30.f.
2014 / 03 / 25 ( Tue )
 レンガの積み上がった部分を足場に使い、何とか掴める箇所を順に見つけてよじ登った。五分ほどして腰を落ち着ける場所に着けた。その頃には爪が割れたり指先に多少の傷ができたりしたが、得られた成果はそんな煩わしさを掻き消すに十分だった。
 人の手が作り上げた絶景。そこには、大自然が魅せる光景とは別種の感動があった。
 故郷たる島国から一歩も出ることなく一生を過ごしていたら決して出逢えなかったであろう喜びに、思わずおののいた。

 視界いっぱいに広がる、手の込んだ造りの都には、どれだけの歴史とどれだけの人の夢や苦労が詰まっているのだろうか。ここから望める港や街道、住宅街や役所、果ては路地裏にまで。
 寒空の下、太陽が力強く照らすイマリナ=タユスの町では、さまざまな人生が行き交っている。その中にはミスリアにはとても想像できないような困難な人生も、燦爛たる人生も、多種多様に含まれていることだろう。

 彼等が思い描くままに道を往けるよう、妨げが少なければいいのに――と、ふとミスリアは手を握り合わせて祈った。

(でも、誰もがみんな望むままに進んだら、そのせいで衝突してしまう人生も出て来る)
 生きているというのは一筋縄では行かないものだ。自然界にだって、共生と相克がありふれている。人の世も同様に入り組んでいて、どちらの在り様が正しいのかなど、結論が出たためしは無い。

(せめて自分にできることを、聖女としての役目を、精一杯まっとうしよう)
 少なくとも大陸中の魔物を昇華していくことが人々にとってマイナスになるはずは無いのだから。

 物思いに耽り始めて数分、突風が周囲を吹き抜けた。ミスリアは長い袖と裾のドレスの上にショール型の外套を羽織っているがそれは薄地の部類に入る品物で、今の風に弄ばれはしても充分に防げた気がしない。特に背中や後ろ首辺りが一気に冷たくなった。
 フードが付いているのが幸いで、ミスリアはこれ以上髪が乱れないように、そして冷えないようにと目深に被った。

「ここ数日で急に冷え込みましたね」
 身震いしつつもミスリアはゲズゥが居る辺りを斜め上に見上げた。
 立っていれば余計に風が当たって寒いはずなのに、彼は平然そうな顔で直立していた。昨日使っていた膝まである黒コートをちゃんと乾かして着用しているからかもしれない。両手なんて、ポケットに収まっていて温かそうである。

「コレは貸してやれないが」
 こちらがコートに視線を集中させていたのに気が付いたらしい。
「わ、わかってますよ、リーデンさんのご厚意です。それに背丈が違い過ぎますし」そう答えると、ミスリアはあることを思い出して懐かしさに頬を緩ませる。「私には姉が居ましたけど、歳が離れていたので服の貸し借りはできませんでした」

「過去形」
 返ってきた一言の指摘にミスリアは苦笑した。
「お姉さまは私より先に聖女となって旅に出ました。そしてそのまま、失踪しています」
 一抹の淋しさに胸が痛んだ。

「つまり、お前のは捜す為の旅か」
 つとゲズゥが投げかけてきた憶説にミスリアは驚かない。以前から、自分は厳密には世界を救う為に旅立った訳ではないと、言明してあったからだ。

「そうではありません。いえ、全くそんなつもりが無いと言えば嘘になりますけど……」
 そこから先を語れなかった。裏付けを取れていない、ただの疑惑を口にするだけの勇気が足りなくて。
 ふらりと、心身の支えを求めてレンガの柱に背中を預ける。

 ミスリアが口を噤んだ後は静寂が続いた。否、人と動物の声が欠けただけで、静寂と呼ぶには風がうるさすぎた。まるで聴く者に何かを訴えかけるかのような高らかな風音が、間隔を置いて何度も周囲を揺さぶる。
 じっとしていると時々古城の映像がチラチラと脳裏を過ぎるが、今や無視できる程には慣れている。

 そうしてしばらく経ってまた口を開きたくなった時、再びとある名が舌の上を滑った。

「リーデンさんて複雑な方ですね」
 直後、上からは嘲笑に似た吐息が聴こえた。
「そういうのを婉曲と呼ぶらしいが」
「む、難しい言葉を知ってますね。婉曲表現になるんでしょうか」

「…………アレとの確執にお前を巻き込んだのは、悪かったと思ってる」
 いつもの感情に乏しい声とは違う、僅かだが確かに申し訳なさそうな声色だった。
「え? そんな、私は構いませんけど」
 条件反射でミスリアは答えた。

「いや。お前はアレを怖がって逃げ出した」
「――それは、だって……あまりに惨いことを言う、から……です」
 するとゲズゥは口に出しては何も言わなかったが、その沈黙にこそ「詳しく話せ」と求められているとミスリアは解釈した。

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