32.g.
2014 / 05 / 20 ( Tue ) 彼らの言う通りにした方が得策だということはわかるし、言い分を無条件に信じても構わない。けれどそれを受け入れるのは、集団に対する無責任になってしまう、とどうしてもミスリアは考える。 そう抗議したら、リーデンはフッとため息をついた。彼はエンリオと共に何を発見したのか手短に説明し、最後に問うた。「もう一つだけ情報確認いい?」 「はい」 「人里の方に降りて来るのではないかと危惧されているけど実際はまだそんなに来ないんでしょ?」 リーデンにそう質問されて、ミスリアはついエンリオを見やった。自分よりも自信を持って答えてくれそうだと感じたからだ。 「そうですね。此処ではこれだけの大群が出て来るのに、野田近くで目撃されたのはせいぜい二、三体と聞いています」 エンリオはこちらの意図を汲み取った。 「つまりいくら数が多くても、ほっといたって河から遠くは行かないんだね。理由はもしかして、河から長く離れられないからじゃないの? 水気が無いと消えるとかベタな何か」 「あ、ああー! すごい発想力ですねアナタ!」 驚嘆にエンリオが震え出した。 「川底とやらは」 無表情にゲズゥが言うと、リーデンが腕を組んで答えた。 「そうだね。川底と言ってもどこからどこまでが魔物なの? ソレが広がりつつあるから、ヤバイんじゃない。長く離れられないと言っても、本体が大きくなれば、結局は分離した個体が襲える範囲も広がるってこと。それに、限定要素が水辺ってだけなら、分離した個体も普通に泳いで南……遠くまで行けるね」 「そんなの、一体どうすれば……」 ミスリアは想像してみた――封印する以外で、川底に巣食う巨大な魔物を倒す方法を。 (聖気と結界を組み合わせれば) まず聖気を施す人員を結界で守り、本体まで近付かせる。そして魔物全体が浄化されるまで、根気良く聖気を展開し続ける。 そこまで考えて、二つの制限に行き詰まる。 ――敵の数が多過ぎて、結界だけでは作戦の要となる人物を護り切れなかったら? 結界の外から魔物狩り師を待機させればどうにかなるだろうけど、それではどうにもいたずらに犠牲が出そうな作戦になる。 ――そして、浄化しなければならない魔物が大きすぎたら? 浄化し切れるまでの時間が長ければ長いほど、こちらに不利な状況になる。 (こうなれば聖女が二人だけでは心もとない) 準備不足だ。何度考えてもその結論に至る。 「討伐隊を引き上げるように、司教様と話してみましょう」 意を決して、ミスリアが提案した。 「そうしましょう」 エンリオも同意し、共に走り出す。背後にはゲズゥたち兄弟がついて来た。 突然、すぐ隣で走っていたリーデンが、躓いたようだった。いつも軽やかな足取りを繰り出す彼の足がもつれることを意外に思い、ミスリアは振り返った。 「どうしました?」 「ぐっと胃を握り潰された感じがしてね。でも、僕じゃない。兄さんの動揺が伝わったんだよ」 「動揺? ゲズゥの?」 ますます意外に思って、長身の青年の姿を探した。彼は裾の長いコートをはためかせ、一対のT字型の杖に体重を預けたまま、河の方面に黒い眼差しを注いでいる。感情が欠落したかのような表情は、心の内を容易に明かしたりしない。 目線の延長線上に居るのは低い人影。伸び放題の髪に、ボロボロに汚れた衣服。乾いた唇からはとめどない謝罪の言葉が漏れていた。 「仇討ち少年!?」 他に何と呼べばいいのかわからないので、気が付けばミスリアはそう叫んでいた。 どうしてまたこんな危険な所に居るのか。いつの間にかこの大人数の中を通り過ぎて行ったのか。だが彼のそれは、生きている人間の気配とは言い難い、生命力に乏しい空ろな存在感だった。通り過ぎていても気付けないのは仕方がない。 「ごめんなさい。ごめん、おばさん。ごめんな。おれ、仇をうてなかったよ。だって、人を殺すのは、怖い。こわいんだよ。むりだった。ごめん」 少年の口元が歪な笑みの形を作った。 「もういいや。仇は、どうでもいい。あいたいよ。あえるよな? だって……」 泣きそうなほどに上ずった声だった。 「おれ、知ってるんだよ。死んだ人は魔物になるんだ。だからさがすんだ。きっとまたあえる」 今にも入水しそうな雰囲気の、少年の昏い呟きを聴いてミスリアは鋭く息を呑み込んだ。 |
32.f.
2014 / 05 / 15 ( Thu ) 翼幅が四フィート程度のエイの上は狭い。 幸い今は物理法則を無視した魔物が重力に逆らってくれているおかげで、河の中に逆戻りしなくて済んでいる。二人仲良くあの渦の中に落ちたらどうなるのかなど、知りたくはない。こちらの心配を察したのか否か、エンリオが近くの別のエイに向かって跳び、そのピンと張った尾を掴んだ。 彼は飛び移った勢いのままスイングし、尾を離してくるくると宙を舞って行った。リーデンもその後に続き、エイの背中を踏み越えて岸に戻った。 直に土を踏みしめるのには何とも言えない安心感を覚えた。 振り向けば、エンリオが用無しになった魔物たちを次々とナイフで撃ち落としていた。それが終わると、彼はリーデンに向き直って一礼する。 「助かりました。見かけによらず腕力があるんですね」 「よく言われるよ。君はなんていうか、曲芸師みたいだね。雑技団でもやっていけそう」 「わかります? 実はサーカス団で育ったんですよ」 「へえー」 河の方面からを目を離さずに、二人は戦陣の方へと一歩ずつ慎重に後退る。 「で、何かわかったの」 リーデンは早速本題へ移った。 訊ねた途端、エンリオの童顔が翳った。 「かなりまずいかもしれません」 「具体的にどうまずいの?」 「…………あの一帯の川底そのものが、魔物です」 蒼白になった顔でエンリオがぐっと唇をかみ締めた。 「は? 川底が生きてるって?」 川底に潜む魔物に足首を掴まれたのではなく川底の触手に捕えられたのか、と奇妙なイメージが脳裏に浮かび上がる。 「いいえ、生きてるって表現は不適当ですが……。パッと見ただけでは、川底がそうなのか単に底に横たわっている巨大な魔物の塊が在るのか、どちらとも言えませんね。ただ、敵が無尽蔵に分離して現れるのは間違いありません。あの塊をどうやって討伐すればいいのかわかりませんけど、こうやって分離してきた魔物を倒していても底が尽きることはない……そんな予感がします」 「なにそれ、普通にやってても無意味じゃん。もう忌み地でいいんじゃない」 エンリオの話は、聞くだけで脱力してしまう、無限に終わらない戦いを示唆している。 何故だか首の後ろがぞわぞわと粟立った。野性の本能が、その場を離れろと警告を出している。 「外的要因が見つかれば――」 「おっと、伏せてね」 エンリオが顎に手を当ててひとりごちるのを遮り、リーデンが右の踵を軽く地に叩きつけた。ブーツの爪先に仕掛けた刃物を発動させる為だ。 素直に身を伏せたエンリオの頭上で回し蹴りを繰り出す。 降ってわいた魚の魔物が真っ二つに裂け、どろどろとした液体が四方に飛んだ。 横から来るもう一匹が、リーデンが手を出すまでも無く、木製の杖によって殴り飛ばされた。 「引き際だな」 いつの間にか近くまで来ていたゲズゥが、静かに言った。リーデンと似た左右非対称の瞳は、ただならぬ空気を湛えていた。 「同感だよ」 これまでの短い人生経験からして、野性の本能には従うべきなのは重々承知していた。兄まで同じ危惧の念を抱いているというのなら、選択肢は一つだけ。 他の誰が何と言おうと、この世には確かに手を出してはいけない領域というものがある。見極められなかったら、死あるのみだ。リーデンは魔物狩り師の美学はよく知らないが、戦っても勝てない相手と対面したことはいくらでもある――それが人間にしろ、人間以外にしろ、勝てないのなら戦わないのが正解だ。もしくは相手の土俵から引きずり出せるならそれもいい。死を覚悟して戦うのは、本当に逃げ場が無い時だけ。 「引き際って、どういうことですか……?」 ゲズゥの後ろにくっついてきていた聖女ミスリアが心配げに訊ねた。それにはリーデンが淀みなく答えた。 「多分だけど、長居したらその内ヤバイのが出て来る。だから逃げるんだよ、この地域の討伐隊全滅記録に組み込まれたくなかったらね」 |
32.e.
2014 / 05 / 12 ( Mon ) 跳んだり跳ねたりしながら投げナイフを操る、あのすばしっこくて小柄な男を猿と重ねるのは容易である。 ゲズゥに「何でお猿さんを?」と訊ねると、「目が良いから」と答えが返った。リーデンは納得してその人物を呼びに行った。 「お猿さん、お願いがあるんだけど」 「猿!? ボクのことですか」 「うん。君、目が良いんでしょ」 「それなりには良いですよ……」 猿と呼ばれたことに不平があるのか、エンリオは口を尖らせた。それには構わずに、一緒に河を見に行って欲しいと話したら、彼は二つ返事で同意した。彼なりに何か引っかかっているらしい。 「これだけの数が一斉に現れるからには、統一された意思、つまり『源』があると考えるのは当然です。そこから分離した個体が陸に上がって人間を襲っている」 「どこかに大きなお魚さんが居るってことだね」 「ひとつの例ですね。昨日も探したんですけど、これといったモノは見つかりませんでした。今日はどうでしょうね」 リーデンとエンリオは、岸まで歩み寄った。 「暗くてイマイチ何も見えないね」 人並み以上に夜目の利くリーデンでも、水の中までは見えない。視線で遠くまで探るが、やはりダメだ。 隣のエンリオは黙りこくっている。右から左へとゆっくり頭を巡らせながら、両目を細めたり見開いたり、を何度も繰り返している。 彼の目線の先を辿ってみても何もわからなかった。 一分後、エンリオが口を開いた。十時の方向を向いている。 「…………左、あっちの方で水底が薄っすら光ってるように見えます」 「んー、ゴメン、僕には見えない」 「水に入って確かめても?」 その提案に関してリーデンはしばし考え込んだ。自分にはそこまでする必要があるように思えないが、なんとなく、兄の視線が後ろから注がれているのを感じ取った。 おそらく根源を絶たなければどれだけ討伐隊を送り込んでも無駄だ。民の不安とやらは消えない。 リーデンはそんなものはどうでもいいが、魔物の根源の正体には興味がある。 「わかった。僕は入らずに岸から援護するけど、それでもいい?」 「十分です」 そういうことに決まったので、二人は件の場所に近づくように左に少しずれた。水に入る前にエンリオが余計な外套や装備を脱ぎ捨てている。 水面は、先程魔物の大群を吐き出したとは思えぬほどに凪いでいる。 リーデンは両手それぞれに武器を用意して待った。光っているのがどの辺りなのか、エンリオの泳ぐ方向を確認しながら探す。 何も見えないのは変わらないが、エンリオが止まったので、大体の位置は掴めた。 彼は立ち泳ぎをしながら水底をじっと睨んでいる。 潜るべきかどうか迷ってるのかな、などと考え、引き続き見守っていると―― ――ゴボボボボ。 渦でも発生したのかと疑わせる、水が吸い込まれるような耳障りな音がした。次いで、エンリオが叫び声を上げて暴れた。目に見えぬ敵に引っ張り込まれまいと、溺れまいと抵抗している風である。 (これはヤバそう) 手を貸してやるべきなのかもしれない。 リーデンは素早く辺りを見回し、河の中で足場になりそうな物を探した。残念ながら何も見つからない。 束の間逡巡していたら、巨大なエイの形をした魔物が四匹、水の中から飛び上がった。 「なんて素敵なタイミング」 巨大な魔物たちは低空飛行をし出した。リーデンにとっては足場にしか見えない。 高く跳び上がり、四匹の魔物を順番に踏み越えて行った。四匹目の上に立つと、振り落されないように身を屈め、左の袖に隠し持っていたナイフを取り出した。やはり振り落されない為にエイの背中にナイフを突き刺し、右手で自身の帯を引き抜いた。 リーデンが日頃から身に着けている帯は二本ある。普段、他人の目につく上の帯は鉄輪を提げる為につけているものであって、服を調整する為に着けている帯はその下だ。より長い下の帯を引っ張り出して、エンリオに届くようにと垂らした。 パニックに陥っていながらも、エンリオはすぐにこちらの意図を察した。手を伸ばし、手袋をした手で帯を握る。 水中の渦巻きと方向を同調させてぐるぐる飛ぶエイの上で、リーデンは唇を噛んで腹に力を入れた。目が回る前に、急いで帯を引き上げる。 |
32.d.
2014 / 05 / 08 ( Thu ) 青白くゆらめく魚の大群が夜空に浮かび上がっている。正体は、空を飛ぶべきではない、魚の形をしただけの人を喰らう化け物だ。 リーデンはおぞましい光景を討伐隊前列の右翼から見上げた。どこからか攻撃の合図たる声が聴こえたので、間髪入れずに動き出す。 狙いを定めてから手首を捻らせるまでの間(ま)は誰よりも短い――と自負したい所だが、同じ右翼からナイフを投げるエンリオも、なかなかに速い。 (しかも僕よりも狙うのが巧いかも) うじゃうじゃ居る敵の大群の中から標的を選び、眉間を正確に貫いている。ちなみにリーデンが狙ったのはあの間抜け面の顎下辺り。狙いは的中し、そのまま仰角四十五度に頭部が削がれる。 「替われ!」 前列の戦闘員が魔物たちに飛び道具を浴びせた直後、後列から号令が上がった。それには素直に従い、一列目が今度は二列目になる。 スリングショットや弓矢などの武器が再装弾されるまでの時間を、他の者たちで稼ぐということだ。 武器の性質上、装弾のラグなどリーデンとは無縁だった。加えて彼は両利きなので、片手で攻撃を繰り出す間にも空いた手は次のチャクラムを指の間に挟むことができる。しかもベルトにかけている鉄の輪の数はゆうに五十を超えていて、回収に手間取る必要も無い。 今は一応混乱を避ける為に、本来のペースよりも手数を減らして周りと攻撃のタイミングを合わせてはいるが。 (三、四列でも組んでも良かったけど。飛び道具を浴びせる波が続けざまな方が効果的なのに……人数的に幅が足りなくなるか) 待機中にそんなことを考えた。 魚どもが一直線に襲ってくるならまだしも、奴らは広い範囲をデタラメに飛んでいる。 偶然か運悪くか、今晩集っている人員の中では飛び道具を扱う人間よりも接近戦に長けた人間の方が多かった。 この人材のバランスでなんとか一体でも多く倒すことを念頭に置いて、フォーメーションを決めたのだろう。 (あと、敵の進軍にも中距離攻撃が出て来る可能性アリ、だっけ) リーデンは宵闇の中で薄く光る異形の群れを凝視した。 攻撃された魚たちはギャーギャー鳴きながら身をよじる。第一波で撃ち落とされなかった個体が目に見えて膨らんでいった。 次に、魚たちはビュッと唾液のようなものを吐き出した。 その間、唾液を打ち出す時の魚たちは進行が止まっている。 ――聞いていた通りの現象だ。 作戦が実行される当日までに、何度か下見に来た人間が居る。あらかじめ得た情報が皆に伝えられたため、準備は万全だった。 接近戦派の人たちが盾や得物を駆使しておそらく毒性の唾液を退ける。唾液攻撃がおさまった頃には装弾も終わり、前後の列がまた入れ替わった。それらを何度か繰り返す内に、大群はすっかり数が減って形を成さなくなっていた。進行を許してしまった分は剣や槍や斧などによって戦士たちが豪快に片付けている。 (はぐれモノも居るけどね) 片目を瞑って休ませ、リーデンは右目だけで非戦闘員エリアの方を向いた。 聖人・聖女たちが特別魔物に的にされやすいという話は兄から聞かされている。案の定、結界に守られた高嶺の花を目指して魚たちが見えない壁に挑んでいる。 同じ箇所をあまりに何度もぶつけられば結界が綻びることもあるのだろう。司教やレティカが緊張した面持ちで身構えている。ミスリアだけが落ち着いた眼差しで見守っていた。 (数は多くても一体ずつは大したことないし) リーデンは両目を開けて、次に起きた一連の出来事を観察した。 小さな穴をこじ開けようとしている魚たちの前に、大きな人影が立った。 T字型の杖の先端が地面に突き刺さる。 右の杖と脚に体重を預けたゲズゥは左脇下の杖を地に引きずった。 それが地から抜けた瞬間、振り上がる速さが一気に加速し――結界越しに数匹の魔物に強烈な衝撃を見舞わせた。問題はそうしてあっさりと解決した。 やがて、黒い生地の装束と赤い帯そして頭皮にぴったりくっついた丸い帽子を身に着けた初老の男、司教が声を張り上げた。 「聖女レティカが落ちた魔物の浄化に回ります、手の空いた者はサポートして下さい! 怪我をされた方々は、聖女ミスリアの元へ!」 次に敵の大群が押し寄せるまでの時間を有効に使って、体勢を立て直す手筈である。全員が忙しなく動き回った。 リーデンは怪我をしていなければ、レティカのサポートをしたいとも思わない。なので人の集中している範囲から離れ、兄に「話しかけ」ることにした。 ――君の経験上、今の内にやった方がいいこととかって何か思いつく? よく夜に出歩くリーデンは何度も魔物退治を経験しているが、あまり細かいことはわからない。適当に切り刻んでいただけで、「浄化」という対処法についてもさっき初めて聞いたくらいだ。 返事が来るかは定かではない。気にせずにリーデンはのんびり歩いた。 ――根源を見に行け。あの猿みたいな男も連れて行くと良い。 返事があった。 根源とは河のことだろうか。猿みたいな男とは誰を差しているのかと少し考えて、ああ、とリーデンは答えに至った。 弓兵が一撃繰り出す間にエンリオやリーデンは二・三発飛ばしてるみたいなペースでしょうか。弓の方がとぶ距離は長いでしょうけど…… |
32.c.
2014 / 05 / 04 ( Sun ) 「記録に無いだけかも。古すぎたとか」
「古い事件でしたら今になって魔物の数が増えるのはどうしてでしょう」 解せないと言った具合にミスリアが首を傾げている。 「そんなの君らにわからないのに僕にわかるわけないし。外的要因があるんじゃない」 「……構いませんわ。教団が正式に助勢して下さらなくても、わたくしたちがおりますもの。町民たちの不安の芽を摘んで差し上げましょう。聖職者とはその為に存在しているのですもの」 連日大勢の聴衆の前に立って演説をしてきた癖だろうか、レティカは声に力を込めて言い張った。彼女がぐっと拳を握ったのを、リーデンは見逃さなかった。 「サムイ。意気込むのはいいんだけど、そういう台詞からは無理してる感がヒシヒシと伝わるね」 目を細めてそう言うと、聖女レティカはその場で凍り付いた。 近くに来ていた彼女の護衛二人がそれぞれ身を乗り出した。たまたま、より近くに居たのがレイという名前の大柄な女の方だ。 「貴様、レティカ様を愚弄するか」 リーデンの顔めがけていかにも重そうなロングソードをスラリと薙いできた。 「するかも何も、もうしちゃったよ。あは」 彼は剣を素手で掴む。左手の親指・人差し指・小指にそれぞれつけている指輪が、ちょうど刃に当たってるので手を切ることはない。 「遠慮を知らない物言い、協調性に問題あり」 レイはただでさえ強面な顔を更に険しくしながら、大きな声で告げた。不穏な空気に気付いて司教とそれを取り巻く人間が注目を向けてくる。なるほどこうやって退ける気か、とリーデンはニヤニヤと口元を吊り上げる。 「大丈夫、戦闘が始まったら協調性を出すよ」 「何が大丈夫なものか」 レイは尚も抗議したが、それを制したのがエンリオという小柄な男の方だった。 「作戦に支障が出なければそれでいいんですよ」 女の方が先に怒りを見せたからか、エンリオの方は冷静さを取り戻していた。確か、最初に会った時に魔物退治に誘ったのもコイツだった。 「しかし、レティカ様を……」 二人の内で実直な性格で忠誠心が強いのはレイの方か、とリーデンは評した。 エンリオは「大したことない」とでも言いたげに手を振っている。それを合図と受け取った司教とその他の魔物狩り師の視線がリーデンから外れる。 「貴方にはレティカ様の言葉が虚栄に聴こえたんですか?」 「どちらかと言えば思い込もうとしてる感じかな。聖女とはこうあるべきだと考えてそうふるまっているだけで、本当に自分にその道が合ってるのかわからず、自分の実力を自分ですら信じられていない」 思ったままに、エンリオの問いに答えた。それは今のやり取りだけでなく、これまでの彼女の言動やミスリアに聞いた話も取り入れての考えだ。 「かもしれませんね。過度に失敗を恐れているのもその所為でしょう」 エンリオは深く頷いた。彼は所在無さげに佇むミスリアとも丁寧に目を合わせて話す。 「構いませんよ、それでも。思い込もうとしているだけでも、ボクらはレティカ様の人生観が好きなんです。それに殉じてもいいくらい」 乳白色の瞳は真摯な光を灯していた。 「……私はエンリオほど難しく考えていない。レティカ様にはご恩があるからついていくと決めているまでだ」 剣を引いたレイが呟く。 「まあそういうのも良いんじゃない」 リーデンは生返事を返した。レティカのことは思いついたから指摘しただけであって、別に他人の在り様にそれほど興味がある訳ではない。 主人たる聖女が半端な気持ちでも、従者たちに迷いが無いのなら三人組はそれはそれでうまく機能するのだろう。 聖女レティカは潤んだ瞳で、護衛たちに感謝の意と自身の不甲斐なさに対する謝罪を述べている。護衛たちの方は、気にしなくていい、一緒に居られるだけで光栄だ、みたいな語句を並べてなだめる。絆の強さが再確認される感動的な場面――になるのだろうか。 (さて、なんか他にも訊いてみたいことがあった気がするけど、もういいや) 面倒臭くなって、リーデンは自分の持ち場に戻ろうと決めた。夕焼けの空は開始時間が近いことを示している。 踵を返して歩き出す。するとふと少女の呟きが聴こえた。 「自分の力を自分で信じられない……ですか」 「ん?」 「あ、なんでもありません」 振り返りざまに訊き返すも、ミスリアは頭を振るだけでそれ以上は何も言わない。 その後ろに佇むゲズゥは、まるで聞き耳を立てて一部始終に注意していたかのように、己の護衛すべき対象をじっと見つめていた。 |
32.b.
2014 / 05 / 03 ( Sat ) 「そっちの聖女さんもおいでよ」
と、笑って声をかけてみた。 二人の聖女が歩み寄る。人の群れはいつの間にか司教を囲むことに決めたらしく、聖女たちを追わなかった。 「ねえ、僕を怖がってるのはどうして?」 目を合わせようとしないレティカに軽い調子で訊ねると、彼女は視線をきょろきょろさせた。彫りの深い顔が僅かに紅潮し、白い手は首の横で束ねられた青銅色の髪を撫でている。ミスリアはともかく、この女性に目を逸らされるようなことをした覚えはない。 「……ありのままに答えても?」 「どうぞどうぞ。傷ついたりしないから」 微笑で先を促すリーデンは、勿論ちゃんと、己の顔立ちの破壊力を理解していた。だからといってそれに執着があるわけではなく、使い方を心得ているだけである。 美しさとは武器であり権力だ。使う為に存在するものである。が、たとえ使えなくなっても武器が一つ減るだけなので、彼は美貌を維持する為に右往左往しようとは思わないし、顔に傷を負ったとしても嘆いたりはしない。 レティカの碧眼がリーデンを上目づかいに見上げる。そしてすぐにまた顔を逸らした。 「見た目の輝かしさと相反して、貴方の周りの空気が……渦巻いていると言いましょうか、ねっとりしていると言いましょうか……あまり見ていると吐き気を催しますの」 「周りの空気?」 思わず訊き返す。するとレティカは自分が生まれつき人の周りの空気が色がついて見えるという話をした。 「じゃあ人の業が見ただけでわかるってワケだね。業っていうか生き様か」 「え、ええまあ、簡単に言えばそうですわね」 「あははは。ごめんねー、業が深くて。じゃあ無理にこっち見て話さなくてもいいよ。にしても、その能力欲しいな。悪質な人間が一目でわかるってのは良いね、前もって対策練れるから」 リーデンは自分のことは思いっきり棚に上げて、ころころ笑いながら率直な意見を口にした。レティカは気まずそうに唇を噛んでいる。 「それでリーデンさん、ご用件は何でしょう?」苦笑交じりにミスリアが訊ねた。 「ああ、そうだったね。ズバリ、土地が『忌み地』判定をされる為の条件って何なの」 質問に面食らったようにミスリアが目をぱちくりさせた。一度レティカと目を合わせてから、答える。 「確か……何か惨事が起きた明確な過去と、常に漂う大量の瘴気と、後は昼夜構わず魔物が闊歩してる状態、でしょうか」 「なんか大きな事件があった場所じゃないとダメってこと?」 「そうなりますね」 「もう一つありましたわ、確か。忌み地と判定して封鎖するには範囲が一定の面積以下でなければなりませんの」 レティカが横合いから付け加えた。 「ふうん? 何で」 「広大すぎると対応しづらく、教団にとっては管理対象外になるからだと思いますわ」 「それは私は知りませんでした。ではユリャン山脈の西にある樹海が浄化されていないのはそういう理由からなのでしょうか」 何かを思い起こすようにミスリアは視線を彷徨わせている。そうかもしれませんわね、とレティカが相槌を打った。 「この場所はどうなの?」 リーデンは手をかざして河の向こう岸まで見通してみた。確かに広いが、教団に対応できない程なのかと問われれば否と答えるだろう。 「司教様に聞きましたけれど、忌み地となる原因が記録に無いそうですわ」 |
32.a.
2014 / 05 / 01 ( Thu ) 一度の魔物討伐に六十人もの人員が駆り出されるのは珍しい、それは間違いなかった。 あるセオリーによれば、安全性を重視した配置をするには以下の対比が最適だという――魔物狩り師一人に対して魔物は三体まで、と。六十人の内の全員が魔物狩り師というわけではないが、仮にそうだとしてセオリーに則って計算するならば、今この場に居る人間だけで最多で百八十体の魔物の相手ができるということになる。 それだけの数の魔物が一箇所に集まっているのはありえないのではないか。そこまでの状況であれば教団から「忌み地」と断定されて封印されるはずではないか。 百八十よりも少ない数が相手だとしても、大人数の方が安全だという考え方には、穴がある。 集団として統率の取れた動きが維持できるのか。人員同士で実力にムラが出るかもしれない。それを巧く補い合えるようにバランスを取った配置をするか、より弱い者を前線から一歩引かせるか、考慮すべき問題が人数と共に増える。 何より、どんな討伐隊も全滅に遭って戻らない……その噂が本当なら? 人数が多くても全員死ぬのが決定事項なら、小隊に捨て身の攻撃をさせ、敵の数を徐々に削ることを優先すればいいのではないか。少ない犠牲を払ってより確実な解決法を選ぶべきではないか? 己の思考回路が弾き出した疑問を聖女たちにこっそり持って行こうと思って、リーデン・ユラス・クレインカティはゆっくり歩き出した。 薄い茜色に染まりつつある世界の下。討伐隊は戦陣を組み立てたり指示の確認をしたりで忙しい。 フォーメーションはシンプルで、たとえるならA字型になっている。魔物狩り師たちが二列を組んで矢印のように攻め込み、後ろに並ぶ非戦闘員、つまり聖職者たちを同時に守ることになる。 非戦闘員は夜になれば司教の簡易結界によって囲まれるので魔物狩り師の働きが無くともある程度は安全だ。 リーデンはその中で杖に寄りかかって佇む兄を瞥見した。今日は非戦闘員に徹するらしい。脚の怪我に関しては昨夜さんざん問い詰めたが、結局口を割らせることはできなかった。 次に、彼から数歩離れた位置に立つ小さな聖女の姿を認めた。 そんな荷物は無かったはずなのにどこから仕入れたのか、聖女は足首まで届く白い服を何重にも着込んでいる。ウェーブがかった栗色の髪はレースに縁取られた半透明のヴェールに隠れ、あどけなさの残る顔は慈愛と自信に溢れていた。不安を相談しに来た魔物狩り師の女性たちを励ましているらしい。三十路に届きそうな年齢の女どもが揃って十四歳の子供に群がる様は何やら可笑しかった。 聖女ミスリア・ノイラートは、興味深い人間である。 兄のゲズゥが彼女を気に入っている、または特別視しているらしいことは噴水広場で会った時にすぐに気が付いた。 ゲズゥが口数少ないのは他人と意思疎通することに意義を見出さないからだ。そのため必要最低限にしか喋らないし、よく舌の回る人間、中でも女子供の相手をするのがやたら面倒に感じるらしい。 そうでありながらミスリアを突き放していないのは何故か。リーデンにとっては少々面白くない話ではあるが、それ以上に純粋に興味がある――兄が心を許しているというこの少女に。 リーデンは結界が張られる予定の範囲の端に立って、目当ての人間を手招きした。 「聖女さん、ちょっといい?」 初対面ではかわいい名前だねと褒めた割には「聖女さん」で呼び方が定着しているし、おそらくミスリアの名を呼ぶ日は一生来ないだろう。 「何でしょう、リーデンさん」 聖女ミスリアは微笑んで答えた。リーデンに対して嫌悪や恐怖を抱いていたとしてもうまく隠している。 この場に居るもう一人の聖女、レティカ・アンディアがミスリアの隣で怯んだのが目に入った。こちらも同じように人の輪に囲まれている。士気を高めるのも彼女らの務めなのだろう。 |
31.g.
2014 / 04 / 28 ( Mon ) 三人は広い場所に出て河に面していた。 河の横幅は広がり、両岸の草原に視界を妨げる物がほとんどない。イマリナ=タユスの領域を出ているため、人や民家の姿も無かった。右を向けば、昨夜世話になったあの滝も遠目に見える。東の空では太陽が一日の勤めを終えて地平線に眠ろうとしていた。 「町民は以前から気味悪がってあまりこの辺に近付かないんで、放っておいても害は無いだろうと連合も軽く見てたんですが。今月に入ってから不安がる声が増えてるって司教様が気付いて、対策を立てようって連合に問題提示をしたそうです。ボクらも同時期にこの町に来たんですぐに相談を受けてます」 「では聖女レティカが辺境を掃討しようと選んだのは……」 「そーゆーことです。一月近く、毎晩のように頑張ったからやっとちょっと数が減って範囲も狭まったかなー、って思います。でも一番ヤバい中心地はまだノータッチです」 この地点がそうだとエンリオは補足した。 「連合もついに手が空いたのか、ようやく大人数を率いての連携が実りそうです」 それを聞いてゲズゥは納得した。大人数を率いるにしても狭い場所では身動き取れないが、この広大さであれば問題ないだろう。 「私たちも参加するんですか?」 「お願いします。昨日誘った時点に予定していたのとはちょっと違いますけど」 「そうですね……」 二人の会話に、ゲズゥは何気なく耳を傾けていた。 大変だな、と他人事のような感想しか沸かない。 そういえばリーデンも連れて行く約束だった。予定変更に関しては、大人数での魔物討伐など、アレは面白がるかもしれない。 「でもそんな深刻な戦局に怪我人を連れて行くのは憚られます」 「本人はどうなんです?」 二人の視線が杖に寄りかかって立つゲズゥに集中した。 医者の腕が良かったからか傷はすっかり回復に向かっているが、当分は安静にしていなければならない。 数秒考えて、答えた。 「自分とミスリアの身ぐらいは、片足でも護れる。俺は攻勢には出ない。戦力になってやれないが、聖女の力は貴重だろう」 「ごもっともです。聖女ミスリアが加わるだけでも皆にとってかなり有利に働きます」 「大袈裟ですよ」 「いえいえ、聖気ってのは重宝すべき奇跡の力ですから」 エンリオは自分とちょっとしか身長の違わないミスリアに向けて一礼した。小さな聖女は照れ臭そうに笑う。 「さて、少し見回って来ます」宣言してから、エンリオはポケットからラクダ色の紙をパイプ状に巻いた代物を取り出した。「吸ってもいいですか?」 「あ、どうぞ」 ミスリアはそれだけ言うと、同じく辺りを見回るように歩き出した。 火打石の音が弾く。エンリオはすうっと一息吸い込んでは吐き、こちらを振り向いた。 「貴方も要ります?」 「断る」 臭いからして、一般的に普及している煙草とは異なる草であることは明らかだ。 聞いた話に寄るとそれは長期に渡って使用すると心臓などの機能を低下させ、即ち運動能力の低下に繋がる代物だった。ゲズゥにとって麻薬類は嗜むものであって多用するものではなかった。運動能力に影響が出たら面倒だからだ。 「そーですか。いやぁ、ボクは吸わないと、護衛の仕事中に起きたヤなこととか思い出してやってらんないんですよね。慣れませんね、死は」 重い台詞を吐き捨ててエンリオは煙をばら撒きつつうろうろし出した。河の水を掬って観察したり、足元を確かめたり、その辺の岩をどかしてみたり。 ミスリアも似たようなことをしている。 手持ち無沙汰のゲズゥはただ日没を眺めた。何故だか宵闇の訪れと共に、背筋が疼くような感覚がする。場所の所為だろうか。 ふと、別の方法で情報を得ようと考えて、彼は左眼を使うことにした。 まだミスリアには説明していないが、視界の共有だけでなく、血縁関係の強い相手とは意思の伝達ができるという便利な機能が付いている。ただし離れている方が同調が起こりやすい視界の共有とは真逆に、距離が近くなければ通じにくい。現在の距離でギリギリ有効範囲だろう。 ――河の「分岐点」近くに魔物が多発してる話を知ってるか。 返答はすぐには返らなかった。普段から、一方的にどちらかが話しかけて終わる場合が多い。しかもリーデンから「話しかけられる」ことはあってもゲズゥがこうやって呼びかけるのは珍しい。いつも応えない仕返しとして無視されても仕方がない。 それでなくともさっきの出かけた際の別れが穏便ではなかった。 だが一分ほどして、応答があった。 ――知ってるケド、それが何? ――明日魔物討伐に行く場所だ。今下見に来てる。大人数で討伐隊を組むらしい。 また、間があった。 ――ふーん、それはそれは。ていうかそこ、噂話が酷いよ? ――噂話? ――誰が赴いてもどんな大人数の隊も全滅するんだってさ。よく新しい討伐隊を組もうなんて気になるねぇ。 ゲズゥはしばらく考え込んだ。噂が本当だとするなら、連合が腰を上げたがらないのもうなずける。 ――他人事みたく言ってるが、お前も明日行くんだろう。 ――そうだねー、楽しみだねー。 楽しそうな弟に対して、ゲズゥは無意識に眉をしかめる。 ――ねえ、そんなことより、兄さんさっきなんか怪我してない? 気付かれないように遮断したつもりだが、向こうに漏れていたらしい。怒気を孕んだ問いをゲズゥは無視することに決めた。通信はそこで終了する。 「ミスリア!」 いつの間にか大分遠くに行っていた少女を呼び止める。 彼女は弾けるように顔を上げた。 「引き上げる」 夜になれば面倒なことになるのは間違いない。今の状態では満足に立ち回れないし、危険である。 察したミスリアはゲズゥの傍へと駆け戻る。 「ボクはもうちょっと見て行きます。敵さんが出てきたら颯爽と逃げるのでご心配なく」 エンリオはひらひらと手を振った。ミスリアも手を振って挨拶を返す。 猿も顔負けなあの機動力と脚力があれば心配するまでも無いだろう。ゲズゥは杖を繰ってサッサと帰り道を歩み始めた。 |
31.f.
2014 / 04 / 27 ( Sun ) 「……お前こそ」
別にゲズゥの「肩書」を知っていて言っているのではないのだろう、そう直感した。 「ボクは人間を手にかけたのは護衛になってからが初めてです。殺す以外のアレコレならしてましたけどね」 片手を胸に当て、片手をしなやかに翻して、エンリオはパフォーマーみたいな一礼をしてみせた。そして何を思ったのか、一歩近付いてひそひそと話した。 「同じ人殺しでも、『罪人』と兵士や騎士の違いって何だと思います? 罪人には、代わりに背負ってくれる人が居ないんですよ。自分の罪は全部自分の責任、死ぬまで一生、向き合って生きるしかできない。いいえ、死んでも逃れられないのかもしれない。何せ魔物は――」 ゲズゥは話を聴きつつも裾が引っ張られるのを感じた。視線を向けなくとも、ミスリアの仕業だろうとわかった。 「この話は不要でしたか。知ってますよね。とにかく『摂理』はともかく、社会の目は背負ってくれる人が居るのと居ないのとでは全然違ってきますし、気の持ちようも変わるんです」 エンリオは一歩後ろに下がった。その表情は建物の影に隠れてよく見えない。 昔、似たようなことを言われた覚えがある。かつて多くを教えてくれたあの男だ。 ――大義名分を口実に戦という状況下で千や万の位に達する数の命を奪っても、大量虐殺を罪に問われないどころか、吟遊詩人の歌の中で永遠に美化されて語られ続ける人物もいるという。何故、己や身近な人間のために一人二人殺したくらいで罪人になる? くだらん正義さえ唱えれば非道も正当化される人の世というのは、実に理不尽だ。だが、そんな世の中でも、我々の生き方が間違っているとは思わない―― 「白昼堂々となんつー話をしてるんだって感じですね。今のはレティカ様には内緒にしてください」 ゲズゥたちは相槌を打たなかった。ただ、この男は生きづらい世の中に揉まれ慣れていそうだ、と脳内に記しておいた。 「レティカ様と言えば……いけない、油を売ってる場合じゃなかった」 「何かご予定があるのですね」 「下見をしなきゃならないんです。そうそう、もしお暇でしたら、ボクの用事に付き合ってもらえませんか? 他の人も居た方が色んなことに気が付くでしょうし。貴女がたにも無関係ではありませんよ、明日討伐に行きますからね」 「では下見と言うのは討伐予定の場所へ?」 ミスリアが問いかけた。 「そうです、際どい時間帯に行くのがポイントです。詳細の説明は歩きがてらで」 一度、ミスリアが気遣うような眼差しでこちらを見上げる。ゲズゥは小さく頷きを返した。 「決まりですね。じゃああっちへ向かいます」 エンリオは北西の空を指差して言った。 _______ 曰く、イマリナ=タユスという町は二つの河と縁があるらしい。正確には片方が本流でもう片方はそちらから分岐する派川であり、分岐点は町よりもずっと北に位置しているという。 より広く大きい本流は街の東側に接している方の河で、町が河沿いの都と称される所以である。 派川の方は北西の野田を通り抜け、所によっては狭くなったり浅くなったりと舟を通すのに不向きで、小川と呼べる規模に該当する。昨晩はよくわかっていなかったが、魔物退治しに行ったのは本流ではなく派川の方だった。 最近まさにこの周辺で魔物が多く目撃されているらしい。 本日の目的の場所は昨日行った河のほとりに近い位置、その更に上流を辿った辺りにあった。 魔物が最も多く出現する場所は分岐点の手前だそうで、近頃は範囲がどんどん上流に、つまり北に伸びている――もしもそうやって分岐点にまで至れば、今度は本流の方に伝って南へ被害が広がるのではないかと危惧されているそうだ。 流れに逆らって魔物たちの出没領域広がっているのか、そこまでは定かではない。水流に乗って南行する可能性がどれほどなのか、そこもやはり定かではない。なので魔物狩り師たちにとっては優先順位の低い問題として扱われていたらしい。 「討伐隊の結成……ですか?」 「そうなんです。ボクらも今朝、町の魔物狩り師連合から協力要請を受けました」 |
31.e.
2014 / 04 / 24 ( Thu ) 人の好い笑顔をちょうど囲う長さの前髪が、右から左へと重量を感じさせない具合にふわふわ流れていて、後ろ髪は細く短い三つ編みにまとまっている。小柄な体型と童顔な顔つきの男は指の開いた手袋を着用し、身軽な動きの妨げにならない程度に、程よい装備を身に着けていた。 他人の姿かたちを記憶できないゲズゥでも流石に昨日の今日で覚えている。例の聖女の護衛の男だ。なんて名前だったか――「エンリオさん!」 ミスリアが驚き交じりに応じた。 「はい! 今日は雨があがってて良い天気ですね。夕方の参拝ですか?」 「いいえ。通りを歩いていたらこちらの教会の屋根が見えて、気になって寄ってみたんです。大聖堂(カテドラル)……司教座聖堂があるとは知りませんでした。この町に着いてからはまだご挨拶に伺う機会もなかったので」 「そうだったんですかー」次にエンリオという男は乳白色の瞳をこちらに向けた。「何故杖を? 大丈夫ですか」 そいつにしてみれば好奇心と一緒に手が伸びたのだろう。 「触るな」 怪我に触れられる前にゲズゥは一言で制した。 「あ、はい。すいません、軽率でしたね」 エンリオはパッと身を引いて両手を挙げた。表情からして気を悪くした様子は無い。 「貧血キツくありません?」 「医者の所で寝てきた」 と、ゲズゥは答える。 見かねたミスリアが更に付け足した。 「複雑な事情が絡んでいるのでできればあまり訊かないでいただけると助かります」 「わかりました、訊きません」 「ところでエンリオさん。お一人ですか?」 他の二人は一緒ではないのかと、ミスリアが周囲に目を走らせている。 訊ねられたエンリオは大聖堂の方を振り返った。視線が順番に、柵、前庭――最後に開け放たれた正面玄関へと巡っていく。 「レティカ様は中ですよ。何でも、この町では毎晩、日暮れと共に祭壇の水晶に祈るのが慣わしだそうで」 「そういう町があるのは聞いてましたけど……イマリナ=タユスに水晶を祀る祭壇があったのですね」 「はい。中庭(コートヤード)を突っ切った先にあるそうです。ま、ボクはどうせ入れないんで今はレイだけがお供してますけどね」 「入れない?」 「身元が不確かな人間は奥の祭壇に近付けさせてもらえないんですよ。レイは父親の代で落ちぶれちゃいましたけどあれでも騎士の家の出ですからね。ボクは孤児でしたし『穢れ』もあるんで司教様がうるさいんですよ」 やれやれ、とエンリオは頭を振りながら肩を竦める。 「そちらの護衛の方も入れないんじゃないですか? 人を殺したことがあるんでしょ? それも五人や十人なんてかわいいものじゃない」 |
31.d.
2014 / 04 / 19 ( Sat ) 昔から自分は人よりも感情表現が希薄だというのは周りからの言動でわかっていた。心が空っぽと思われても仕方がない。 唐突に、ミスリアが両目をかっ開いた。 あまりに唐突だったのでゲズゥは疑問符を放ちながら身じろぎした。 「…………笑いました」 「は?」 「今、一瞬だけ貴方の顔の筋肉が笑顔をつくったように見えたんです」 「そうなのか」 「そうですよ」真剣だった眼差しに楽しそうな煌めきが灯った。いつの間にか涙も止まっている。「あの、もっとよく見たいので、できればもう一回笑って下さいませんか」 「……………………」 「いえ、言ってみただけです。すみません」 少女は目を逸らしてどこか恥ずかしそうに笑う。 「リーデンさんのことは、私にはよくわかりません。あの少年との因縁もどうすればいいのか、簡単に答えが出るような問題ではないでしょう。私はお力になれるかわかりませんけど、でも今日はゲズゥが一杯お話してくれただけでもすごく嬉しいです」 「そうか」 「はい」 再び目が合った。 素直だな、とゲズゥはミスリアに聴こえないように囁いた。 いつだったか、罪人の魂を救済できると証明したくて助けたのか、みたいに責めたことがあった。だが今となっては、知っている限りのミスリアの性質と照らし合わせて考えると、そんな傲慢な意図は感じ取れない。 日頃からやっているように――顔も知らない、どこかで破滅に向かって生きている人間の話を聞いて――心を広げたのだろう。そう考えると納得が行く。 もしも気が向けば、その内訊いてみようと思う。 魂が救済されなくとも何かしらの救いを既に得ているのではないか――。 そんな考えが芽生えかけるも、痛覚が発する荒波に流されて、形を成すことなく消える。 「行くか」 ゲズゥは右手でミスリアの肩を軽くぽんと叩いた。 「は、はい」 左手に巻きついていた温もりは今度こそ離れた。しかも少女は何故かこちらに背中を向けてしまった。 名残惜しいような心持ちで、ゲズゥは己の左手を一瞥した。 _______ ミスリアと旅をするまでは教会とはほぼ縁の無い人生を送っていた。 そのせいかはわからないが、この巨大な建物をうまく形容する語彙をゲズゥは持っていなかった。 「空をそのままお城にしたみたいな……昔、絵本にもこういうの載ってるのを見ました」 ため息交じりにミスリアが感想を漏らす。 宗教施設を城と呼ぶのはいかがなものか。しかし規模だけで言えば城と呼んでもいい気がする。色合いは蒼穹か藍色か、透き通るような深い存在感を醸し出していた。「神秘的」の言葉が似合いそうである。 目の前の教会は、ただでさえ色彩に欠かないこの町の中でも、異質に見えた。 「教団本部の建物はもっと大きいんですけど……綺麗さではどっちも……」 と、尚も感嘆を表すミスリアを横目に、ゲズゥは別のことに意識を向けた。 視界の端で、近くの建物の屋根の上を走る人間をみつけたのである。しかもこちらに向かって駆け寄ったかと思えば、屋根から身軽に跳び下り、宙で二回転して着地する。猿を連想させる動きだ。 「こんにちはー! 奇遇ですね」 男は片手を挙げ、馴れ馴れしく声をかけてきた。 |
31.c.
2014 / 04 / 17 ( Thu ) あれほどまでに好き勝手に他人を害しながら、全く邪魔されない人間などそうそう居ないだろう。イマリナ=タユスを拠点とした裕福な商人の元に嫁いでからは悪化したようで、女の外面の良さに磨きがかかればかかるほど裏では非行が積み重なった。しかも、主に少数民族や貧窮の者を追いつめる類の悪事だ。 経歴から態度まで、鬱陶しいと感じない点の方が少なかった。だがゲズゥはその程度で取り乱すような性分ではない。報いは相応に――怨みを方程式に当てはめるように、それまで葬ってきた仇たちにしたように、淡々とすら呼べる手つきで女に惨たらしい最期を迎えさせようとした―― 最中に、存在だけは聞き知っていた、その女の養子が現れた。夫の亡くなった知り合いの子供か何か、そんな縁だった気がするが、とにかく邪魔だからと気絶させて横にどけようと動いた。 子供は抵抗した。養母を助けようと死に物狂いで暴れ叫んだ。 二人の間を飛び交う言葉を聴いて、次第にゲズゥの胸の奥では「羨ましい」を通り越した憤りが渦を巻いて嵐を生み出した。 「……俺がリーデンにしてやれなかったことを、あの女は養子にできていた」 重々しく呟く。事細かに思い出せば、やはり黒い感情も一緒になって蘇る。 ミスリアは言を挟まず、真剣な面差しで続きを待った。 「夫のみならずあの女の身近な人間は全員が闇に生きていた。なのに共に暮らしていながら、子供の瞳は無垢だった」 今でさえ、子供は親の身の潔白を信じている。或いは一生信じたままで、復讐心さえ乗り越えられれば親の生きた道を辿ることなく真っ当に成長するだろうか。 女が養子に向けて怒鳴った「お前はこっちに来るんじゃない!」という警告の真意をゲズゥは瞬時に読み取っていた。 一緒に暮らしていながらも汚れた世界から一線を画し、己の本性を隠しながらも子供を守り抜こうとしていたのだ。 それは自分が弟に与えてやりたかった、理想の具現化だった。 否、一緒に居られなくてもいいから、なんとしても闇から守ってやりたいと思っていた。 拾ってくれた老夫婦は二人も子供を育てるのは無理だと断じた。選ぶならば、無愛想で不気味な兄ではなく、愛らしい弟の方を育てたいと。 ゲズゥは異を唱えなかった。せめてリーデンだけでも平穏な暮らしができるなら、と考えて潔く身を引いた。 離れることになってもいいから普通に幸せに生きて欲しかった。毎日腹一杯、温かい食事を食べて欲しかった。そして、一族との終わらない悪夢から解放されて欲しかった。 結局願いは叶わなかったが。 ――冷静に考えれば、あの女と比べても仕方ないことぐらいわかっている。 離れようと判断をした時のゲズゥは僅か八・九歳程度で、しかも地位や収入源も無ければ頼れる知り合いすらいない、人間一人を庇護できるような状況ではなかった。 そもそも、思い描いていた理想は都合が良すぎた。同じ屋根の下に住んでいながら世界を住み分けようなどできるはずが無かった。だからこそそれを成し遂げた女が余計に腹立たしく思えたわけだが。 わかっていた。 だが、無垢な子供の瞳に映る己の姿に不覚にも驚いたのだ。穢れた自分を睨む子供に弟を重ねてしまったかもしれない。ひどく惨めな気分になり、頭が混乱した。 激昂した、かもしれない。 一時の激情の所為か実はその辺りはよく覚えていなかった。女の息の根が止まったのを確認した後は速やかに惨劇の場を去って、養子がどんな様子でいたのかなんて見向きもしなかった。 思えばこうしているのは罪滅ぼしではなく、自身の無力さを呪っての自傷なのだろう。気が済むまで血を流したいのは、自分の方だ。 ――たった一人を守れなかった悔しさを紛らわせようとして。 ぽつぽつと語り終えたゲズゥは、その時になってやっと傍らの少女に目の焦点を当てた。瞬く度に大粒の涙が次々と溢れる程、ミスリアの瞳は濡れている。 「何故泣く」 「貴方が、泣かないからです……!」 わけがわからない返答に、ゲズゥは無言で眉を吊り上げた。ぽたぽたと涙が手の甲に落ちている。 「でも、ちょっとだけ、安心しました」 ミスリアは目元を左手の袖で拭いながら続けた。 「私はずっと、ゲズゥが感情に乏しいとか何かが人として欠落してるとか、実は心の中が空っぽだったらどうしようって、思ったりしたんです。でも違うんですね。何の変哲も無い石を裏返せばその下にたくさんの虫が生きているとわかるように、空虚に見えても、心の奥では色々な想いが蠢いていたんですね」 「……正直だな」 「す、すみません。空っぽだとか虫だとか、ふ、不快にさせてしまいましたか?」 露骨に怯む少女が、何故だか段々と可笑しく見える。 「いや、わかりやすい例えだった」 |
31.b.
2014 / 04 / 14 ( Mon ) 「ごめんなさい」
少女はすかさず謝った。 別に嫌に思ったから言ったのではないのに。そう付け足そうと思ったが、その前にミスリアがまた言葉を零した。 「……貴方はいつも……熱い、ってぐらい体温が高いのに……今は、冷たくて。それがなんだか怖くなって……」 ふと、左手に巻き付いている温もりが逃げそうになる。ゲズゥは力なく横たわらせていただけの手に力を込め、離れつつある小さな指を握って留まらせた。 「重く考えすぎだ。これくらい、すぐ回復する」 実際は「寒さ」に顎がガチガチ鳴りだしているのを精神力で制して、最小限に抑えられるようにゆっくり話している。 「……嘘です。本当は凄く痛いんでしょう。苦しいんじゃ、ないですか」 「お前に会う前と何ら変わらない」 聖気などと言う、非現実的だが極めて有用な力が身近に無かった頃。運が良ければ痛み止めなどに使える薬草が手に入ったが、それ以外の時は、気を紛らわせるなり無理矢理にでも眠りにつくなり、自力で回復するまでは耐えるしかできなかった。 ミスリアは唇を噛み締めて押し黙った。大きな茶色の瞳は新たに涙を溜めて潤い、葛藤を抱えている様子だ。 少女の涙も気にはなるが、それよりも、ゲズゥは激痛と共に、再び意識が闇に押しつぶされそうになるのを感じた。また潜るのはまずい、と勘が訴えかける。 「――話を」 「はい……?」 「何でもいいから、気が紛れる話をしろ」 意図がわからなそうに、ミスリアは小首を傾げた。それでも、わからないままでも、素直に応えようと決めたらしい。 「それでは、あの子は何処に去ったのでしょう。帰る場所なんてあるんでしょうか」 「さあ。元々の帰る場所は、俺が奪ったからな」 「……そうですか……」 いきなり会話が終了していることに、ミスリアは困惑気味に俯く。そして意を決したように顔を上げたかと思えば、次には矢継ぎ早に質問を連ねた。 「どうしてこんなことをするんです? 罪滅ぼしですか? これまでは罪の意識を感じてる素振りは見せなかったのに、どうして、あの子に関してだけはけじめをつけたいなんて言うんですか? 本当は何があったんですか」 「…………それは……」 ゲズゥは瞑目した。 熱に浮かされつつある頭は、一斉に浴びせられた質問をどう捌くべきかのろのろと思考する―― ――そうする内に、あの女と相対した夜を思い返していた。 首から下の肌という肌を覆い隠した、シャスヴォル国特有の、古風で厳格な服装。結い上げられた長い髪。丸い顔に小さい両目、低い鼻や古風な化粧も併せて、初見では楚々とした空気を醸し出す中年女だった、が。 少数民族を同じ人間ではなく下賤な生き物と捉え、卑しむ眼差し。 折に触れて生唾と暴言を吐き出す、紅の塗りたくられた唇。 政治家の妹という立場にあり、「呪いの眼」一族に滅びをもたらした内の一人は、性根の醜い女だった。 「…………奴らを残らず殺すと、従兄と約束した。だから俺は前々から計画し、さまざまな角度から裏付けを取って、熟考し、実行した。だが居合わせた子供に余計な絶望と憎悪を植えつけた点だけは、手違い――……いや」 認めたのは、いつだったろうか。それを今口にしたのは、熱の所為だろうか。 或いは相手がこの少女だから、話しても良いと思うのか――。 「ただの腹いせだった。理にかなっていない、一時の感情だ」 「腹いせ、ですか?」 「俺はあの女が、妬ましかった」 |
31.a.
2014 / 04 / 10 ( Thu ) 桃色の液体に緑色の小粒とは、随分といかがわしい。そんな外見の薬だが、効果の方は期待できるのだろうか。 ゲズゥ・スディル・クレインカティは手渡された小瓶を掌の上で揺らしたりしてみた。これまた、いかがわしい臭いが小瓶の蓋と口の隙間から漏れる――たとえるなら、草を汗で湿らせたかのような。「そいつは強力な痛み止めですぞ。こっちは造血剤、食事の度に一つ、よく噛み砕いて飲みなされ。なに、若い男といえばただでさえ血の気が多くて、造血なんざ必要ないでしょうがね」 ――ハッハッハ! と壮年の医者が豪放に笑いながら巾着を放り投げる。 巾着を受け取ったゲズゥは、想定外に中身が硬くて重いことに目を細めた。 「ありがとうございます、先生」 ミスリアが医者の正面に立って直角に倣った深い礼をする。 医者は黒い顎鬚を一撫でしてニヤニヤ笑った。鋭い眉や鼻の高さ含め、猛禽類寄りの顔立ちなのがどうも気になる。胡散臭い雰囲気とは裏腹に、町内では名医として腕の良さに定評があるらしいが。 「それじゃあ、杖もつけてやりましょうぞ」 そう言って医者は狭い診察室から廊下へとしばらく姿を消した。戻って来た頃にはその手に一対のT字形の杖が握られていた。 「その怪我でここまで歩く気合があったのは、結構結構。しかーし、せっかく縫った傷口が開いても困りますからな、なるべく安静にしてなされ。幸い、デカい患者様を診るのは初めてじゃない。この長さで足りますな?」 ゲズゥは差し出された木製の杖を早速脇下に当て、試しに寄りかかってみた。重心は安定していて、脇に当たる部分も硬すぎず軟らかすぎずでちょうどいい。これなら負担も少なく歩けるだろう。 「問題ない」 と、以上の旨を簡潔にまとめて答えた。 「よし。となると、支払いの話に移ってもいいですかな」 猛禽類風の医者が椅子を引いてミスリアに勧める。はい、と頷いてミスリアは椅子にそっと腰をかけた。 二人が金の話をする間、ゲズゥは無言で傍観に徹した。数字やら細かい交渉は面倒だ。必要な物はどうあっても必要なのだから、高い金を払うことになっても手に入りさえすればいいと彼は考える。ちなみに弟のリーデンは、必要な物の為にこそ完膚なきまでに値切る派ある。 そんなわけで治療費の話はほどほど耳に入れつつ、己の身勝手な寄り道に文句ひとつ言わずに付き合ってくれている少女を、なんとなくじっと観察して過ごした。 _______ 夢を見ていたとしたら、内容は記憶に残らなかった。 まどろみの中で唯一強く感じていたのは「寒さ」だけだったと思う。 そんな膜のように薄い無意識から脱した時、まず最初に意識を射止めたのは左手に巻き付いていた柔らかい温もり、それから―― 「あつい」 ――手の甲を時々打つ、小さな熱。 「……え?」 傍らで項垂れていた少女は、ゆっくりと頭をもたげた。その顔をおぼろげに認識して、ゲズゥは熱の源を知った。 「そういえば、涙ってのは、熱いんだったな」 忘れていた訳ではないはずなのに、僅かな衝撃を覚えた。 |
30.i.
2014 / 03 / 31 ( Mon ) 「なに、すんだよ!」
「お願いです、思い直して! 一日だけでもいいんです、引いて下さい!」 骨と皮と髪ばかりの栄養不足な子供が相手では、ミスリアでも取り押さえることは可能だった。 揉み合いながらも説得を試みる。 「今日の行動が明日からの貴方をどう変えていくのか――まだわからないかもしれませんけど、信じて下さい! 大切な人の仇だとしても、殺すのは、それだけは、いけません!」 並べ立てている言葉に説得力があっても無くても構わない。止めたい、ただそれだけだった。 組み敷いたような体勢になり、ミスリアは少年の痩せこけた顔を見下ろした。昨晩は虚ろな印象を与えた瞳が、今日は怨念に血走っている。 「うるさいいいいいい!」 少年のどこにそれだけの力があったのか。 刹那の激怒。少年はミスリアの頬を引っ掻き、下アバラに膝蹴りを入れた。痛みに蹲るほかなかった。 視界の端で、ゲズゥが屈んでいるのが見えた。片手で鉈を拾い上げ、長い柄から差し出す。 「落し物だ。返す」 己の血液がべったりとこびりついた刃に対して、彼は平然としている。普通は自分がとめどなく血を流しているだけでも仰天しかねないが、それは一般人の定義であって、今更ゲズゥに当てはめられるものではないとミスリアは知っていた。 「――――なっ……」 逆に少年の方が動揺した。 ミスリアはかろうじて上体を起こして目を凝らす。仇討ち少年は、これまでの激しい意識状態から醒めかけているようだった。 「う、あ……あ…………」 ガタガタと全身を震わせ、鉈を受け取ろうとしない。 (怯えてる?) 自覚が芽生えたのだろうか。行為の恐ろしさを、理解したのだろうか。 変化に気付いたとすれば、ゲズゥはそれらしい素振りを見せなかった。彼は空いた手で少年の右手を掴み、強引に鉈の柄を握らせた。 その過程のどこかで細い手首に深紅が付着していた。少年は戦々恐々と血痕を見下ろす。 「ああああああああああ」 正気の色を映し始めていた瞳は恐怖に一際大きく見開かれる。 そして昨夜と同じく、少年は足早に逃亡した。辺りに草が繁茂しているだけあって小さな人影が消えてなくなるまでに一分もかからない。 ぼんやりとその後ろ姿を見送っていたらしいゲズゥが、やがて短くため息を吐いた。レンガの山を背もたれに求め、地面にずるずると座り込む。 ミスリアは蹴られた箇所をさすりながら、何度か咳をした。次いでふらりと青年の隣まで近寄った。 「頬」 見上げる黒い瞳は相変わらず平静だ。 「ちょっと引っ掻かれただけですよ。痺れはしますけど、大丈夫です。それより脚の怪我を見せて下さい」 治癒しやすいように、彼の左隣に膝をついた。 ところが、伸ばしかけた手は止められた。濃い肌色をした大きな手がミスリアの右の手首を長袖の上から握り締める。 驚き、探る眼差しをゲズゥに向けた。心なしか血色の悪くなった顔が視線を返す。 「いらない。これはけじめだ。治さなくていい」 思わずミスリアは何か言い返そうと口を開きかけた。けれども手首を締める強い力からゲズゥの決意の固さがひしひしと伝わってきて、言い返すはずだった言葉も失われた。 「…………ではせめて、お医者様に診ていただきましょう」 と提案すると、「わかった」と彼は頷いた。握り締められていた手首も解放される。 「しばらく休めば歩けるようになる。……多分」 はい、と小声で相槌を打ち、ミスリアはショールを破いて応急処置に当たる。コートを開くと想像以上に革が濡れていて重く、その下に現れた麻ズボンに大きな赤い染みが広がりつつあった。 決して長く放っておけるような傷ではない。 「やっぱり少しだけでも聖気を使わせて下さい」 包帯代わりの布を巻きながら、不安を隠せない声で言った。止血の為、傷口には充分な圧力を加えて、巻き終わった包帯をしっかり結んで―― ――反応が無い。 見れば、気付かぬ内にゲズゥは瞼を下ろしていたらしい。 反射的に彼の首筋に人差指と中指を押し当てた。幸い、指先にはちゃんと生きた人間の血管が脈打つ感触が伝わった。しかし異様に速いのは気のせいではない。 おそらく失血のショックで気を失ったのだろう。 涙がこみ上がった。 何とかしなきゃと思ってまた片手を伸ばすも、躊躇して何もできない。 苦しみを少しでも少なくしてやりたいと思う反面、気持ちを汲んでやりたいとも思う。ここまで譲らないからには、何かしら深い理由があるはずだ。知らないまま踏みにじっていいとは思えない。 この切なさは何だろう――妙な衝動に駆られ、ミスリアは青年の横顔に手を伸ばしていた。 (そういえば寝顔? を見るのは初めてなのかな……) ゲズゥは大抵の日はどこか目に入らない場所で寝ているか、ミスリアよりも遅く寝て早く起きている。 よく人の寝顔は万国共通で無邪気だと言うが、これは厳密には寝顔ではないし、無邪気どころかやたら苦しそうである。 ミスリアは余った布きれで汗の粒を拭ってやった。 苦渋に寄せられた眉根も、不自然に速い胸板の上下も、見守るしかできないのがたまらなくもどかしい。 衝動を生み出す渇望の正体を、ミスリアは知らなかった。 知らないまま、ゲズゥの左手の下に己の右手を滑り込ませ、思いっきり握る。 もう視界がぼやけてよくわからないけれど、その上に涙の滴が零れ落ちる気配を感じた。 以下あとがきになります |