い呼吸を繰り返し、鉈を引き抜こうともがいていた。

 血が伝う鉈の刃に、無骨な手が重なる。刃は刺した対象に、その全長の四分の一も食い込んでいない。

「たとえ――」ゲズゥが発した声はひどく冷静だった。「腕が上がらなくなるまで俺を刺しても、或いは殺したとしても、お前の心は晴れない」
「はな、せぇ!」
 子供はひたすら鉈を引き抜こうとしているが、びくともしない。腕力の差は明らかである。

(ダメ。引き抜いたら出血が)
 焦り、ミスリアはレンガの柱を滑り落ちるようにして降りた。

「恨みとはそういう物だ。楽になりたければ、別の方法をみつけるんだな」
「なに、言ってんだよ。そんなんどうでもいい! おばさんをめちゃくちゃにしたオマエを、絶対、ゆるさない! わすれたとは言わせないからなぁ!」
 少年は全身から憎悪をほとばしらせながら一言ずつを恨みがましく吐き出した。

「……憶えてる」
 ぽた、ぽたり、と深紅の滴が草を濡らす。青年はそれを全く気にせずに静かに答える。

(こんな子供が仇討ちを……?)
 衝撃のあまり、身体の動きが一瞬止まった。そしてどうしてかそのことより気になる問題があった。
 ふいにミスリアはシャスヴォルの兵隊長だった男性を思い返した。あの時ゲズゥは何と言っただろうか。

「お前が慕っていた女には殺されるべき理由が多くあった。故郷の村を滅ぼした『実行犯』の一人でもある。あの日に遡って選び直せと言われたら、何度でも俺はあの女を苦しめて殺す方を選ぶ」
「うるさい! おばさんはすごく優しくて、おれにとっては親だったんだ! 殺される理由なんてあるわけない!」

 ゲズゥは少年の必死の抗言を完全に無視して続けた。

「だがあの場に現れたお前に見せつける必要は無かった。お前の憎しみを悪化させた責任は、確かに俺にある」――彼は鉈にかけていた手に力を込め――「だから、思う存分、やりたいようにやればいい」

 やっと水道橋を降り切ったミスリアは、その勧めを聴いて一層強い焦燥感に打たれた。何やら整理しきれない感情を持て余し、覚束ない足取りで二人の傍へ歩む。

(過去の罪に対して罪悪感を感じているのは、良い傾向だと、喜ぶべきかもしれない、けど……)
 そう考えながらも信じられないくらいに自身の動きは緩慢としていた。
 少年がゲズゥの手助けを経て鉈を引き抜く瞬間が、目に見えて間近に迫っているのに、ミスリアの足は速まることができなかった。

『お前が俺に復讐するのはお前の勝手だ。そこで返り討ちにするのは俺の勝手だ』

 シャスヴォルの兵隊長を相手にした時に比べて、ゲズゥの態度が違っている。原因を辿ろうにも、彼が今しがた語った責任の話だけでは釈然としないものがあった。
 今はそんなことより、目の前で繰り広げられかけている悲劇を止めなければならない。

(きっとあの子にとっての取り返しのつかない過ちになる)
 それは、無関係な人間ならではの意見だろうか。どちらにせよ、心の奥底から人を恨んだことの無いミスリアにはわからない。
 止めなければならないという意思の方が、今は迷いよりも勝っていた。

 黒いコートに身を包んだ青年の背中が視界の中で段々と大きくなっている。あと数歩もすれば手が届きそうな距離に達すると、鉄の臭いが鼻についた。
 なんとか仇討ち少年を説得できないだろうか。気を引き締めて、ミスリアは横を回り込んだ――

 低く、形容しがたい音がした。遅れて両目が脳へと映像を読み込む。
 少年は血に濡れた鉈を持ってよろめいていた。

 栓の役割を果たしていた凶器が抜けても、ゲズゥの左脚から劇的に鮮血が飛び出したりはしない。代わりに、真っ黒な革に開いた穴の周りが音も無く潤い、嫌な光沢を帯びる。

「や――」
 その時点でようやっと、ミスリアは声の出し方を思い出していた。
 少年は、鉈を両手で逆手に握って、大きく振り被っている。今度は腹部を狙うのだろうか。

「やめて下さい!」
 かなり危険な真似だと頭のどこかでわかっていたが、それでもミスリアは飛び出していた。
 自分と大して身長の変わらない華奢な少年に体当たりをする。二人して転倒し、鉈は少し離れた場所に落ちた。

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15:18:03 | 小説 | コメント(0) | page top↑
30.g.
2014 / 03 / 27 ( Thu )
 俯き、途切れ途切れに語り出す。

「親……を。引き取って育てて下さった方たちを……ある日、自分が殺した、と。あの人は、そう言って笑いました」
 ミスリアは心のどこかでは否定して欲しくて語っていた。ただのほら話だから早く忘れろ、とでも言って欲しくて。
 そしてゲズゥは返事をした。

「事実だ」
「――――!」
 がばっと彼の立つ方を見上げても、レンガを覆う蔓草がちょうど邪魔で表情が窺えない。
「俺はその場に居なかったが、視ていたから、知ってる」
 あくまで淡々と、言葉は重ねられる。

「おかしいです! その場に居なかったのに『見てた』ってどういうことですか」
「左眼の特性の一つだ。血縁関係の強い相手と、視界を共有できる」
「視界を……?」
 ミスリアは訊ね返した。ゲズゥ自ら「呪いの眼」について説明する気になっているのが珍しくて、つい話題の中心人物よりもそちらの方に興味が向いてしまう。

「別に、常にそうなってるんじゃない。何故か距離が離れた方が頻繁に同調が起こるが、意図的に遮断するのも可能だ」
「すごいですね。そんな風になってるなんて……」
 途方もない話なのに、ミスリアにはすんなり信じられた。今の説明を受け入れさえすれば、昨夜のリーデンの言動に抱いた疑問がことごとく解消されるからだ。

「もしかして相手がどこに居るのか、距離感覚も備わってたりしますか?」
「大して頼れはしないがな」
「それでもこの町まで追って来て、見つけられたでしょう。リーデンさんだって、そうやって昨夜は河のほとりまで来たんですよね」
「ああ」

 ――謎がいくらか解けた。
 頭の中で、ミスリアはいくつかの点と点を繋いでいた。視界の共有、距離感覚。遠い昔、リーデンが誰の目も届かない場所に隠れていながらゲズゥが迎えに来れたのは、そのおかげだろう。それに、世界でただ一人の家族と遠く離れていても平気でいられるのは、或いはこの不可思議な能力があるからなのかもしれない。

(裏を返せば、それってもしかして)
 ミスリアはあることに気が付いた。便利そうな力に思えるが、良い事ばかりなはずが無い。何せ自分一人の経験だけではなく、別の人間の味わった悲しみや苦しみを直に受け取ることになるのだから。
 自分に置き換えてたとえれば、魔物に魂を繋ぐ歌を使うのと同じだ。

 あれは他人の記憶と過去、と最終的に割り切れれば正気を保てるものであって、身近な相手と何度も経験を共有していたら、他人事でない分だけもっと引きずりそうである。
 そして振り出しに、リーデンの話に戻る。

(老夫婦を鈍器で殴った場面を同調して視てた――?)
 視ていただけで、手を出せる範囲に居なかったのなら。一体どんな気持ちで一部始終を観察していたというのだろう。全く何も感じなかったはずが無い。
 気分が悪くなり、ミスリアはそれ以上は想像したくなかった。強制的に思考回路を止め、深く息を吸い込む。

 会話が今度こそ止んだので、太陽が西の空を悠々と横切るのを眺めようと思って顔を上げた。いつの間にかもこもことした灰色の雲が青の上を滑っている。陽の光が遮られて弱まる度に、気温は下がって行った。
 流石に寒くなってきた。できれば屋内に入って毛布に包まるなりお茶を飲むなりして温まりたいと思う。

(そういえば私たちは何をしに来たんだっけ。えーと、子供に会いに?)
 思い出したのと時を同じくして地上からガサガサと何かが野草を踏み分ける音がした。
 柱に片手を付けたまま、対象を見下ろそうとやや身を乗り出してみる。小さな人影だった。本当に、件の子供が現れたのだろうか。

 人影は水道橋を振り仰ぎ、長い髪に隠れていない唇を動かした。
 何かを言ったのなら、突風で聴き取ることができなかった。しかしその唇は、「みつけた」という単語を形作っていたように見受けられる。
 重く硬そうな布が風に絡まれる音と共に、ミスリアの視界を、大きくて黒い物が通り過ぎて行った。

「ミスリア! お前はそこを動くな」
 と、黒い物が振り向きざまに命じる。
「何を……」
 唐突に、猛烈な不安が心を占め尽くした。既にゲズゥは地に足を付けている。同等の身体能力を持たないミスリアが同じ場所に辿り着くまでには、必ず数分以上はかかる。

 何に対する不安なのかはわからなかった。動くなと言われはしたけれど、やはり降りた方がいいのか。
 逡巡していた間、ミスリアは二人の人影から目を離せずに居た。

 その時、小さい方の人影がずかずか進むのをやめた――
 かと思えば、次には叫びながら走り出した――
 少年は両手に、長くて危険なナニカを握り締めているように見えた。ミスリアは目を見開いたまま硬直した。

(どうして!?)
 警告を伝えようとしても、声が出なかった。
 疑問は少年の行動というより、長身の青年の方にあった。彼は着地して以来、真正面から突進してくる少年を前にして、小指の先ほども動かない。

 まるで鉈の切っ先へ吸い寄せられたかのように、最初からそれが狙いだったかのように。
 ほどなくして二つの人影は重なった。

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13:29:21 | 小説 | コメント(0) | page top↑
30.f.
2014 / 03 / 25 ( Tue )
 レンガの積み上がった部分を足場に使い、何とか掴める箇所を順に見つけてよじ登った。五分ほどして腰を落ち着ける場所に着けた。その頃には爪が割れたり指先に多少の傷ができたりしたが、得られた成果はそんな煩わしさを掻き消すに十分だった。
 人の手が作り上げた絶景。そこには、大自然が魅せる光景とは別種の感動があった。
 故郷たる島国から一歩も出ることなく一生を過ごしていたら決して出逢えなかったであろう喜びに、思わずおののいた。

 視界いっぱいに広がる、手の込んだ造りの都には、どれだけの歴史とどれだけの人の夢や苦労が詰まっているのだろうか。ここから望める港や街道、住宅街や役所、果ては路地裏にまで。
 寒空の下、太陽が力強く照らすイマリナ=タユスの町では、さまざまな人生が行き交っている。その中にはミスリアにはとても想像できないような困難な人生も、燦爛たる人生も、多種多様に含まれていることだろう。

 彼等が思い描くままに道を往けるよう、妨げが少なければいいのに――と、ふとミスリアは手を握り合わせて祈った。

(でも、誰もがみんな望むままに進んだら、そのせいで衝突してしまう人生も出て来る)
 生きているというのは一筋縄では行かないものだ。自然界にだって、共生と相克がありふれている。人の世も同様に入り組んでいて、どちらの在り様が正しいのかなど、結論が出たためしは無い。

(せめて自分にできることを、聖女としての役目を、精一杯まっとうしよう)
 少なくとも大陸中の魔物を昇華していくことが人々にとってマイナスになるはずは無いのだから。

 物思いに耽り始めて数分、突風が周囲を吹き抜けた。ミスリアは長い袖と裾のドレスの上にショール型の外套を羽織っているがそれは薄地の部類に入る品物で、今の風に弄ばれはしても充分に防げた気がしない。特に背中や後ろ首辺りが一気に冷たくなった。
 フードが付いているのが幸いで、ミスリアはこれ以上髪が乱れないように、そして冷えないようにと目深に被った。

「ここ数日で急に冷え込みましたね」
 身震いしつつもミスリアはゲズゥが居る辺りを斜め上に見上げた。
 立っていれば余計に風が当たって寒いはずなのに、彼は平然そうな顔で直立していた。昨日使っていた膝まである黒コートをちゃんと乾かして着用しているからかもしれない。両手なんて、ポケットに収まっていて温かそうである。

「コレは貸してやれないが」
 こちらがコートに視線を集中させていたのに気が付いたらしい。
「わ、わかってますよ、リーデンさんのご厚意です。それに背丈が違い過ぎますし」そう答えると、ミスリアはあることを思い出して懐かしさに頬を緩ませる。「私には姉が居ましたけど、歳が離れていたので服の貸し借りはできませんでした」

「過去形」
 返ってきた一言の指摘にミスリアは苦笑した。
「お姉さまは私より先に聖女となって旅に出ました。そしてそのまま、失踪しています」
 一抹の淋しさに胸が痛んだ。

「つまり、お前のは捜す為の旅か」
 つとゲズゥが投げかけてきた憶説にミスリアは驚かない。以前から、自分は厳密には世界を救う為に旅立った訳ではないと、言明してあったからだ。

「そうではありません。いえ、全くそんなつもりが無いと言えば嘘になりますけど……」
 そこから先を語れなかった。裏付けを取れていない、ただの疑惑を口にするだけの勇気が足りなくて。
 ふらりと、心身の支えを求めてレンガの柱に背中を預ける。

 ミスリアが口を噤んだ後は静寂が続いた。否、人と動物の声が欠けただけで、静寂と呼ぶには風がうるさすぎた。まるで聴く者に何かを訴えかけるかのような高らかな風音が、間隔を置いて何度も周囲を揺さぶる。
 じっとしていると時々古城の映像がチラチラと脳裏を過ぎるが、今や無視できる程には慣れている。

 そうしてしばらく経ってまた口を開きたくなった時、再びとある名が舌の上を滑った。

「リーデンさんて複雑な方ですね」
 直後、上からは嘲笑に似た吐息が聴こえた。
「そういうのを婉曲と呼ぶらしいが」
「む、難しい言葉を知ってますね。婉曲表現になるんでしょうか」

「…………アレとの確執にお前を巻き込んだのは、悪かったと思ってる」
 いつもの感情に乏しい声とは違う、僅かだが確かに申し訳なさそうな声色だった。
「え? そんな、私は構いませんけど」
 条件反射でミスリアは答えた。

「いや。お前はアレを怖がって逃げ出した」
「――それは、だって……あまりに惨いことを言う、から……です」
 するとゲズゥは口に出しては何も言わなかったが、その沈黙にこそ「詳しく話せ」と求められているとミスリアは解釈した。

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13:23:39 | 小説 | コメント(0) | page top↑
30.e.
2014 / 03 / 20 ( Thu )
 地上へ続く階段を無心に駆け上がって、上り切ったら今度は路上に出るつもりで駆ける。
 その後はどこへ向かえばいいのか全く当てが無いけれど、ミスリアは足を止めなかった。
 案外、探し人はすぐに見つかった。リーデンが居を構える建物から数歩も離れていない位置に彼は佇んでいた。

(――っ、こんなに)
 ……安心するとは思わなかった。堪えていた涙が目元に少し滲み出たのは、午後の陽射しが眩しいからってだけではない。

 黒曜石に似た瞳が湛える静けさの中に、ついさっき露わになった激情は残っていない。だからだろうか、目が合った途端、さざなみ立っていた気持ちが少しだけ落ち着いた。
 長身の青年は、息を切らして膝に手をつけるミスリアを、怪訝そうに見下ろす。

「そんなに慌てずとも、別に置いて行ったりしない」
 彼は草か枝のようなものを一本口に咥えたまま無機質に言った。
「あ、はい。ありがとうございます」
 何故か熱が顔に集中したように感じて、思わず目を逸らした。そんな言葉をかけてもらえて――嬉しい、のかもしれない。言った方には喜ばせるつもりなど無かったとしても。

「そ、それで今日はどちらへ向かいますか?」
 気持ちを切り替え、笑顔を作って改めて訊ねた。今はまだ、地下に潜む銀髪の美青年について触れたい気分ではなかった。きっとゲズゥも話題にしたいとは思わないだろう。

「…………昨日の子供を探す」
 理由も無くなんとなく散策するのかと思っていたミスリアは、意外な答えに目を見開いた。
(あの子のことを心配しての行動なら感心するところだけれど)
 そう考えるのはどこか的外れな気がした。

「でも街に居るとは考えにくいですよね? 昨晩はあんな外れに居た訳ですし」
「おそらく高い所に行けば遭遇する」
「高い所?」
 訊き返したものの、返事は無かった。

 ゲズゥは黒いコートの裾を翻してさっさと歩き出していた。ミスリアもその後に続く。
 彼は時折止まっては周囲を見回し、行き先を決めているようだった。

(高い場所から町全体を見下ろして探す……? そんな言い方じゃなかったわ。おそらく遭遇する、ってどういう意味だろう)
 考えうる可能性があるとしたら、それは例の少年の方がこちらを探している場合――高い所に立って姿を見せるだけで近付いてくるはずだ。しかしそれならば何故探すのか、何故ゲズゥにその予想がついたのか、わからないことだらけになる。

 路地裏の迷路を抜けると今度は街をうろつき、やがて更なる紆余曲折を経てやっとゲズゥは立ち止まった。
 街の北端だろうか。草が繁茂した地域に、水道橋の一部がそびえ立っている。

 80フィート(約24.3メートル)をゆうに超える水道橋は、壊れた状態よりむしろ建設中に計画が放棄された風に見えた。一番高い所は二段目まで完成しており、一番低い所は一段目の柱のレンガが途中までしか積み上げられていない。

 ――悪い予感がする。
 おそるおそると隣のゲズゥを見上げると、彼は一言「のぼる」とだけ呟いた。

「あれを、登るんですね……!」
「嫌なら地上で待っててもいいが」
「……一番高い位置まで行く気ですか?」
「そうだな」
「わかりました。私は下で待ってます」

 とりあえずは妥協することにした。
 ああ、とだけ答えて、ゲズゥは古びたレンガに手を付ける。慣れた手つきで上へ上へと登っていく彼の後ろ姿を見届けてから、ミスリアは登りやすそうな所を探した。
 一番高いとまでは行かなくとも、少しでも登ってイマリナ=タユスを見下ろしてみたい気分である。

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13:19:34 | 小説 | コメント(0) | page top↑
30.d.
2014 / 03 / 17 ( Mon )
*注意:残酷というか、書きながら私もぞわぞわしたような歪んだ話があります。


「兄さんは僕を背負って走った。村から遠く遠く離れ、それからは二人で町を転々と移ろいながらゴミ山を漁り、拾い食いをし、時には盗みもして食いつないで……。意地汚い生き方と言っても、幼い僕には多分、家族が一緒ってだけで結構満たされていたんじゃないかな。不思議と、思い出はいつも温かい」

「なるほど、そんなことが……」
 今回のお茶は苦いなぁ、と思いながらミスリアは話に聞き入っていた。お茶以上に、リーデンの語る過去は苦い。
 しかしゲズゥの幼少時代を想像してみるのはどこか新鮮な感じがした。

「そんな生活も長続きせず、やがて子宝に恵まれなかった老夫婦の目に留まって、引き取られることになったんだ」
 リーデンが次に語った予期せぬ展開に、ミスリアは瞬きを返す。

(よかった、ずっと子供二人で生きていたんじゃなくて)
 そして僅かな安堵を覚えた。

「その方たちは今はどうされてるんですか?」
「ん? もう大分前に死んだよ」
「す、すみません。お気の毒でしたね」
「別に謝ることないよ。僕が殺したんだし」

「――やめて下さい! なんて冗談を」
 無意識にミスリアは席を立ち上がっていた。膝がコーヒーテーブルに当たり、突然の揺れでティーカップが落ちそうになる。それをリーデンが素早く手を出して防いだ。

「ん~、事実だけど」
 テーブルの上に身を伸ばした姿勢のまま、彼が上目遣いで告げる。
「その二人も、数年にかけて愛してはくれたと思うんだけど…………なんて言うか、ある日鈍器で殴っちゃったよ」

 突然窓が開けられた時みたいに部屋の気温が下がったような気がした。だがここは地下の一室であって窓は一つとて無く、空気の流れもほぼ皆無である。
 気のせいに違いない。にも関わらず、ミスリアは全身が小刻みに震え出すのを止められずにいた。

「なに、を言って……」
 膝が痛みにじんじん痺れるのにも構わず、声を絞り出した。
「そいつらの所為で僕ら兄弟は引き離されたんだ。当然の報いでしょ」
 ――悪びれず朗らかに笑っている。

(本気で言っているのだとしたらとんでもない道徳観だわ)
 今聞いた出来事が実際に起きたという確証は無いし、事件そのものの情報が絶対的に足りない。だが真実がどうであれ、目の前の美青年は「何かがおかしい」と、ミスリアは確信した。

「物心ついたのかついてないのかどっちとも言えない年頃の子供がやったことだよ。育てた人間の失敗が導いた結果と考えるのが妥当で、僕の咎だと誰が責められる?」
 ミスリアは答えられなかった。

 ある意味ではうなずけるが、同時にそれは責任転嫁とも取れる見解だ。
 心底リーデンは、自分のしたことが何一つ間違っていないと思っているのだろうか。当時はともかく、アルシュント大陸での一般男性の成人年齢である十五歳を過ぎた今でも、省みる所は何も無いのだろうか。

(この人の精神構造はどうなっているの)
 今ばかりは、弟の狂気と比べて兄の罪は些事に思えてしまう。
 罪の数ではなく感覚の問題だ。ゲズゥは人としてまだ戻れる場所がありそうなものだが、この青年は――血の繋がりはさておいて、親殺しという紛れも無い大罪を犯している。

 彼の主張通り、注がれた愛情の方に問題があったのか? それともリーデンの言い訳に過ぎないのか?
 わからない。わかろうはずも無い。吐き気がする――

「あー、そういえば聖女さん」
 相変わらずの澄んだ美声が思考を横切って、ミスリアは身構えた。
「な、何でしょう」
「たった今、兄さんが建物から出ちゃったけど。どうするの? 追いかけるの?」
 リーデンは地下室の天井を見上げて訊いた。

「それは困ります! すぐに追いますので、お話の続きはまた後ほどお願いしますね、すみません。失礼しますっ」
 場を逃げ出す口実が出来たことにとてつもなくほっとしたのも束の間、次の瞬間にはもう走り出していた。
 背後から聴こえる高らかな笑い声が夢にまで響きそうである。ミスリアはこみ上げそうな涙をぐっと堪えた。

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13:35:02 | 小説 | コメント(0) | page top↑
30.c.
2014 / 03 / 13 ( Thu )
 人を急かすのはマナーが悪い。そう考えながら、ミスリアは訊かずにはいられなかった。
 絶世の美青年はすぐには反応を示さなかった。どこへともなく視線をやりつつ、代わりに彼は不可解な問いを投げかけてくる。

「その前に、僕って幾つだと思う」
「歳の数ですか」
 言われて、真面目に考えてみた。弟と言うからにはゲズゥよりは年下でなければならない。それなのにリーデンの達観した雰囲気か眼光の所為か、どうにもよくわからない。腹違いなだけに実は同い年だったりするかもしれない。

(そういえば回想の中では五歳と言っていたかしら)
 あの出来事は十二年前に起きていると聞いているから……と、ミスリアは簡単な暗算をこなした。

「十七歳ですよね。お若いですね」
「君ほどじゃないけど」
「は、はあ」
 奇妙なやりとりにミスリアは笑うしかなかった。

「ねえ、聖女さんは臨界期仮定って知ってる?」
 リーデンはバノックの残りを切り分けながら問うた。その面には笑みが貼り付いている。

「生物の発育過程で、外的な刺激を絶対に必要とする時期のこと、ですよね」
 少したじろぎながらもミスリアは丁寧に答えた。
「よく知ってるねぇ。正直予想外だよ。教団の教育さまさまだね」
 ふんふん、と彼は何度も点頭する。

「教育の一環ではありません、言語学が好きな友人に聞いただけですよ。確か、臨界期の間に外的な刺激を受けないと、言語能力がその後の一生も完全には育たないって考えでしたよね」

「そ。大人になってから初めて人に話しかけられたんじゃあ遅すぎてちゃんと話せるようになれない、って特異な事例が幾つも確認される内に、そのように仮定が立てられた。放置された子供、無人の山の上で狼に育てられた子、耳が聴こえない人、などなど」
 物知り顔で語る青年を不思議に思い、ミスリアは小首を傾げた。

「リーデンさんこそそういうのに興味があるんですか?」
「興味っていうか身近な問題っていうのかなー。なかなかマニアックな話だけど、僕は詳しく調べ上げないと気が済まない性質でね」
 彼は再び頬杖ついた。左右非対称の瞳にまたもや妖しげな光が宿っていることに気付き、ミスリアは唾を呑み込む。

「一部の学者たちの間では、感情の発達についても似たようなことが説かれてるんだ」
「感情の発達……ですか」
「それの臨界期に該当する年齢については色々言われてるけど。細かいことを省けば、つまり子供でいる間に保護者に構ってもらわないと、誰かに愛情を注いでもらわないと、まともな精神が育たないって話」

 この会話は何処へ向かっているのか――ミスリアは疑問に思い、さまざまな方向に邪推し始めて、気を揉む結果となった。
 その心の揺れ動きをリーデンは敏感に読み取ったらしい。

「あはは、なんか勘違いした? そういうんじゃないよ。兄さんは昔からあんなノリだったけど、これでも小さい頃は可愛がってくれたよ」
「かわい――……?」
 ゲズゥと「可愛がる」が同じ文の内に示されていることに吃驚して、ミスリアは語尾のトーンを跳ね上げさせる。

「うん。あのあと確かに兄さんは、僕を迎えに来てくれたよ。半日後か或いは数日後だったのか、その辺りの記憶は曖昧だけどね。待ってた間に寝ては覚めての繰り返し、現実も悪夢も区別がつかないくらいどっちもひどかったもんだから」
 リーデンは一旦目を瞑って瞼の裏の映像を払うかのように眉間の皴を揉んだ。
 一拍置いて、続ける。


中世後期か直後らしからぬ思想の発達ぶりは主に私の好みの問題です。

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12:23:49 | 小説 | コメント(0) | page top↑
30.b.
2014 / 03 / 07 ( Fri )
「うわあああああん」
 知った顔に安堵したのか、一気に嗚咽が号泣に変わる。すると彼女は宥めるように笑った。
「ごめんなさいね。怖かったでしょう」
 おいで、と呼ばわる優しい声の方へリーデンは走り寄った。

 義母はリーデンを腕に抱き上げ、「終わった」二人の身体を見下ろして、悔しそうに彼女らの名を呟いた。

「……無念を晴らすことはできないかもしれないけど、この子だけでも必ず助けるわ。安心して眠りなさい」
 右手を伸ばして、義母は開かれたままの緑色の瞳を静かに閉じさせた。
 一度ため息をついてから、彼女は林の濃くなる方を見据える。

「リーデン、樹の登り方はわかるわね」
 そう問いかけた時点で彼女はもう走り出していた。
 何故それを今訊ねられるのかはわからないが、リーデンは小さく頷いた。

「わかるよ。こわくないよ」
 兄にくっついて遊んでもらっている内に気が付けば樹に登っている日が多く、それゆえに自信があった。高い場所への抵抗も全くない。
「よかった。だったら、ここにちょうど良いのがあるから、できるだけ高い所まで登ってちょうだい。これなら下からは見えないでしょう」

 義母は走るのを止めて、一本の樹の前に立った。たくさんの枝と木の葉を誇る、幹の太い、大きな樹だ。
 なんで、と訊き返そうとしたリーデンは、義母の真剣な表情を目にして言葉を呑み込んだ。

「わかった? 高く高く登って、それから静かにしているのよ。何を聴いても、見ても、絶対に動いては駄目」
「でも……」
 リーデンは口ごもった。疑問は多くあった。ありすぎて、何から訊けばいいのかわからなかった。

「いいわね――絶対に絶対に、動いちゃ駄目よ。眠くなったら寝てもいいけど。たとえ下の方でどんなことが起きても、降りないのよ」
「う、ん」
 嫌だとは言えない雰囲気だったので、つい同意してしまった。

「良い子ね」
 義母の温かい唇が頬をかすめた。顔面に付着したままの血の臭いもしたが、それはさほど気にならないことだった。

「いやだよ」
 地に下ろされたリーデンは意義を唱えた。泣いて暴れて癇癪を起こしても良かったが、本能的に、きっと無駄だと悟った。なので、静かに呟くだけに留める。「おいてっちゃやだよ」

「……わがまま言わないで。樹の上でずっと静かに、良い子にしてたら、そのうち」――彼女はどこか寂しそうに微笑んだ――「お兄ちゃんが、来てくれるわ」
 その言葉を聴いたリーデンは思わず顔を上げた。

「ほんと? にいちゃ、くる?」
「ええ。ずっとずっと待ってたら、迎えに来てくれるわ、必ず。できるわね?」
「できる! まってる!」
「えらいわ、リーデン」

 そうして五歳児は一心不乱に巨木を登ることにした。もうこれ以上は難しいと思った高さで止まって、辺りを見回す。太い枝を選んで、足をぶらぶらさせつつ座った。
 木の葉の隙間から覗ける地上の世界が、まるで遠い景色のように彼の目には映った。
 勿論、その景色の中に黒髪の女性の影はもう何処にも無い。

_______

 一息ついて美青年は、色っぽい仕草で茶菓子を食んだ。弾みで彼の腕輪が小気味良い音を立てる。
 ソファの反対の端に腰かけているミスリアは、小さく口をぱくぱくさせていた。

(まさか、それだけ? というよりそこで止めるの?)
 そんなはずはない、再開するはずだ、と信じてミスリアはお茶を啜った。
 しかし当のリーデンはのんびりと茶菓子を称賛している。

「バノックってモチモチした食感が嫌いだからあんまり食べないんだよね。でもこれいいね、しっとりしてて。流石は僕の好みをわかってるって感じ。ちゃんと後でマリちゃんを褒め称えなきゃ。ね、聖女さん」 (バノック=スコーンの原点)

「……そうですね、すごく美味しいです。…………ではなくて、あの、それでお話の続きは」
「んー?」
「ですから、その。大人しく待ったら、ゲズゥは迎えに来てくれたんですか?」

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30.a.
2014 / 02 / 25 ( Tue )
 その時にはまだ、リーデン・ユラス・クレインカティは「死」という現象を理解できていなかった。
 人間のみならず林の動物が時々動かなくなるのは知っていたが、それについては兄から「終わったからだ」と過去に説明を受けている。まだリーデンは物事の「始まり」と「終わり」をあまりよくわかっていなかったので、当然、兄の説明では不足だった。

「おかあちゃ」
 リーデンは地に横たわる女性を片手で揺さぶった。
「おかあちゃ、あついよう。すずしいとこいきたい……」
 言いながらも母の肌の冷たさに怯えた。

 先程から村に何が起きているのか、五歳程度のリーデンの頭はまるで理解していなかった。
 どうやら足音のうるさい人たちが沢山踏み込んできて火をつけて回っているようだが、もともと寒くなかったし、何故そんなことをしているのか謎である。家が燃え崩れるから止めて欲しい。

 とりあえずは混乱の中を走り回っていた内に遠くから妹の泣き声が聴こえたので、そちらに向かってみた次第である。
 ところが駆け付けた時には小さな妹はもう泣いていなかった。母の身体に覆い被された赤ん坊は、変な方向に体が捩れたまま、ビクビクと痙攣している。

 ――何かの新しい遊びだろうか。

「おかあちゃ、おかあちゃ、おきてよう。ちっちゃいのがつぶれちゃう」
 いつの間にかリーデンは両手で揺さぶっていた。手に何かぬるっとした物がつくのも気にしない。
「おきてよう」
 あまりもの反応の無さにしびれを切らし、力の限りに母の肩を引っ張る。

 伏せられていた顔が、少しだけ地面から持ち上がった。リーデンは深く考えずに覗き込んでみた。
 頬には涙の跡、口元には鮮血、そして血走った眼(まなこ)を見開いたままの必死な形相。
 我が子を守ろうとして儚く散った彼女の、それが最期の姿であった。

 幼いリーデンには初めて見る母のこの表情からそこまで読み取れるはずが無く――ただ、わけもわからずに嗚咽がこみ上げた。
 動かないのに、寝ているのとは違うのだという認識が、徐々に染み込んでくる。

 背後では誰かがガサガサと草を踏み分けて近付いている。でもそんなことはどうでも良い、今はまだ母の顔から目を離すことができなかった。

「おい、こんな所にガキが居るぞ」
「まだ生きてるのが居たか。殺せ! 何歳だろうと関係ない、化け物の一族は根絶やしにしろ」
 男の一人が幼子の首を片手で軽々と締め上げた。リーデンの喉から呻き声が漏れる。

「まったく見ろよ、この白い目。病気みたいだ。何度見ても気持ち悪いな」
「そうだな。早く殺しちまえよ」
 もう一人の男が嫌悪感たっぷりに同意する。

 突如、何か黒いモノが旋風のように二人の男に衝突した。リーデンはその勢いのままに吹き飛ばされ、全身を打ちながら地に落ちた。

「何だぁ!?」
 旋風を巻き起こした人物は男たちを蹴り倒し、その内の一人の上に馬乗りになって、黒光りする鋭いモノを両手で掲げた。
「うがあああ」
 その男は顔面をめった刺しにされてこと切れたが、目の前の行為の恐ろしさをみなまで理解できないリーデンは、ただ上体を起こして呆然とした。

「てめえ!」
 残された男が剣を抜くよりも早く、血まみれの加害者は動いた――敵の喉を掻っ切る必殺の一撃を繰り出して。
 鮮血が周囲に撒き散らされる。

 そこでようやくリーデンは恐ろしさを覚えた。
 ――怖い。知らない男たちも、急に現れたこの血まみれの人も、燃える家の熱さも、そこら中に漂う変な臭いも、何もかも。
 屈んだ姿勢のその人が、素早くこちらを振り向く。よく見れば女の人だ。

「リーデン!?」
 呼ばれて、その人が誰なのかすぐにわかった。
 まっすぐな黒髪、きりりと吊り上がった両目、右目に泣き黒子。母をいつも助け支えてくれる人で、厳しいけれど、なんだかんだでリーデンの世話もしてくれる――兄の母親だ。


 私はげっさんママに未練でもあるのか……

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00:15:04 | 小説 | コメント(0) | page top↑
29.f.
2014 / 02 / 18 ( Tue )
 仲裁をしてみようという心意気は最初から少なかった。でももう、残らず消え失せてしまっている。

「絶対、嫌」
 リーデンは動じなかった。
「……」
「そこまで僕にやらせたくないなら自分で先に片付けちゃえば? でも君はそういう気も無いんじゃないの」
 鮮やかな緑色の瞳がミスリアを瞥見した。

 ゲズゥは一度だけ口を開きかけるも、声を発することなく無表情に戻り、その場を後にした。
 扉の閉まる音が心に重くのしかかる。

(ど、どうしよう)
 長身の青年の後を追うべきかどうかわからずにミスリアは狼狽した。
 しばらくして深いため息が静寂を破った。

「大丈夫、あの人まだ近くに居るっていうか建物自体からは出てないと思う」
 リーデンはミスリアに別の部屋でくつろぐように勧めた。彼はバーガンディ色の布カーテンをめくり、幾つもの柔らかそうなソファが揃った部屋に案内してくれた。

 壁際の二人掛けソファの端々にそれぞれ腰をかける。ソファは少し内向けに曲がった楕円形になっていて、互いに端に座ると顔を見合わせる形になる。会談しやすそうな造りだとミスリアは思った。

「結局、いつもこうなっちゃうんだよね」
 リーデンは肘かけに頬杖をついた。切れ長の目と薄い唇はやや垂れ下がり、憂い顔を作っている。
「……あの、出過ぎた質問かもしれませんけど……リーデンさんはゲズゥのことを快く思ってないんですか?」
 遠慮がちにミスリアが出した質問に対し、リーデンの眉尻がキッと吊り上がる。

「嫌いだよ。自分勝手で、人の話を聴かないところなんて特に」
「勝手……だとは思いますけど、話を聴かないなんてことは――」
 ミスリアの経験からするとゲズゥはいつも遠くを見ていても瞑目していても、なんだかんだで人の話の内容を耳に入れているように思えたので、つい身を乗り出して反論しかけた。

 けれども幾月前からの旅の護衛と十余年来の兄弟とでは関係の深さは比較にもならない。やはり出過ぎた意見なのかもしれない、と複雑な心持ちになった。

「ああ、あの人よくわかんないけど聖女さんの意思は尊重しそうだね」
「それは……どうでしょう」
「ねえ、聖女さん。家族ってのはどれだけ引き留めようとしても、行き先を阻もうとしても、行ってしまうものなんだね」

 憂いを帯びた美青年の言葉にミスリアは、不意打ちを食らったような気分になった。
 この人はまさか――姉が家を発った日の記憶を嫌になるほど何度も思い返してしまう自分と、同じ心境に――。

「そりゃあね。広い世界でたった一人の血縁だよ? 大好きに決まってるじゃん」
 ミスリアは饒舌な絶世の美青年を、ただじっと見つめた。
「どっちが本音なのか訊きたそうだね」

「そう、ですね」
 なんとなく訊く前から答えの予想がついていた。
「どっちもだよ。だからめんどくさいんだ」
 彼はふうっと嘆息した。

「…………大好きだからこそ、勝手なのが寂しいんですね」
 そう指摘すると、リーデンは頬杖ついた姿勢のまま、面食らったように硬直した。
 数秒経つと彼は「へえ」と一言呟き、長い睫毛に縁取られた両目を瞬かせた。

「相手の気持ちをわかっているのに、自分のわがままを無理に押し通そうとしてる。聞き分けできない子供だよね、ホント」
「そんな……」
 ミスリアにも心当たりのある話だ。胸がズキンと痛んだ。

「ちょっと、暇つぶしにさ。昔話をしてあげようか」
 こちらが是非を言う前にリーデンは立ち上がり、奥のイマリナに声をかけていた。数分としない内に低いコーヒーテーブルがソファの前に現れ、その上にお茶一式が広げられた。

「故郷を離れざるを得なかった時、僕は五歳前後だったかな。その頃の記憶を割と鮮明に持っている理由に関してはまた今度説明するよ」
 リーデンは優雅な手つきでティーポットを傾け、カップを満たしていった。

「当の忌々しい出来事については知ってるよね」
「断片的にではありますけど……」
 ミスリアは差し出されたティーカップと小皿を受け取る。

「じゃあ君の認識に、僕の話も付け加えておいて」
 いつの間にか左眼のコンタクトを外していたリーデンは、凄艶な笑みを浮かべていた。
 はい、とちゃんと返事を口にできたかは定かではない。

 左右非対称の瞳が醸し出す輝きは狂気そのもの――
 ――そういう錯覚が見えるだけなのかはわかりかねるが、慌ててミスリアはティーカップを口につけて、お茶と共に不安を強引に胃の中へと流し込んだ。

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14:51:49 | 小説 | コメント(0) | page top↑
29.e.
2014 / 02 / 17 ( Mon )
「いいですよねレティカ様」
「わ、わたくしは構いませんわ。でも明日は用事が入りまして……明後日でよろしかったら」
「ふむふむ」

 レティカ達と連絡方法や待ち合わせ場所について短く話し合ってから、リーデンはミスリアの手を取った。
 指先がすっかり冷え込んでいたミスリアは微かな温もりに驚いた。

「じゃあ、そういうことで明後日ね。戻ろうか、聖女さん。マリちゃんに風呂沸かさせるし、ゆっくり温まってね」
「それでしたら私よりもゲズゥの方が寒そうです、お先に浸からせて下さい」
「寒中水泳なんかするからだよ」
 リーデンは肩から少し振り返り、棘を含んだ声音で兄に向けて言った。

(それも知ってるの)
 大雨の中では否応なしに誰もが濡れてしまっている。なのにゲズゥが泳いだと遅れて現れたリーデンに正確にわかるなど、何か自分の理解の範疇を越えた仕掛けでもあるのだろうか。

 レティカ、エンリオ、レイの三人と挨拶を交わしながらもミスリアはずっと考えを巡らせるのを止めなかった。

_______

 どこ行くの、と弟が問いかけ、街に出る、と兄が答えた所までは、昨日のやり取りと何ら変わりなかった。
 なのにこの剣呑な場面に何故いきなり転じたのか。ミスリアは横から見守りつつも、あわあわと変に指を動かすしかできない。

「そこをどけ」
「話があるから、ダメ」
 ミスリアの目には、出口に向かうゲズゥの前にリーデンがあたかも瞬間移動したかのように見えたのだった。

「俺には無い」
「やっとわかりそうなんだ」兄の言い分を無視して、弟はひとりでに語り出す。「共通点があるってことは前から気付いてたよ。それが何であるのか探るのに、裏付けをするのに、ちょっと時間がかかったけど」

 無言でゲズゥが眉根を寄せた。
 またもや何の話かはミスリアには想像もつかない。この兄弟は以心伝心を極めているのか、よく頓(とみ)に会話を切り出している。
 ゲズゥはリーデンの左を回り、扉の直前まで進み出た。

「仇の最後の一人がね」
「――!」
 歯ぎしりが聴こえたような気がした。
「兄さん、教えてくれたなら僕は迷わず手伝っていたよ」
「……止せ。お前は手を出すな」

「出したらどうするって言うの? 何を渋ってるのか知らないけど、僕にも十分その権利はあるし、別にキレイに生きてきたワケでも無いんだよ」
 美青年の無表情は、それはそれで背筋の凍るものがあった。
 ゲズゥが身体を振り向かせる。

「そういう問題じゃない。手を引け」
 最後の一言の、怒りが込められた囁きは蛇が吐く音とどこかしら似ていた。聴く者を本能的に隠れたい気持ちにさせる音だった。

「断る。別に応援してくれとまでは言わないけど、いい加減、保護者面は止めて欲しいね」
「聞き分けろ!」
 ――ドン!
 ゲズゥの左拳が背後の鉛の扉を叩いた。驚愕と恐怖にミスリアは小さく息を呑む。

(こ、んなに感情を爆発させる姿なんて……見たことないわ……)
 ぐわん、ぐわん、と衝撃音が反響がする間、心は怯えで満たされていった。

 知り合ってからこれまでの間で見てきた表情の内で、間違いなく今のそれが最も恐ろしい。

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23:52:52 | 小説 | コメント(0) | page top↑
29.d.
2014 / 02 / 16 ( Sun )
「重いですよねすみません」と謝れば「……いや、大して重くはない」と短い否定が返る。
 次はリーデンに向かってお辞儀した。
「危ない所を助けて下さってありがとうございます」
「別にいいよー。もう魔物は出ないのかな?」

「はい、えーと……」
 しばしの間、目を閉じて辺りを探った。先刻感じたあの妙な不安は消えないけれど、それ以外の悪寒は無い。
「居ないと思います」
 聖女レティカの同意を得ようと彼女を見やった。

 レティカは新しく介入してきた青年を呆然と見上げていた。薄闇の中でもリーデンの非凡なる容貌を認識できたのだろう。

「……え、ええ。わたくしももう居ないと思います、わ」
 上目をつかいながらレティカは乱れた青銅色の髪をフードの中に押し込めている。リーデンが何者なのかとても訊きたそうである。
「ならいいんだけど」
 リーデンはひとつ軽く微笑んだ。そして特に自己紹介をする気は無いのか、ずぶ濡れの少年の方へと興味の対象を変えた。

 少年が食い掛かりそうな勢いでゲズゥにズカズカ歩み寄っている。
 が、横から伸びた手に掴まれ、宙に足を浮かせることになった。

「じゃますんな! この、このっ」
 少年は自分を捕らえた人間に殴りかかろうとする。
「何の邪魔? なんかこのガキ、ムカつくなぁ。もっぺん河に落としちゃっていい?」
 暴れる少年の攻撃をどうでもよさそうに避けるリーデン。
「ダメです!」
 ミスリアは咄嗟に叫び、次いで怪訝に思った。

(リーデンさんはこの子が河に落ちそうだったって知ってるの?)
 どうして、と自問しても答えに至らなかった。この視界の悪さでは、近付く前からこちらの状況が見えていたとは考えにくい。まさか彼はエンリオ同様に凄く視力が良いのだろうか。

「はなせえええ!」
「はいはい」
 興味無さげにリーデンが子供をパッと手放す。子供は数秒の間じっとりとゲズゥを睨み付けると、そのまま踵を返して走り去った。

「あ、待ってください!」
 呼びかけても遅かった。少年は脱兎に勝る速さで姿を消している。
 怪我をしていたかどうか、帰る場所はあるのか、どうして夜に外に居たのか――訊きたいことはたくさんあったのに――。
 あまりに突然のことで、誰も追うことはできなかった。

「まあ、命を助けられただけでも良いんじゃないですかね」
 やがてエンリオが励ますように笑う。
「そうですね。そう思うことにします」
 ミスリアはゆっくり頷いた。

「にしても……随分と儲かりそうな顔ですねぇ。色んな意味で」
 値踏みするような目で、エンリオがリーデンを眺め回している。
「君は鋭いんだね。それなりに儲かってるよ、うん」
 絶世の美青年は食えない笑顔を浮かべた。

「なるほど。その不思議な飛び道具といい、天晴れです。どちら様か存じませんけど、なんなら一緒に魔物退治に励みませんか」
 意外とエンリオも食えない笑顔を返した。

「いいよー。明日でも明後日でも空いてるから、みんなで踊ろう。あ、僕はそんなに怪しい人じゃないよ。そこの可愛い聖女さんのお友達」
 リーデンは左目だけを瞬かせてみせた。何故かそこでレティカは恥ずかしそうに俯く。

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05:30:33 | 小説 | コメント(0) | page top↑
29.c.
2014 / 02 / 10 ( Mon )
 一方で少年は突っ立ったまま黙りこくっている。
 彼が一度たりともその視線をゲズゥから外さないのが、段々と気味悪く思えてきた。どう考えても命の恩人に対する眼差しとは違う。感謝や憧れどころか、好奇心ですら映し出さない暗い瞳だ。

 そもそもこの子供を取り巻く状況すべてが不審だったのだから、当人までもが尋常ならぬ性質の持ち主であっても不思議はない。ミスリアはなんとなく身構えた。

「皆さま、ご無事ですか?」
 喚き合う護衛達を押しのけて、聖女レティカが進み出る。
「はい。なんとか」
 ミスリアは自らの護衛の様子を窺いつつ答えた。ゲズゥは例によってあさっての方向を見つめている。

「…………来た」
「はい?」
 彼の不可解な呟きに聖女レティカが訊ね返す。

 その時、大地が轟いた。
 地面が盛り上がり、ミスリアは数ヤードほど宙に投げ出された。大地の亀裂からは獣の舌を思わせる形の巨大な塊が伸びる。レティカ一行が咄嗟にその攻撃から飛び退くのが見える。

「きゃあっ」
 ミスリアは背中から着地した――草の感触からかけ離れた、黒い物の上に。
 そんなことには構わず、急いで舌の魔物を探した。

 おそらくは魍魎の類であるそれは正面2ヤード先に居た。
 赤い塊は一度後ろへ跳ね返ると、今度はミスリアめがけて蠢く。驚異的な伸縮力である。

 避ける余裕が無い。ミスリアは反射的に顔を逸らそうとした――
 ――刹那。銀色に輝く物が三度、視界の端を横切った。ぞっ、ぞっ、ぞっ、と短い音を立ててそれらは通り過ぎる。

(今のは……?)
 顔を上げると、そこには輪切りにされて地に崩れる魍魎の姿があった。
 そして更に向こうに、明るい色の、裾の長い服に全身を包んだ人影がいる。ミスリアは相手の爪先から顔の方へと視線を上らせ、忘れがたい顔を見つけた。

「リーデンさん!」
 絶世の美青年は不機嫌極まりない様子でこちらを見下ろしている。こういう表情はゲズゥに少し似ているかも、とミスリアは思った。
 勿論、どんな顔をしていても美青年の美しさは損なわれない。ついでに雨に濡れた銀色の髪が肌にくっついていて、色っぽさを引き立てている。

「何? その格好。無様すぎるんだけど」
 緑色の瞳はミスリアではなくその背後を睨んでいた。
「そうか」
 と、無感動な声が返事をした。

 自分が何を下敷きにしているのか薄々勘付いていたミスリアは、その声を聴いてすぐに立ち上がろうともがいた。

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08:38:38 | 小説 | コメント(0) | page top↑
29.b.
2014 / 02 / 04 ( Tue )
 無我夢中に綱にしがみついていたミスリア・ノイラートは、足場が崩れていよいよ自分まで河に落ちそうになった所までは覚えている。その次の瞬間からの記憶があやふやだった。
 とりあえずは濡れた草の上に座り込んで目を瞑り、荒い息遣いが落ち着くのを待った。

「何も訊くな」
 頭の上で疲労に彩られた声が静かに呟く。
「……はい」
 その一声から何が起きたのかを思い出したミスリアは、ゆっくり目を開けた。

 落ちそうになったのをゲズゥが片腕で抱き止めてくれて、そのまま彼はどうにかして岸を上がったのだった。どうやったのかは見えなかったし、訊かないで欲しいと言うのなら別に知らなくてもいいと思う。
 未だ抱き抱えられた形のままのミスリアは、自分が知らずしがみついていた腕が寒さに震えていることにハッとした。

「……助けようとしたのに、結局また私が助けられてしまいましたね。いつも無茶をお願いしてすみません」――言ってから、呂律の回りにくい舌とガチガチ鳴る歯に気付き、自分も寒さに震えているのだと知る。
 ふいに、ミスリアはすぐ傍に濃い瘴気を感じた。

(まだ魔物が居る……?)
 ミスリアはゲズゥを仰ぎ見て――そして目を瞠った。
 彼の左眼から瘴気が漏れているように見えたのである。しかもミスリアには聖女レティカのような人を囲む空気を視覚化する能力は無い。目に見える程の瘴気となれば相当に濃いことになる。

(でも訊かない、今は何も訊かないわ)
 ミスリアは小さく頭を振る。

 ゲズゥが何か答えようと唇を開きかけて、途端に後ろを振り向いた。視線の先には彼が助けたばかりの少年が佇んでいた。
 汚れた衣服の下には骨と皮しかなさそうな細すぎる少年は、虚ろな眼差しでゲズゥを凝視している。

「危ない!」
 またしてもエンリオの警告の叫びが響き、立ち上がりかけていたミスリアは身を硬くした。少年の頭部めがけて小さなエイの魔物が急降下している。
 すぐに魔物は横合いから飛んできたナイフに撃たれ、軌道を逸れた。

「聖女ミスリア! 大丈夫ですか!?」
 レティカ一行の内、エンリオが一足先に駆け付けたらしい。彼は暴れるエイを踵で何度も踏みつけ、その動きが完全に止まったのを確認してからナイフを引き抜いた。

「遅れて申し訳ないです。レティカ様はああいうとこ頑固でしてね、手間取ってしまってすいません」
「いいえ、彼女の言い分もわからなくはありませんから」
「ボクは気負い過ぎだと思うんですよね……」
 エンリオが白いため息を吐く。

 彼の手を借りてミスリアは立ち上がった。
 隣のゲズゥは自力で立って服をはたいては着直している。と言ってもシャツなどは命綱に使われたので、素肌にコートを羽織っているだけになる。

「兄ちゃんたち、この町のひと?」
 少年が唐突に口を開いたので、一同の注目がそちらに集中した。少年の長い髪から雨水がしきりに滴っている。
「どーなんだよ」
 虚ろな目にして虚ろな声だと、ミスリアはふと感じた。

「いえ、旅人ですけど――」
「あんたじゃない、でかい方の兄ちゃん」
「んなっ! 小さくて悪かったな!」
 興奮のあまりか、エンリオの丁寧な口調が崩れかける。

「エンリオ、度が過ぎた卑屈も流石に見苦しいぞ。しかも子供相手に声を上げるなど」
 やっと到着したレイが仏頂面でそう言うと、対するエンリオは口元をひくつかせた。
「レイ……貴女には小さい人の苦労なんて一生わかりませんよ」

「わからないし、わかりたくもない」
「ぎいいいっ! レイなんて来世はナメクジにでも生まれ変わればいいですよ!」
「よく吠える子犬の言は聴き取りづらくてかなわないな。元より私は転生など信じていない」

 強面で寡黙だと思っていた彼女は何故か、エンリオの相手をする時だけ毒舌が発揮されるようだった。表情筋は固定されたままではあるけれど。

(あれだけ動き回った後なのになんて元気な人たちなの……)
 などと、ミスリアは呆れ交じりにこっそり感心していた。


この人たちこんなにうるさくするつもりはなかったのだよ……勝手にこうなったのだよ……

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10:03:58 | 小説 | コメント(0) | page top↑
29.a.
2014 / 01 / 23 ( Thu )
 木の根が土から抜け出す音に、慄然とした。
 一瞬たりとも無駄にできない。

 河の中に倒れた大木の上を這って進んでいたゲズゥは右腕を伸ばし、やたら落ち着いた様子の子供を掴み上げては後ろの岸へと思いっきり投げた。
 そして激流に喰われつつある樹から転がり落ちて、自分自身は何とか滝を落下せずに済む。

 破いた衣服を結び合わせて作った即席の命綱が、ピンと張ってゲズゥを揺さぶった。己の腹部と近くの樹を繋げただけの頼りない物だ。

 流されていた大木が視界から消え、次いで大きな衝突音が響く。
 川底が切れ落ちる先がここからだと少しだけ見える。高さは5ヤードも無いのがかえって危険に思えた。落ちた先に尖った岩でもあれば、頭蓋骨を割って終わりだ。運良く落ちた先が深ければ即死は免れるかもしれないが、逆に溺れる危機が増す。

 水を呑み込まないよう注意しつつ、とにかく綱を上って岸に戻ろうと努めた。指が寒さにかじかんで思うように動かない。川水の冷たさは刺すような痛みをもたらし、今にも四肢の自由を奪わんとする。

 抗う時間が長ければ長い程、体力を消耗してしまう。流れに身を任せられたらどんなに楽なことか。
 それでも無理矢理にでも手を動かすしかない。指先ではなく掌に集中して力を込め、拳を握るようにして綱を掴む。

 河岸に手が届きそうでまだ届かない距離に達した途端、命綱が軋む気配を感じた。布が破れそうなのか――。

 ふいに小さな影が岸を降りてきた。
 影の正体、聖女ミスリアは破れかけている箇所とゲズゥの間に入り、綱を握って引こうとしている。だが先程もう一人の聖女が言ったように急傾斜で足場が悪く、丸く滑らかな石の上を白いブーツが滑っていく。

 どう考えても無謀な試みだ。

「はなせ」
「いやです」
 大きな茶色の瞳に映った頑固さと必死さに、何故かゲズゥは焦りを覚えた。

「放せ! 俺とお前の体重比じゃどうにもならない」
 気が付けば声を張り上げていた。ただでさえミスリアは非力だ、綱を引くどころか摩擦で掌が擦り剝けているに違いない。
「嫌です! 放しません。私だけが生き残る結末なんて、受け入れませんっ……!」
 泣きそうな声が返る。

 だからと言ってこのままではどうしようもない。
 二人とも流されて絶命、となってはそれこそ最悪の結末だ。

 残る時間はせいぜい五秒。岸にさえ手が届けば或いは助かるだろうか。
 それを成す為の手段を、今は一つしか持っていなかった。もはや渋っている場合では無い――。

 ゲズゥ・スディル・クレインカティは脳から己の「左眼」に向けて、とある命令を発した。
 一瞬もしない内に「左眼」が応えた。

 ぎゅるり、といった形容しがたい感触と共に左の眼窩に違和感が芽生え――次には、違和感ごと「左眼」が身体を離れていった。

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14:28:26 | 小説 | コメント(0) | page top↑
28.i.
2014 / 01 / 21 ( Tue )
 作戦がうまく行ったことに安堵し、ミスリアは僅かに気を抜いたのか、急に寒さに震えた。
 ――しまった、と思っても時既に遅し。
 展開してあった聖気はフッと消え、ミスリアは地面に崩れた。

(もう一度同じことを繰り返すには時間がかかるけど……)
 周囲を見回し、その必要が無いことを確認する。

 あれだけ無数に居た敵の数がすっかり減っている。立ち上がり、フードを被り直してから、ミスリアは残った魔物を全て浄化していった。
 振り向けばレティカ達の方もあらかた片付いているようだった。

「素晴らしい機転でしたわ、聖女ミスリア。あのような力の使い方、まるで秘術です」
「いいえ。そちらこそ、見事な連携でした」
「それくらい当然ですわ」
 そう答えるレティカの声はどこか嬉しそうだった。

「――あああああッ! アレ!」
 突然の叫びに、ミスリアは肩を跳ねあがらせた。
「今度は何ですか、エンリオ。敵でしたら騒がずに倒してくださいな」
「違いますレティカ様! 上流!」
 エンリオは河が流れて来る方角を指差した。

「上流が何です? 何も不審な物は見当たりませんわよ」
 ちょうどエンリオが指す方向は樹や岩などの視界を遮る障害物が無かった。雨の中目を凝らせば遠くまで見える、はずである。
「ずーっと先の、川底が急に切れ落ちて滝になってるトコですよ! 倒れた樹に子供がしがみついてます! 今にも落ちそうです!」

「ええ!?」
 今度はミスリアが大声を出した。自分には何も見えないけれど、エンリオがそう言い張る以上は無視できない。
「助けなければ!」
 何故こんな時にそんな所に子供が居るのか、考えるよりも行動が先だ。ミスリアは上流に向かって走り出した。

「レティカ様、ボクたちも――」
「いいえ」
 制止の声は聴く者が思わず怯むほど厳しかった。ミスリアも無意識に足を止める。

「許しませんわエンリオ、レイも。昼間に視察に来た時を覚えていますでしょう? あの辺りの河岸に足場はありません。流れも速く、樹が河の中に倒れたと言うのなら、助けるのは困難です。私一人ならまだしも、進んで貴方たちの命を危険に晒す訳には行きません」
「そんなの、レティカ様一人で行かせるなんてもっとダメです!」
 エンリオは抗議した。

「貴方たちの命は私が背負っているのです。軽率な真似はできませんわ」
「でも、行ってみれば案外いい方法が見つかるかも……」
「なりません。苦しいでしょうけど、堪えて」
 二人の言い合いは尚も続いた。

 護衛の命を背負っているのは自分だという唐突な自覚に戸惑い、ミスリアは逡巡した。それはとても今更な気がしないでも無いけれど。どうすればいいのか決められないまま、黒衣の青年を見上げた。

「くだらない」
 ゲズゥは迷いを一蹴する一言を発した。そのままミスリアを片腕で抱き抱え、豪雨に濡れそぼったほとりを走り出した。
 言い争う声が背後に遠ざかる。

「どう言う意味ですか?」
「お前に救われなければどのみち俺は死んでいた。後にお前の為に死んだとしても、何かが失われる訳でもない」
 わかりそうでわからない理屈に、ミスリアは首を傾げた。

「リーデンさんはそう思うでしょうか」
 先刻の彼の苛立った様子を思い出し、訊ねる。
「アレ、は……。恨まれないように逃げるんだな」
 どこか投げやりな返答に、ミスリアは頬を膨れた。

「恨まれませんよ。貴方は死にませんから」
「……そうだな。お前は、一人では生きていけない」
「事実だとしても、そんな言い方しなくたっていいじゃないですか」
 そう言ってまた頬を膨れさせた。

 眼前に、件の滝が迫っている。
 エンリオが叫んだ通り、倒れた大樹に十歳未満の男の子がしがみついていた。しかし樹脂を掴む手から力が抜けているのだろう、少年は少しずつずれ落ちているように見えた。このままでは奔流に飲み込まれるのも時間の問題だろう。

 どうやって助ければ――ミスリアは視線と思考を必死に巡らせた。



毎度いきなりですがこれで終わりです。
なんか新キャラばっかですいません。

あとがきは今回はなしっす。では29でお会いしませう~

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