63.j.
2016 / 10 / 31 ( Mon ) 「ご、さい」
驚いてオウム返しにする。 「村を訪れた異邦人が、族長だった父との面談の最中に激昂して剣を抜いた。事の顛末は正確にはわからないが、父は顔色ひとつ変えずにそいつを斬り捨てた。例の湾曲した大剣で」 ゲズゥは母親と共にその場に居合わせたのだという。 「俺はあの時から、他人の死というものに何も感じなくなったのかもしれない」 「そんなことが……。そういえば、命を奪うことは相克だと言っていましたね」 「ある男の影響だ。老夫婦の元にリーデンを残して去ったしばらく後に、俺は別の物好きに拾われた。数年はその男の元で生活した」 「恩師の方ですか」 まだ幼かったはずのゲズゥにも親代わりとなってくれた人が居たのだと知って、安心したのも束の間。次の発言で、抱いた印象がひっくり返される。 「拾われたと表現するのは違うな。賊の一味で、人攫いと人身売買にも手を染めていた連中だ。俺を調教し利用したかっただけだろう。調教できなければ、売り払うつもりで」 「え」 悲惨な内容を淡々と話すので、つい耳を疑った。寝返りを打って表情を窺うも、暗くて何も見えない――焚き火は寝る前に消したのだった。 「その人は、今はどうしてますか」 「とっくに死んだ。一味の他の者と意見が食い違って、あっさり殺された」 「……」 「今になって思えば、あの中では、奴だけが理詰めで『悪事』を正当化したがっていたな」 ゲズゥは記憶の中にあるその人の言葉を語った。 ――世界は広そうに見えて実は狭いものだ。自分が生きるだけの「場所」は、別の誰かの空間を減らすことでしか得られない。餓死するならともかく、命を全く奪わずに生きるなど不可能だ。誰も殺さずに、自分が生きる空間を守り続けられたなら、幸せな一生かもしれないな。だがアルシュント大陸はそう容易くない。 ――物理的空間の話じゃないぞ、運命やら宇宙やら、そういった得体の知れない次元の話だ。自分が生きる為に誰かを殺したなら、そこは運命の分岐点。自分が生き延びて相手が死んだという結果の裏に――相手が生き延びて自分が死んだかもしれない可能性が潜んでいた。 ――全力で生きろ。そして何の為に生きたいかを自問し続けろ。生きがいを持ち、その価値を愛し抜けるなら、どんなことがあっても人は前に進める―― 「俺には奴が何を言いたかったのかは半分も理解できないが、とりあえずそのように言っていたことは、記憶している」 何の感慨も無さそうにゲズゥがそう締めくくる。 「ちょっとだけ参考になりました」 ミスリアは素直にお礼を伝えた。 ――生きがいならある。その価値を愛し抜く覚悟もできている。 (生き甲斐だけじゃなくて、死に甲斐も私は持っている。これって結構幸せなのかも) ただ、ゲズゥを置いていくことだけが気がかりだった。「天下の大罪人」にはまだ贖罪が残っている。旅が終わっても、別の苛酷な日々が続くのかもしれない。 (気にしすぎよね。この人の精神の強さを、私はよく知っている) きっとミスリアが居なくなった後も、彼は上手く生きて行くだろう。リーデンやイマリナも、末永く元気にやってくれるはずだ。 「いつも話を聞いて下さって、ありがとうございます」 無意識に手を伸ばしていた。闇の中から指先が柔らかな温もりを探り当てる。触れても、それは逃げなかった。 なんとなく輪郭をなぞってみると、割れた皮膚が微かに湿っているのを感じ取り―― 吐息が指にかかった。 急な熱に吃驚する。ついでに、唇を触ってしまったのかと二度吃驚する。 (へんな感じ) 前にもこんな気分になったことはあった。 戸惑い。その場から逃げたくなる落ち着かなさ――それらを上回る、甘やかな幸福感が胸をくすぐる。 右手を引き、余韻を大切に握り締めるように左手で包み込む。 「貴方の傍で眠って……目を覚ますのは、安心しますね……」 安心したら眠くなってきた。這い寄る睡魔に引きずられて、意識が沈んでいく。 「そういうものか」 「はい……ずっとこうしていられたら……よかったのに」 瞼がゆっくりと下りた。 「そうだな。お前の居る場所はいつも穏やかだ。この『空間』は…………俺が守る」 答えた声は、信じられないほどに優しかった。 ミスリアは一度「ふふ」と嬉しさを表してから、おやすみなさい、の挨拶をもごもごと返した。 意識が完全に眠りに沈む前に、ああ、と額にかかる短い返事を聴いた。 ______ この夜、少女は秘め事を明かしたことと、それを受け入れて貰えたことによる解放感や感謝で胸を一杯にしていた。 その時を境に――今度は打ち明けた相手が、秘め事を抱き始めたとは気付かずに。 |
63.i.
2016 / 10 / 30 ( Sun ) 痛苦に悶えて目が覚めた。 重苦しい息を、何度も何度も闇の中に吐き出す。ああ、これは、自身の味わった苦しみではない。他者のそれに共鳴してしまったものだと遅れて気が付き、胸を撫で下ろす。 (ひどい夢を見たような……) 内容を憶えていないのが幸いだ。それでも後味の悪さはしっかりとミスリアのあらゆる神経に残っている。 吐き出す息は目に映らないけれど、まるで瘴気でも吐いているかのような気分の悪さだった。 いつしか目尻から冷たい感触が流れ出す。 (泣き疲れて眠ったのに、泣きながら覚めるなんて) 何かがおかしい。 (おかしいのは、私) 内側から崩れていくような、膿んでいるような。これまでに普通に歩いて来れた方が奇跡だったのかもしれない。 目を閉じるのが怖い。再び眠ったら、どんな悪夢に迎えられるのか知れない。 前方をぼんやりと見つめてみる。横たわっているのは巣穴の中の地面で、地上から聴こえてくる風音は吹雪のもので――と、現状についてひとつずつ思い出しながら。 そうしている内に、ゆらり、と闇の中にありえないものが青白く浮かんだ。 悲鳴は上げなかった。上げようにも、喉が渇ききっていて痛いのである。 ゆっくりと溶解されつつある二つの顔は、複製されたようにそっくりだ。その背後には、一度目にすれば二度と忘れることのできないような面妖なシルエット。 (幻だわ) 膨れ上がる恐怖に、そう言い聞かせる。 (だってこの人たちは) カルロンギィ渓谷にて浄化された「混じり物」の代表格だ。彼らがこんなところに居るはずが無い。何せ、ミスリアの手で三人を―― 葬った、のだから。 全身が金縛りになり、手足が凍ったように冷える。恐怖と罪悪感に圧されて血の気が引いたのだろう。 来ないで。こっちに来ないで、と切に祈る。 「何を見ている」 ふいに真っ暗になった。幻影が去ったと言うよりも、視界が障害物で遮断されたために消えたようだ。 両目を丸ごと覆った温もりからは力強い生命力を感じる。全てを受け入れて包む込めそうな、ざらついた無骨な手。その掌を濡らしていく涙は、掠るだけで熱を帯びた。 「……過去の、罪を」 神妙に答えた。 魔物と混じっていながらも、魔物ではなかった。自分が掲げてきた「人間」の定義に最近自信が持てなくなっているが、何度思い直しても、やはり彼らは人間だったという結論から離れられない。 紛れもなく生きていたのである。そして彼らの生を無理矢理終わらせたのは、ミスリアの判断だ。過ちではなかったと、今でも信じたい――いや、信じている。にも関わらず、罪の意識は常について回った。 「そうか」 踏み込むわけでもなく、ゲズゥはそれきり沈黙した。 彼の掌をミスリアはそっと両手で取り、視界からどける。醜悪な幻影がすかさず舞い戻るも、今度はしっかりと見据えた。 「殺した人の顔って、どうやって忘れてますか」 とんでもないことを訊いてしまったと自覚したのは、質問を呟き終えてからだった。 「特に何もしてないが」 「そ、そうですか。変なこと訊いてすみません」 もしかしたら聞き流してくれるかもと思っていたところを、意外にも答えが返ってきたので、複雑な気分になった。 (忘れられるのね。流石は鋼鉄の心臓の持ち主) 過去を背負って生きるには、散った命を絶対に忘れてはいけない、とミスリアは思っている。 (でも時には忘れることも学ばないと、きっと私は私を保てなくなる) それが現実だった。聖獣に辿り着く前に寝不足や心労で倒れてしまっては本末転倒――それなのに心に沈殿する負の感情は積もるばかりで一向に減らない―― 「……初めて人が殺される場を目撃したのは、五歳の時だった」 すぐ後ろで寝そべっている青年が、やがてそう切り出した。 |
63.h.
2016 / 10 / 28 ( Fri ) 片手で背中をさすってやり、残る片手で思いっきり抱き締める。加減を誤ったのか、嗚咽が一瞬で呻き声に変わった。すぐに力を緩めた。 嗚咽の間隔が長くなり、やがてはすすり泣きになる。「せめて距離を置いて、あわよくば、き、嫌われてしまえば……別れも楽になるかなって、考えて」 「…………なるほど」 今更その程度のことで嫌えるものでもない、とは口に出さず。 「でも、辛かったんです。後腐れなく別れる為なら……その方が誰も傷付かなくなるって、頭ではわかっているつもりでも、寂しかったんです。ごめんなさい……何をやっても、半端で……ごめんなさい」 ――痛ましい。 それは同情を超えて、共感だった。自分の元の心情など隅に押しやられ、とにかく胸が痛い。 「謝らなくていい。お前を、責める気は無い」 泣き止んで欲しい一心でそう言った。実際にはゲズゥの中で並々ならぬ怒りが育っていたが、今それを前面に押し出すのは得策ではない。 こちらの胸の上で突っ伏したままの少女は、いやいやをするように頭を振った。涙で濡れた衣服が擦れて、なんとも言えない感触が続く。 その重圧がふと消えた。ミスリアが顔を上げたからである。 ひどい顔だ。額に髪が張り付き、眼球には赤い筋が浮かび上がり、頬は涙に濡れて、そして唇はいつの間にか噛んでいたのか血が滲み出ていた。 「終わりがもっと苦しくてもいいから、私は!」 瞬時に心臓を鷲掴みにされたと錯覚した。そんな眼差しと泣き顔だった。 「最期の瞬間まで一緒に居たい……!」 「――――」 息を呑むしかなかった。 いよいよ我が身が真っ二つに裂かれたのかと思った。 辛い。 などの一言で表せないほどに、痛い。肌を直に通して伝わる嘆きが、脳を揺さぶった。 激しい葛藤が巡っていく。自我というモノが分裂しそうだ。 唐突に思い出す、喪失感。村が燃やされ家族をほとんど喪ったと理解した時の、あの虚無感が鮮明に蘇った。 あれがまた来る。この小さな重みを手放したら間違いなくあれをまた味わうことになる。 考えるより先に、やはり抱き締める腕に力が篭もった。 引き返そう、と提案できたなら。たとえ今までに培ってきた経験を、乗り越えてきた苦難を、全否定するような「逃げ」になるとしても。 ミスリアの憂いを取り除いてやりたい。自らもまた、悲しい未来を避けたかった、が。 取引、約束、大願――決して蔑ろにできない、それらはどうなる。 どうするのが正解か。頭が、爆発しそうだ。 潤んだ茶色の双眸から新しく涙が零れる。思わず人差し指で、拭ってやった。 「ああ、それでいい」 自嘲気味な笑いを堪え、珍しく、ゲズゥは意図して表情を殺す。 「最後の瞬間まで、一緒に居よう」 「……ありがとうございます」 やっと少しだけ笑ってから、ミスリアの体から力が抜けていく。 ゲズゥの視線は壁際の炎へと移った。揺れる色合いを眺めていると、ざわついた気持ちが癒されるからだ。それでも思考は煩く巡り続けている。 何故、こんな想いをしなければならないのだろう。 ゲズゥの腹の底に渦巻く毒念は、憎悪と連なっていた。 ――「お前は」責めない、と確かに言った。その言葉を違えるつもりは無い。 ならば喰らう相手を見つけるまでのことだ。 毒蛇は、標的を求めんとして首をもたげる――。 _______ おそらくですが、63はあと2、3記事で終わります。 |
63.g.
2016 / 10 / 25 ( Tue ) 全身が「拒絶」したのを感じた。聴こえなかったのではない、受け入れ難いのだ。 ――自分は果たして、どんな顔をしているだろうか。頭の中の冷めた部分が、客観的な視点を求めた。求めたところで、主観と感情が作るがんじがらめの網から抜け出せず、そこに至ることはできない。 今ならば都合良く共通語を忘れられそうだった。そうだ、伝わらなければ意味が無い。認識さえしなければ、現実にならないはずだ。 「すみません」 言い方だけを変えて繰り返される詫び言。囁きは耳の穴の中を空しく跳ね返り、脳に届かんとした。 無視した。彼女が語ろうとしているのが不確定な未来である限り、拒絶し続けていられる。だからこそ、頑なに受け入れようとしなかった。 数秒経っても口を噤んだままのゲズゥを、ミスリアが不安げに見上げる。 「隠していて、すみません。気付いたのはしばらく前だったんですけど」 ぼそぼそと紡がれる独白。 「もっと早く言えたらと、思っていました。いいえ、これは貴方からすれば言い訳にしか聴こえないでしょう」 一語ずつ吐かれる度に、傍らの炎が揺らぐ。四肢に緊張が走った。 「私は」 やめろ、それ以上は言うな――喉まで出かかった一言を、しかしゲズゥは腹の底に押し戻すこととなる。 腹部が衝撃に襲われた。 勢いよく抱き着かれたのである。不意を突かれたために身体は呆気なく傾ぎ、後ろに倒れ込んだ。 圧し掛かってきた重みは、激しく震えていた。 「私は、山を下りることが、できません。聖獣を蘇らせる為には――」 ゲズゥの胸板に顔を埋めたまま、ミスリアは秘め続けてきた事実の一切を吐いた。 「…………」 聞き終わった後――横になっていてよかった、と真っ先に思った。嘔気すら伴いそうなほどの眩暈がしたからだ。呼吸が不自然に速くなり、胃の中に暗い感情が生じた。 ――ああ、そうか。だからあの時―― 回想した。苛立って終わっただけのあの場面に新たな解釈が加わる。 長いこと傍に居たのに、心中を察してやれず、その場の激情に任せて髪を引っ張ったりもしたな――と、静かに省みる。 ゲズゥがそんな不毛な物思いに耽る間、腹の上に乗った小さな身体は尚も震えていた。両手で抱き抱えてやるといくらか落ち着いたが、逆に泣き声が大きくなった。 「強要されたからではなく、他に選択肢が無いからではなく……貴方が自らの意思で、護りたいと思えるような……それだけの価値がある人間でありたいと、ずっと願っていました」 「……前にも言っていたな」 いつだったか、確かミスリアが好色家の男に攫われて、アリゲーターなどの煩わしい罠を乗り越えてまで助けてやった時に、交わした言葉だ。 「守る価値があると、思いますか?」 胸につけている革の鎧に、ぐっと爪が立ったのが見えた。 「ある」 「――っ、ありがとうございます。光栄、です……」 「本心だ。お前に話した、『時間』への要求も」 いつからそう思うようになったのかは、思い出そうとするだけ無駄である。これまでの人生に多くの恩を、多くの潤いを与えてくれたこの聖女は、命ある限りこれからも守るべき存在だと、疑いようが無かった。これからも、彼女が心安らかに過ごせる安全な場所を作ってやりたいと思っている。 だと言うのに、ゲズゥの中には新たな葛藤があった。 人を大切にしようとする上で、時として双方の願いが衝突することもあると、唯一の肉親である弟との長年の付き合い方から学んでいる。相手の意思を尊重するか押し切るかの問答。 ――約束、した。使命を遂行する手伝いをすると。 しかしもはや、矛盾する願いを抱いてしまっていた。 「あの時、本当はすごく、すごくうれしかったんです! 目的を成し遂げて、旅も終わって当初の取引が無効になっても、それでも一緒に居たい、と。そんな風に望んでもらえて私は幸せでした」 「…………」 数週間遅れで言い渡される返事を、黙って聞き届けた。 「私もこの世界にそれ以上の何かを望みません。二人、役目を終えた後は次にどんな苦難が待っていようと、変わらず共に歩みたい。それだけです」 目を閉じても眩暈は治まらなかった。諦めて、再び瞼を開く。 「ミスリア――」 望んでいた言葉だったはずなのに、素直に喜べない。 切なげな喘ぎが、服を濡らしていくとめどない涙が、結論を物語っている。 聞きたくなかった。かと言って、黙らせるだけの気力が沸かない。 「だからこそっ! 報いられないことが! 哀しくて、悔しくて! 申し訳なかったんです!」 「わかった。わかったから、ゆっくり、息をしろ」 |
63.f.
2016 / 10 / 21 ( Fri ) 懸命に抗議しつつミスリアは首を反り返らせて振り仰ぐ。 至近距離で目が合った。再会したばかりの時と違って茶色の瞳は澄んでいる。その瞳いっぱいに映る己の輪郭は、薄明りの中でもハッキリと見て取れた。 不可思議な感銘を覚える。 鏡の向こうの己の姿に別段何も感じないが、清廉な眼差しの中に浮かぶ己の姿を認めると、奇妙な快感が皮膚を痺れさせた。 少女の心が映し出す自分は――これまでの自分と異なった、別の未来の可能性を予感させるものだった。 きっとゲズゥにとってのミスリア・ノイラートとは、出会った当初からそういう存在であったのだろう。 ――この生涯で。 与えられたものの一体如何ほどを、返してやれるのか――と、漠然と想いを馳せる。 そこで突然、ミスリアが「ひいいい」と叫んで後退った。 「ち、近っ……! すみません! あの、私、臭いですよね」 何故か縮こまって謝り出している。 今日は何やら否定ばかりしている、とゲズゥは思った。 「いや……比較対象が、この汚臭に満たされた穴の空気じゃなかったとしても、お前はいつもいい匂い――」 「いつも!? そんなにいつも匂いますか……? じゃなくて、か、嗅いでるんですか」 言葉半ばに遮られる。 「そうだな」 肯定した。と言っても意識して嗅いでいるわけではなく、気が付いたら嗅覚が香りを拾っているだけであるが。 「野花みたいなさっぱりした匂いだ」 「ひいいいい」 くぐもった奇声が返った。 「…………」 少女が頭を抱えてダンゴムシのように丸まっているさまが面白く、しばらく放って置こうとも考えた。が、気になるものが目に入ったため、ゲズゥはミスリアの左手首を掴んで翻した。 血の痕だ。こちらの血痕は、顔に張り付いていた薄片と違って、色味が茶よりも赤に近い。よく見ると、掌に幾つかの細かい切り傷がある。そっと親指の先で触れてみると、確かに濡れていた。 顔を上げ、「この傷はどうした」と訊こうとして、止めた。 ミスリアがあまりにも悲しそうな顔をしていたからである。唇は震え、両目には涙の膜が張っていた。 「ごめん、なさい」 「何が」 「……せっかく、いただいたのに」ミスリアは膝の下から小石のようなものをかき集め、両の掌で差し出した。「砕かれてしまって、こんな欠片しか残りませんでした……」 黒い石の破片を改めて見下ろす。 何気なく手を伸ばし、一際大きな欠片を人差し指と親指に挟んだ。冷たい感触が、乾燥した指先を刺激する。 すぐに何の欠片であるのかを理解できた。しかしそれがわかったところで、この悲しみようは理解できない。 「気にするな。雪山から下りたらまた買ってやる」 華奢な肩がびくりと跳ね上がった。ミスリアは俯いたままわななき、大粒の涙をぽろぽろと零した。差し出していた手を下ろしたかと思えば、膝の上で拳を握っている。 「その……また、の機会は、もう……」 か細い声がつっかえながら切り出す。 どうして彼女はここで涙腺を決壊させるのか。ゲズゥは少なからず戸惑っていた。 次の一瞬で、心臓が圧迫されたような感覚に陥る。 断罪を待つよりも重い心持ちで、次の言葉を待った。 「来ないんです」 |
63.e.
2016 / 10 / 12 ( Wed ) ミスリアの願いを支え、寄り添うつもりだった。避けられるようになった昨今では、繋がっていた気がした糸が――何をすれば余計に絡まるのか、それとも完全に切れるのか、視えなくて逡巡しているところだ。もっと平たく言えば衝動と理性の間で揺れている。理性によって距離を置き、衝動によって詰めてしまうのである。 ごちゃついた行動動機を整理し切れなくて、ますます疲れる。手を放して一歩身を引くと、ちょうどミスリアは身をよじって激しく震えた。 今からその調子では、寒くて寝付くことなど到底不可能だろう。ゲズゥは自身が断熱用にコートの下に着ていた毛編みの上着を脱いで、華奢な肩にかけてやった。 そうしてやる間も茶色の瞳は絶えずきょろきょろしていた。 「まだ寒いか」 「おかげさまでとても温かいです。ありがとうございます」 と、少女は心底温かそうに微笑む。 重ねていた服の層を一枚脱いだばかりだというのに、その笑顔が見れただけで、つられて内から温かくなった気がした。 それからゲズゥは、自らが携帯していた少量の水と食糧を差し出す。ミスリアがそれらを残らず胃の中に流し込むのを、黙って見守った。 頭上の吹雪はひたすらに音量を増すばかりだが、この空間では、控えめな咀嚼音と焚火の跳ねる音だけがしばらく響いた。 眠気が意識に紛れ込んできた頃。 あの、と小さく切り出す声が聴こえた。いつの間にか下ろしてしまっていた瞼を、おもむろに開ける。 焦点の合わない視界に、少女の輪郭がある。サイズの合わない上着の袖にいつの間にか腕を通したのか、余った布を膝上に揃えてちょこんと座っている。 近い。驚いて目を瞬かせた。 そして、違う理由で驚くこととなる。 「生きていてくれて、ありがとうございます」 ――心臓が止まった気がした。 これほどまでに真摯な感謝を、これほどまでに嬉しそうな顔で向けられたことが、未だかつてなかったからだ。 母の亡霊から受け取った慈愛に匹敵する、深い情を感じた。透き通るような純粋な想いを。 たとえ思い込みでもいいと。この後、また突き放されてもいいと。 以後、掃き溜めにて人生を送らされることになっても、この瞬間に受けた感慨を二度と忘れることはないと――明日も太陽が上がるであろう事実への確信以上に、確信が持てた。 ゲズゥ・スディル・クレインカティの人生に於いて、死んで欲しいと望む人間よりも、生きて欲しいと望んでくれる相手の方が遥かに貴重だった。貴重なものは大事にするのが、道理である。 ――などと考えはしても、思い通りに言葉に変換することができず。 「…………」 声の出し方を忘れたまま、行き場の無い感情を喉奥で疼かせる。 衝動のままに、小さな身体を掻き抱いた。 言葉にできない言葉が、こうしていれば欠片でも伝わるのではないかと、もしかしたら思ったのかもしれない。 想いを同じくしていること、お前こそ生きていてくれてありがとう、との想いを。 こちらの腕の中にすっぽり収まったミスリアが、甘えるように擦り寄ってくる。細い腕がしっかりと抱擁を返した。 少しくすぐったいぐらいだが、手放すほどではなく、むしろ心地良い感触だった。つむじの冷たく濡れた髪に、微かに顎の先を掠る。 得難い宝物は簡単に手放せるものではない―― ――ふと、違和感を覚えて、抱き締める力を緩めた。 少女の座り方がややバランスが悪く、片側により多くの体重をかけているように見える。腰か脚を痛めたのか、とじっと見つめながら思考した。視線の先を辿ったミスリアが、気まずそうに目を伏せる。 「俺が突き飛ばしたせいか」 「えっと……」 「結果的に、攫わせたようなものだな」 あの時はミスリアを雪崩の進行方向から逃れさせることに夢中で、敵の女の動向にまで気を配る余裕が無かった。 「うっ、そ、それはそうですけど……でもそうしていなかったら、私は窒息したかもしれませんし! あの時は、あれが最善だったんですよ。気に病まないでください」 |
63.d.
2016 / 10 / 10 ( Mon ) 「わ、はい!」
モグラの如く、少女は穴の中に引っ込む。 ゲズゥはゆっくりと穴の中に身を下ろし、トンネル状の内側の壁を掴んだ。防寒着のコートを脱いで穴の蓋代わりにし、その上に剣を載せて簡易的な重石とする。 戸締まりも終えたので土を掴んでいた手を放し、滑り落ちていく。ゲズゥは屈んだ体勢で着地した。 落ちた先には枯れ葉と枝の感触。そこで、手を伸ばして天井の位置を確かめる。流石に立ち上がるのは無理だが、膝立ちになれる程度の高さはあった。 火を点けるぞ、と闇に向かって言った。目がまだ慣れないため姿は見えないが、気配があった。 「どうぞ」 了承の声が返るよりも前に手を動かしていた。壁沿いに小さな焚火を作る。 この場合は穴の中心に、ちょうど二人の間に割り込むように焚いた方が身体を温めるには効率的だったろうに、なんとなくゲズゥは中心から横にずらした位置を選んだ。 炎から滲む熱に温まりながら、リーデンに状況を連絡する。 ――聖女さん、見つかったの!? ――無事だ。とりあえず悪天候が過ぎるまでは地中に篭る。そっちも気を付けろ。 ――大丈夫、かまど作ってるよ。はー、でもよかったー……後で合流しよう。聖女さんには、おやすみって言っといてね。 会話はそこで終わった。その内容を、おやすみと言っていたぞとの報告も込みで、ミスリアに伝えた。 当のミスリアは、わかりましたとだけ答え、自分の指を噛んだり手の甲をつねったりしていて挙動不審だ。その様子に、攫われていた間に精神に悪影響を及ぼすようなことをされたのかと想像する。 「どうした」 思わず問うた。素早く顔を上げたミスリアは、しかしふるふると頭を振った。 「なんでもありません」 「…………」 誤魔化そうとしているのかと思い、訝しげな顔で応じる。 「なんでも、ないんですけど……また会えるとは思ってなくて。夢、じゃないかと、確かめてるんです」 ミスリアは早口にまくし立てた直後、目を逸らした。 二度と会えないのではないかという疑念は、こちらも強く抱いていたものだが――。 ゲズゥは焚き火に照らされた頬を見つめる。涙筋の他に、先ほどは気付けなかった、茶色く変色した痕があった。 手袋を外し、一思いに互いの膝の間の距離を詰める。 顔は依然逸らされたままだ。それを両手で包んで、半ば強引に上を向かせる。掌に触れる肌は冬の空気に乾燥させられていて、普段の張りをすっかり失っているように思えた。 そんな中でもはっきりと――でこぼことした触感をもたらす痕を、右手の親指の腹で拭ってやった。乾き切った薄片(はくへん)が、抵抗なく剥がれ落ちる。 「この血は」 訊くと、茶色の双眸が頼りなげに視線を絡めてきた。 「血……? あ、はい、きっと返り血です……。いただいたナイフで、女の人を、切って……」 「そうか」 「わ、私は。ひどい、ことを……いえ、あれでよかったのです……よね」 何故言葉を濁すのかが理解できない。恐ろしい出来事を思い出しているのだろうか。 「尋常じゃない目に遭ったのはわかる。もっと早く来てやれなくて、悪かった」 「そんなっ! 謝らないで下さい! そちらも大変でしたのに、私こそ自分の身くらい自分で守れなくて、すみません」 「いや。お前が此処に居ることが、自分で自分の身を守れる証明だ。よくやった」 そう否定してやると、ミスリアは唇を噛んで俯いた。やはり、ゲズゥには少女の心中がわからない。 「…………それにしてもひどい恰好だな」 胸部分を派手に切り裂かれた肌着を一瞥して言った。しかも布がぺらりと開いた先から下着が露わになっていて、随分と寒そうである。 「ひっ! す、すみません、はしたない姿で。お目汚しを」 「……? 扇情的ではあるが」 「せんじょうてき……!?」 「はしたないと表現するのは不的確だ。自らそうしたんじゃないだろう」 「そ、そうですね」 ともすれば劣情を催すこともあるだろうに、疲労もあってかそんな気分ではなかった。 そもそも、現在ミスリアに抱く感情や、関係性の捉え方があまりに複雑で不明瞭だった。 聖女ミスリア・ノイラートとはかけがえのない存在であり、身近な少女だが、人を大切にするというのがどういうことかまともに学んで来なかったゲズゥには、どうしてやればいいのかがわからない。 |
63.c.
2016 / 10 / 08 ( Sat ) 魔物は地面を打つ――或いは穿つ――のに夢中で、こちらに気付かない。 この機に乗じて、一振りで毛玉の群れを切り崩した。すると損傷した毛玉から次々と砂埃が発せられる。咄嗟にフードの中で顔を逸らしたが、虚を突かれただけにいくらか吸い込んでしまう。咳き込んだら隙が生じると直感して、ゲズゥは後退した。 すっかり魔物の矛先がこちらに移っている。 足や腕に跳びかかる三つ頭のイタチ数体を、蹴ったり殴ったりして払った。体勢を安定させてから剣を両手で右斜めに構え直す。 助走をつけた。振り下ろす動きは右上から左下へ――ぼぞ、と鈍い音を立てて毛玉の残党は裂かれた。今度は吸わないように、息を止めたまま埃の雲を走り抜けた。 走り抜けた先で待ち構えるイタチの魔物が三体。腰を低くして両手首を翻し、大剣を左から右へと横に薙ぐ。三体の内二体は腸をぶちまけて地に沈んだが、三体目は巧妙に剣の軌道を避けた。 獣(けだもの)の顎がゲズゥの喉元を求めて開かれる。 上体を捻って喉を死守した。結果、三つ頭のひとつがゲズゥの左肩に噛み付いた。防寒着の下にも実は革の鎧を着用しているため、痛みはほとんど感じない。 膝を折った。左肩を接点に立てて、雪の固まった地面に体当たりした。 魔物は苦痛にのたうち回る。絶叫の三重奏ががひどく耳障りだった。ついでに、肩が衝撃で麻痺してきている。 それでもゲズゥは左肘でイタチの腹を連打する。叫び声が鎮まるのを見計らって片膝立ちになり、刃で息の根を止めた。無力化した魔物の破片はこのまま積雪が進めば脅威ではなくなるだろう。 やっと一息つけたところで。魔物たちが取り囲んでいた箇所を見つけ出し、近くまで這う。 何と、地面に穴が空いていた。 その幅は目測二フィート(約61cm)。毛玉群が邪魔していなかったら、イタチの魔物ならこの穴を通れたかもしれない。 だがそんな過ぎたことよりも、穴の内容物だ。人間(エサ)がより多く居たあの砦からこんな何も無いところまで魔性を引き寄せられるものを、ゲズゥはひとつしか知らない。 「ミスリア」 闇の底へと呼びかける。衣擦れの音すら聞き逃さないつもりで、耳を寄せた。 静かだ。地上では風がうるさく吹き荒んでいるだけに、地中に頭を突っ込むと余計に静かに感じる。 聴こえなかったのか、もう一度呼ぶべきか、それとも怯えて出て来ないのではないか、と色々悩んで、身を引きかけたその時。 衣擦れというよりも、葉擦れの音がした。やがて紫色にも見える細い手がぬっと穴の縁を掴んだ。指先は赤みを帯びていて感覚が無さそうだ。 痛々しい。一体、どれほどの時間をこうして屋外で過ごしていたのか。 汚れの固まった栗色の髪に続いて、蒼白な顔が穴の中から上がってくるまで、ゲズゥはただ見守った。むやみに手を貸したら拒絶されるのではないかと思ったからだ。 「……こんなところに居たか」 目が合った途端、深い安堵のため息を吐き出した。吐いた白い息が少女の頬にかかり、一瞬、まるでそこだけが熱を取り戻したように見えた。ミスリアは僅かに震えた。次いで大きな茶色の瞳を瞬かせて、じっとこちらを見上げる。 その瞳が、あまりに虚ろに見えた―― ――認識されていない? ゲズゥはよくわからない焦りを覚えて、両手を伸ばす。衝動だったが、多分肩を揺すろうとでも思ったのだろう。 それを、腕にしがみつく力が阻止した。引きずり込まれそうなほどに強い力だ。驚き、反射で足腰から踏ん張る。 「落ち着け」 面(おもて)を改めて眺めやりながら、呼びかけた。ミスリアは堰を切ったみたいに大泣きしていた。途切れ途切れに何かを訴えかけているが、風の音が邪魔で聴こえない。 「おい、」 朱のさした顔、嗚咽、寒そうに赤らんだ鼻。次第に、不快感にも似たざわめきがゲズゥの胸の内に生じる。 「ミスリア!」 額を近付けて怒鳴った。ようやっと、泣き声が止まる。 「……あ」 「泣き止め。鼻水が凍る」 「はな、みず……」しがみついていた手が離れた。そのまま鼻の下に触れて感触を確かめると、ミスリアはきょとんとした顔になった。「すごい。本当に凍るんですね」 「お前が隠れていた、その穴は何だ」 「あ、えっと、偶然見つけて……動物の巣穴か何かみたいです。結構広いですよ」 「入れろ。吹雪をやり過ごす」 冬には鼻水が凍る地域で育った甲は、雪が恋しいです。 |
63.b.
2016 / 10 / 06 ( Thu ) 直径三十フィート以上の広い空間の中心に、長椅子が置かれている。両端には人の身長と同等の高さの燭台。 長椅子に座す女が上半身の衣服をはだけさせて、傍の者に包帯を巻いてもらっている。足元に積み重なる布はびっしょりと血に濡れていた。女はこちらの姿を認めて、豪快に膝を叩いた。 「これは驚いた! きみたち、あれを生き延びたのかい!? おそるべき執念だ! 正直ぼくは、きみたちと聖女サマの相互依存を甘く見ていたよ!」 「相互依存じゃなくて、絆、ね」 憎き女の言動を逐一訂正しても埒が明かないと思い、リーデンは母国語でボソッと呟いた。 「そんなきみたちに敬意を表して聖女サマを明け渡してもよかったんだけど。生憎と、かのじょはもうここにはいないんだ」 ――此処に居ない!? 世界が急回転を始めたかのような錯覚に陥った。 その末に、視線はクソ女の足元で山積みになっている布に向かう。まさか、まさかアレは。女が胸に負っているらしい怪我からだけではなく、別の誰かの血をも吸ったと言うのか。 「きみが何を想像したのかは知らないけど、かのじょは逃げたよ。自分からもっと危ない方へ走るなんておばかさんだよね! 今頃は外の魔物に喰い散らかされてるかも。よくて、凍死しただろうね!」 女は高笑いし始めた。「かわいそうだね。さぞや心細かっただろうね」 だがもはや、相手になどしていられない。 「撤退するよ!」 隣のフォルトへの背中を叩く。 「うえっ!? あ、はい」 二人して脱兎の如く、部屋を辞した。 即刻逃げる判断は、広い空間のほとんどを埋め尽くしていた異形を警戒してのことだった。長椅子の背後に佇んでいた影は、雪崩を引き起こした個体と同等以上の大きさである。そんな化け物とやり合わねばならない事態は回避したい。 逃げながらもリーデンは、小さな聖女の身を案じてやまない。 女が嘘を吐いたようには感じられない。またもや、空振ってしまった。 (ああやばい。外に出たって……やばすぎでしょ) 走っているというのに、身震いした。 捜索範囲が広すぎる。そもそも捜しても間に合うのか。 このことをどうやって兄に伝えればいいのかわからず、リーデンはしばしの間、途方に暮れた。 _______ ミスリアの行方を突き止めることに失敗したと、リーデンからの通達が届く数分前。 ゲズゥ・スディル・クレインカティは、ふいに隠れ場所から立ち上がった。茂みの中に身を潜めて待機するようにと、再三言い含められていたのに、だ。 勝手な真似をするな! と厳しく囁く、女の声を無視する。 やたら明るい夜の風景を、念入りに見回した。 薄赤色の空は無情にも、雪という名の困難を地上に落とし続けている。 稜線沿いには魔物信仰を宿す石造りの砦がそびえ立つ。 そこから出入りする人間の姿は未だに目撃していないが、今になって思い返すと、魔物だとしか説明のつかないような不細工な影が出て行くのは、数度見送っている。 間隔が長かったために気が付かなかった。砦から出て来た異形は揃いも揃って、同じ方角に身を運んだのである。 行き着いた先に何があるのか、確かめねばなるまい。 「おい! 何処へ行く気だ!」 女の呼びかけに振り返りもせず、走り出す。 険しい道のりだった。辟易するほどに、何度も足を滑らせて転んだ。 雪山とは末恐ろしい地形である――進んでも進んでも限りが見えず、近付いているつもりでも遠ざかってしまう。いつになれば行きたいところへ辿り着けるのか。胃の奥がキリキリと痛んだ。 ――ごめん兄さん! 聖女さんの居所が掴めなかった! 外に出たらしいって聞いたけど―― ――ああ、わかってる。 弟の呼びかけの必死さに反して不相応に沈着な応答をしてしまったのだろう。次は素っ頓狂な返事が返った。 ――へ? ――心当たりがある。確かめに行く。 そう告げてやると、リーデンはそれきり黙った。 ゲズゥが平静さを多少取り戻せたのは、光明が見えてきたからにほかならない。 一旦閃けばもうそれしか考えられなくなる。狂おしく長い数分をかけて、目先の雪原を目指す。 そして、見つけた。 何の変哲もないはずの山肌の中の異物。人間並みの大きさの毛玉が二十ほど、ひしめき合っている。 よく見ると毛玉は連なっており、中心に一際大きな毛玉があった。それらの周りを、イタチに似た形状の個体が幾つかうろちょろしている。元来のイタチと違って三つ頭で、人間の幼児と同じ大きさだ。 ゲズゥは大剣を構えてその場に接近した。 |
63.a.
2016 / 10 / 04 ( Tue ) 限界までに研ぎ澄まされた精神に、喧騒など届かない。 戦闘に特化した種族と言われていながらも、自分たちが研いできた最大の武器は生身の身体能力に非ず。ほかならぬ「集中力」こそが、他人を出し抜ける強みである、と。少なくともリーデン・ユラス・クレインカティはそのように考えていた。 ゆえに――同じくそれを極めた他者には、純粋な感嘆を抱いてしまう。 視界の中を舞うように動き回る中肉中背の男は、防寒着の妨げなどまるで感じさせない軽やかな動きを見せる。 同等以上の素早さのみならリーデンにだって出せる。 男の身のこなしには、捉えがたいリズム感があった。そしてそれが己ではなく敵方の「呼吸」を逆手に取ったものだと、後方から観察している内に気付く。 誰しも決定的な行動をする直前に、無意識に呼吸を変えてしまうものだ。微細な変化を拾える聴覚、それに従って迷わずに飛び出せる思い切りの良さ。 フォルトへ・ブリュガンドは自身が戦闘種族の血筋ではないと言い張った。ならばこの対応力と剣さばきは、あくまで後天的に身に付けたものだということになる。 狭い通路で待ち構える敵影は七つ。 三日月刀が閃き―― 右に立っていた二人の前を通り過ぎた頃には、二人とも首から血飛沫を散らしながら倒れ。 左側から切りつけてきた一人と刃交えるのかと思えば、その横をすり抜けて、アバラの間を貫いた。 更に通路を突き進む道途、左右から飛び出て来た二人に前後を挟み撃ちにされそうになるも、一回転。綺麗な血の色の円を、水平に描いていた。 ひゅう、とつい口笛を鳴らした。 残る敵がフォルトへの背後を取ろうとしている。そんな彼らの顔面に、リーデンは当然のように鉄の輪を沈めた。 通路はこれでひとまず安全だ。敵の断末魔やら呻き声やらを楽々と踏み越え、フォルトへの横に並ぶ。 「見直したよ。お姉さんが君を高く評価するのも頷ける。この調子だと、僕は別に要らなかったんじゃない?」 「いいえ、そんなことないですよ~」 フォルトへは、照れ臭そうに笑って前髪を弄った。本来木炭の色であるはずの巻き毛に、固まりかけた血がくっついている。それは敵の人間の血であり、魔物の体液でもあった。 「それはそうと、こっちでいいんだね」 「はいー。通路の先から、あの女性にまとわりついてたのと同じ、ユリの花の香りがします」 「オッケー」 駆け出した。 (今度こそ本人が居るといいんだけど……) 状況は切迫している。魔物を信仰する集団の拠点まで辿り着くまでに、相当に時間がかかったのだった。 そこからがまた厄介である。 下手に大事にすれば敵がこちらの意図に気付いて、先にミスリアを殺すなり隠すなりしてしまうかもしれない。戦い方の性質上、派手に立ち回りそうなゲズゥとユシュハを外で待機させ、リーデンたち二人が潜り込む運びとなったのだった。 攫われたミスリアの居場所を迅速に特定するには敵の頭を押さえるのが最短の道――そう考えて、現在はフォルトへの嗅覚を頼っている。と言っても既に一度空振っていた。ドライフラワーにされたユリ科の花が大量に蓄えられた、怪しげな区画に迷い込んだのである。 ついでに言うと、拠点内で何か別の騒ぎが起きたばかりなのか、人々の注意は全体的に散漫としていて落ち着きが無かった。侵入者への対応が遅れている理由はきっとそこにあるのだろう。 (この先にあのクソ女が居てくれなきゃ、困る) 突き当たりに僅かな光が射している。最も奥の部屋から漏れているようだ―― 急停止した。 リーデンは三度跳んで後退する。 部屋の出入口から飛び出た気配のひとつが肉薄した。得物は細身の剣だ。影により相手の顔は依然見えないままだが、構え方から推察する。 (きっと剣筋が実直なんだろーね) 推測通り、まずは心臓狙いのわかりやすい突きが繰り出された。 左腕で敵方の剣先を遮り、防寒着の袖を切らせる。切るよりも突く働きを追求した軽い剣が、分厚いコートに思い切り引っかかった。剣士の意識がそちらを向いた刹那、リーデンは右腕の仕込み刀を解放する。 殴ると見せかけて、相手の下腹部を刺した。 襲撃者を倒して晴れて手持無沙汰となったので、連れの方に気を配ることにする。そちらに向かった敵は見えない何かに足をさらわれ、もつれさせている。相手を転ばせて隙を誘ったのか。幼稚に思われがちな戦法だが、効果が絶大であるのは確かだ。 (鉄線かな) 線に転ばされて絡め取られるまでが一秒。可笑しな姿勢で腕を挙げさせられたその男は、恨みの文言を吐く間もなく三日月刀に命を奪われる。 「なんたら城(じょう)で僕らとコトを構えた時はそんなの使ってなかったよね」 鉄線を掌の上のカラクリに巻き戻しているフォルトへに、小声で話しかけた。 「一般人がいましたから~。巻き添え食らわせたらいけないでしょう」 「ふうん」 話はそれきりにした。気構えを改め、部屋の中に踏み入った。 |
62.k.
2016 / 09 / 29 ( Thu ) 惑乱に踊らされる人の輪が、謎の影によって一層崩される。 ひとまず地面に伏せた。その間、叫び声が頭上を飛び交う。「なっ!? なんでこんなところに!」 「ぎゃあああああ」 「拠点中の魔物が急に暴れ出してる!? 鎖を引き千切って……せ、制御できねえ!」 「このままじゃコヨネさまが檻を壊しちまう――」 ここぞとばかりにミスリアはガバッと顔を上げて、動き出した。 「聖女、まさか! 魔物を自ら引き寄せたと言うのですか! そんな所業、理論上は可能でも実際にやるとは……貴女も十分に正しさから逸れていますよ!」 聖人が喚くのも顧みず、ミスリアは這って人々の間を縫っていた。動きを止めると、魔物に狙い撃ちされてしまうからだ。 (なんとでも言って。反省は後でするから) そこかしこの傷が痛い。打撲した腰が特に、めちゃくちゃに痛い。でも、確かに動かせる。 少なくとも人だかりから逃げおおせた。壁伝いに立ち上がり、一度呼吸を休ませて―― ――走る。 片足を引きずりながらも、走る。地面が激しく揺れる度に転んだりしながら、掴みかかってくる人の手から逃れながら、ひたすらに走る。 混乱の最中(さなか)をどうやってうまく切り抜いていったのかははっきりとはわからない。気が付けば出口を見つけられて、気が付けば氷点下の世界を横切っていた。 亡者の気配が追ってくる。人間の追っ手がまだ迫らないだけ、幸運と言えよう。 (急がないと……急がないと……) 急いで、どこか隠れられる場所を見つけないと。 広大な景色に恐れをなした。 置かれている状況の厳しさを再度理解して、ミスリアは戦慄した。全身が凍って動けなくなるまでに何分、或いは何秒もつだろうか。 聖気を使えば、多少の暖を取れる。一方、それではいかに隠れようとも魔性の物に見つけられてしまう。 (お導き下さい) 夜空を見上げて大いなる存在に乞う。 目頭に涙が滲む。空はいつの間にか明るくなっていた。かといって夜明けが近いわけでもなく、降りしきる雪の結晶が月明かりを反射しているのである。 背後から獣の咆哮が響く。それはあまりにも細く、人間的な音の歪みであった。 ――魔物に追いつかれる! 震える手足を引きずって進む。見えない何かに突き動かされて、二時の方向に雪の中を這う。 怖いもの見たさか、振り返った。 毛むくじゃらの異形が視界の大半を占めて尚大きくなる。 後退る。声にならない悲鳴が、ミスリアの強張った喉を震わせた。 思わず地面に爪を立てようとするも、大地はぐにゃりと窪んで、こちらの指を支えてはくれなかった。 ――ズッ。 床が抜けた直後、滑り落ちる。 やがて乾いた枝の感触に包まれた。どこからともなく糞尿の臭いがする。 (……動物の巣穴?) となると、元の住人はどうなったのだろう。 暗闇の中に生き物の気配はしない。とりあえずはこの場所を見つけられたことに感謝する。 (当分ここで凌げそう) 当分、が果たしていつまでなのか。 体積の大きすぎる魔物が入り口をこじ開けようとしているのは、音や衝撃から明らかだった。小石が穴の中に落ちてくるだけで、びくびくと身構えてしまう。 (大丈夫。いざとなったら、魔物の一匹や二匹くらい私ひとりで浄化できる) 一匹二匹で済まない場合、或いはプリシェデスら人間に見つかった場合は、また別の話だ。 考えない。不安にさせるものは全て忘れねばならない。何よりも、心を奮い立たせる方が重要である。 (地中って結構温かいのね……) 入り口をもっと念入りに閉じることができれば更に温かそうだ。そんなことを思いながら、ミスリアは横になって蹲る。 逃げていた間に一度も開かなかった左手の拳を、ゆっくりとほぐしていく。 砕かれた黒曜石がそこにあった。 どさくさに紛れて回収できたのは、ほんの少しの欠片だけだ。それぞれに穴を開けて紐に通しても、ブレスレットにすらなれないような量である。 「ふ……ひっ、う」 抑え込んでいた悲しみが、溢れ出す。 大切なものが壊れた。鏡もナイフも、大切にできなかった。守れなかった。 でも、守ってくれた。 無機物たる道具が身を守ってくれたというのは、この場合自分自身がそれを振るったからなのだが――ミスリアにはまるで、道具を与えてくれた当人に守られたかのように感じられた。 静かに泣きじゃくる。これまでの顛末を振り返る時間ができてしまうと、ひとつの強い想いが改めてじわじわと身体中を侵食した。 「うえっ、くっ」 きつく目を瞑った。心の奥に残るその姿に、声に、言葉に、縋る。 助けてくれなくていい。笑いかけてくれなくていい。 口を利いてくれなくてもいいから、傍に居たい。居て欲しい。 近くで息をしてくれるだけで、いいから。 (会いたい――――) 皮膚が切れるのも厭わずに。 石ころになってしまった黒曜石の刃を、両手の内に握り締める。 |
62.j.
2016 / 09 / 28 ( Wed ) 「ま、さか。貴方は、北の地で消息を絶った……せい、じん……? どうしてこんな裏切りを! 何故……魔物を信仰する集団に与するのですか!?」
伸びていた手が宙に浮いたままぴたりと止まる。 「聖女よ。何か誤解されているようですが、私はヴィールヴ=ハイス教団に敵対しているつもりはありません。教団には大変お世話になりましたし、み教えは正しい。ただし、正しさから逸れた世界も興味深かった。ただそれだけのことです。私はコヨネ・ナフタが生きている間に完成できなかった『瘴気を貯める器』を創る理論に興味を持ったのですよ」 男性の和やかな笑顔を見上げて、ミスリアは歯噛みした。 「ただそれだけの探究心の所為で……犠牲になった人たちは、どうなるんですか!」 この建物に棲む魔物の叫びを聴いていたから、知っている。虐殺された遊牧民、拷問にかけられ衰弱死した組織ジュリノイの成員、攫われてしまった罪無き旅人――命を軽んじられた者たちの無念を。 「可哀相でしたね、彼らは。抗うか逃げるかするだけの強さが無ければ、我々の仲間になる強(したた)かさも無かったばかりに」 「ぐっ」 歯軋りする。 同胞であるはずの男性の面貌が、ひどく醜いものに変わった気がして、目を逸らさずにいられなかった。 (……あれ) 逸らした先に違和感を見つけた。破けた肌着の隙間から白くて長いものが覗いている。厚みのある乳白色に時折交じる茶色の模様は、動物の角を磨いたような―― 思い出す。 護身用に持っていろと言われたのに、どこに収めればいいのか決められず、こっそり下着の中に挟んだソレを。 ――バシ! と左横から伸びる元聖人の手を振り払い、残る右手を肌着の中に突っ込んだ。目当てのものを指先で探り当てる。掴む。そして、鞘からするりと抜き放つ。 なんと、例の暗い部屋から引きずり出されて以来、ミスリアの両手は拘束されていなかった。侮られていたのだろうが、それがかえって好都合である。 「……す、より……る」 周囲に好奇の色が広がる。話題のペンダントを握り締めるわけでもなく、少女が己の胸元をまさぐるさまは、一体何をしているように見えるのだろうか。とはいえ、羞恥心など知ったことではない。 「往生際が悪いね、また無意味な祈りをブツブツと呟いているのかい」 こちらを覗き込むように上体を傾けるプリシェデス。 自ら近付いてくれた好機。彼女の胸辺りめがけて、ミスリアは手の中のものを水平に薙ぐ。 (刺すよりも、切る!) 狙い通りに何かを切り裂いた。嫌な手応えが指を伝う。 と、同時に温かい鮮血が散った。 刹那、息をしそびれる。こちらに向かって飛んでくる血の滴が目前に迫り、反射的に目を閉じた。唐突な温もりが瞼にかかる。 短い悲鳴が反響する。 ミスリアは下ろしていた瞼を上げた。己を圧迫していた重みが離れた隙に――横に転がって自由の身になり、手すりで背中を支えながら立ち上がった。 ゲズゥに貰った黒曜石のナイフを逆手に構えて、揺らぐ視界の焦点を敵の頭目に当てた。手足はガクガクと無様に震えている。構わずに、プリシェデス・ナフタを見据えた。 「私は未熟だから、貴女がたを説き伏せるだけの理論を組み立てられません。けれど、勝てないとわかっていても、諦められないんです。独りになろうと帰る場所がなくなろうと――立ち止まらない!」 息も切れ切れに叫んだ。 「私はまだ、こんなところでは、死ねない!」 「…………」 相対する美女は、裂かれた胸を押さえて、ゆらりと顔を上げる。指の間からとめどなく溢れる朱色に、ミスリアは内心たじろいだ。 「教主!」 「てめえ、なんてことを!」 周りの声はほとんど耳に入らなかった。 翡翠色の眼差しに、心臓を縛されたような気がした。その虹彩に映っていたのが歓喜なのか激怒なのか、ミスリアには判然としない。 「ふ、ふふ……ふははは! 見事だよ、聖女サマ。でもきみの意地だけではどうにもならない場面があると、思い知った方がいい」 「きゃ!」 死角から伸びて来た鉄剣により、ナイフが弾かれた。それは石畳に落とされ、見知らぬ誰かに踏まれて、更に振り下ろされた剣によって砕かれる。 壊された手鏡の有り様が記憶の片隅に蘇った――が。 「意地だけではありません」 落胆の気持ちを押し退け、すかさず次の手に移る。 祈りの言葉を短縮して聖気を展開した。地面に垂直になるような、細い光の柱を組み立てる。 「無駄なあがきは止めなさい」 元聖人の男性が距離を詰めようとしてきた。 「無駄かどうかはすぐにわかります」 ミスリアがそう返して、ほどなく。 ――地鳴りが始まった。 |
62.i.
2016 / 09 / 26 ( Mon ) 血だらけの広場を改めて見渡す。 「……勝者は食べられるそうですけど、敗者はどうなるんですか」 「息絶えて魔性に変じるもよし、変じないなら別の魔物に喰わせてもよし」 「むごいですね」 「そうかな」 「死してなお苦しむのでしょう」 ミスリア自身は死を生からの解放とは考えていないが、生以上に辛いのはいかがなものか、と思う。 プリシェデスは気持ち良さそうに大笑いして、手すりから降りた。 「それは違うよ、聖女サマ。生きていてもこの世は苦しみしか与えてはくれない。どうせ生きていても死んでいても苦しむんだ、穢れを受け入れて最期には魔に転じることが、終わらぬ苦しみへの解答ではないだろうか」 ――そうじゃない、神々はそんな願いを込めて魔物が発生する仕組みを創ったのではないはずだ、と反論する力も無く。 頭の中で不協和音を作っている、魔物たちの声を想う。 自身の成れの果てを喜んでいる者の声は、こんな風に響くだろうか。こんな風に、生者を誘い招くだろうか。一緒になって欲しい、喰う相手が欲しい、と渇望するだろうか。 五感に混じる雑音を想う。 彼らは本当は現状から脱したくて暴れているのではないか。 生者を引きずり込んで、他者を巻き込んで、仲間を増やして、少しでも自分を正当化したいだけではないか。これでいいと満足しているなら、もっと楽しそうに人間を喰らいそうなものだ。 摂理から外れ、歪んでしまった存在は、在るだけで苦しいのだとミスリアは想像する。毎朝陽の光を浴びて霧散し夜にまた再構築される過程は、世界そのものから拒絶されているようで、きっと辛くて虚しい。 では何故存在しなければならないのか。結局そこがわからないのなら、この集団の在り様を否定することはできない。 「ごらんよ、これがこの世の奇跡。生物が、完全なる霊的存在となって具現化されるとき――」 最後まで聞かずに、ミスリアは息を呑んだ。 何度か瞬きをすると、視界がみるみるはっきりしていった。五感を妨害していた雑音が急に止まったのである。 ――キセキ。 その単語をきっかけに、記憶が呼び覚まされる。 『ああ。そうだったな……お前は、奇跡を起こす女だった』 微かな笑顔が脳裏を過ぎる。 肺がぐっと縮まって息を吐き出す。次の呼吸がうまく繋げられずに喘いだ。この空間に充満している悪臭に、眩暈がした。 まるでどこか遠くに飛んでいた自分の意識が、身体に呼び戻されたような感覚だ。 心は耐え難い状況の重圧に潰れたのではなく、逃げていただけだった。 己の弱さを反省する。感じることさえ放棄した時間を、深く恥じた。 (私は覚悟を決めたのに。どんなに強烈な人生観を見せ付けられても、信念を貫くだけ。私の役目は変わらない……!) 広場では、劇的にとどめを刺そうとして雄叫びを上げる勝者、今にも命の灯火が消えそうな敗者の姿がある。急がねば手遅れになると、すぐに理解した。 ミスリアは息を力いっぱい吸い込んで、口を開いた。 『尊き聖獣と天上におわします神々よ。聖なる光をお貸しくだされ、天地を清め地上人をお導きくだされ――』 短い人生の内に数えきれないほどに奏上してきた祈言の出だし。 紡ぐ。聖なる因子の流れを促す、祈りを。 「何してやがる!?」 プリシェデスの近くに控えていた男性が叫ぶも、意に留めず。 ミスリアは右の掌をかざし、聖気の流れを広場に向ける。 突如、体当たりされる。 思わず目を瞑ったけれど、何かにのしかかられたのは明らかだった。ユリの香りに包まれ、肋骨を圧迫する硬いものがプリシェデスの膝だと知る。幸い、祈言を一通り言い終えた後だ。 「余計なことをしないでおくれよ、聖女サマ」 「……余計、でしょうか。貴女には貴女の主張があるように――私にも私なりの主張がありま、す……」 「死にたがっている者を無理矢理生かしているようにしか見えないけれどね。かれらが何度でも死に挑めば、その都度引き戻すつもりかい。きみこそ、むごいね」 どう言い返せばいいのかわからなかった。 その隙に、バタバタと足音が石畳を打つ。あっという間に大勢の人に取り囲まれた。 「教主! あいつら傷が全部完治した上に、戦意までごっそり失くしちゃってますぜ! やっぱりペンダント没収すべきだって言ったでしょ。あの光に当たって、もしもコヨネさまに万一のことがあったら……」 「じゃあおまえたちがおやりよ。悪女ラニヴィアの教団の象徴なんて、ぼくはさわれないよ」 「勘弁してください教主……あんたが嫌がったのと同じ、おれたちだってあんなもん触りたくねーです」 「ふむ、そうだね。どうやらぼくらではきみをこれ以上脱がせることはできないようだ。よかったね」 ――蹴られた。ミスリアが呻き声を漏らす間も無く、追い打ちの攻撃が肺から空気をさらう。 「なんて、言うと思ったかい」 ビリリと破ける布の音。背中が石畳から浮き上がるほどの衝撃が素肌に弾けた。 「教主様。その娘は聖女だったのですね」 人だかりから何者かが進み出た。視界が滲んでよく見えないけれど、齢五十は超えていそうな男性だ。 「そうだよ。ああ、そういえばお前は元聖人だったね。気になるかい」 プリシェデスが何気なく零した情報に、ミスリアは愕然とした。今、なんと言ったか。 「よろしければ、その娘のアミュレットは私が外しましょうか。穢れを蓄積してから私はもう聖気を扱えませんが、貴女がたと違い、聖気の器に全く触れられないわけではありませんので」 「なるほど、頼んだよ。二度とあの光が出せないように、いっそ壊しておくれよ」 「お任せください」 男性は屈み込んで、ミスリアの胸元に手を伸ばす。 主人公が怖い目に遭うことはあっても、ここまでの暴行を受けたのは初めてでしょうか。 頑張れ主人公! 魔物を指差して「私のご先祖様なの☆」とかぬかすクレイジーな連中に負けるな! |
62.h. +拍手コメ返信
2016 / 09 / 24 ( Sat ) 「我々を活用とは随分な言い草だな」
女の声に振り返る。 「あれ、お姉さん」 女は掌に乗る大きさの物を投げ渡してきた。条件反射で、左手で受け取る。荷物に積んであった非常食の乾パンだ。次に水筒が飛んでくる。 「これで力を付けろ。ああそうだ、口のきけない女は何事もなく馬たちと居るぞ」 「マリちゃん? 見てきたの」 「魔物退治のついでに寄った」――女は表情を険しくして前方を振り仰いだ――「この丘の向こうは山岳地帯、傾斜が厳しくて道も狭い。ソリは置いていくしかない」 「だね」 「正直生きて帰れる確率は、百中、一桁と無いかもしれん。だが行かないと言う選択肢はそもそもありえない」 ありえないね、とリーデンは兄をチラリと一瞥しながら同意した。そっぽを向いていて表情が見えないが、心中は大体察せる。 「あんな新鮮な恐怖を味わわせてくれたんだ、きっちりとお礼はしないとね」 無意識に舌なめずりする。女は、一度首肯して同意を見せた。 「フォルトへ、笛を持っているな」 「はいここにー」 上司の呼びかけで、部下が懐から銀色の笛を取り出した。頂点(ケデク)の大烏を呼ぶ為の代物らしい。烏の足に文を括り付けて、組織に帰すのだと言う。 待っている間、リーデンは乾パンと水を兄と分けつつ腹に収める。 ――ピィイイイイイ―― 高音が夜空を切る。 辺りは吹雪の気配が強まっていた――。 _______ ふと、気が付く。 誰かの声で目が覚めたのかもしれない。 ――して……ちを、……少し―― 水を伝って会話を聞いているような、曖昧な音だ。 五感が遠い。 麻痺していると言えばいいのか。肌を赤く擦り減らしている冷風は感じられないし、怪我をして痛んでいるはずの部位がどこだったかも思い出せない。 視界がぼやけていながらも動いているので、移動している、というのはなんとなくわかった。 自分の足で歩いているのではない。身体が動かせないのだから、そんなはずはない。 両腕を左右から掴まれて雑に引きずられている。 前方を歩くは、曲線なだらかな肢体――女性の後ろ姿だ。オンブレと呼ばれているのだったか、長い髪の色は根元が赤黒い色に始まり、毛先にかけてだんだんと色が明るくなる。 女性はおもむろに立ち止まって、振り返った。 ――きみにぜひ、見てもらいたいものがあるんだ。 彼女の言葉に、はいともいいえとも答えず、ただ首を傾げる。 ――もっと近くにおいで。 声に引き寄せられるかのように、近づいてゆく。実際には、引きずられている。 地面を擦る服の裾が汚れて破け、膝頭からは血が出ている。それでいながら、痛みは感じない。 女性の隣に並べ立てられ、手すりのような何かにもたれかけさせられる。そこはバルコニーのような場所だった。四角い広場を観察する目的で作られているのか、広場を取り囲む四つの壁にそれぞれついている。 広場には、向かって右に巨大な檻がひとつ。左に、何か揉め合っている様子の男性が二人。 ――檻の中に大きな魔物が居るだろう? こくん、と頷いた。 ――あのお方こそがぼくの先祖、コヨネ・ナフタさまだよ。ラニヴィア・ハイス=マギンの元を去った後に、魔物の研究を先駆けた人だ。 ラニヴィアさま、と半ばオウム返しをする。 ――ラニヴィアは、信仰の統一なんてつまらないことをした女だよ。あれから崇める対象の自由が失われて、洗脳が始まった。ご先祖さまはそんな未来が来るより先に、魔物の可能性を見出したのさ。 かのうせいですか、と上の空で答える。 ――そうさ。教団は教えを摂理だと説いているけれど、それはあくまで表裏一体の現象の片面だけだ。人の素行を望むように捻じ曲げる為に、そう教えているんだ。ご先祖さまだけが別の真理を追い求めた。 女は不敵に笑った。 どうして私にこんな話を、とゆっくりと訴えかける。 ――どうしてかって? きみへの憎しみと、愛しさゆえだよ。さあさあ、注目するんだ。 彼女が示す先を見下ろす。 途端に、現世のあらゆる苦痛を凝縮したような凄まじい悲鳴が広場から上昇し、四方の壁にこだましてバルコニーまで届いた。 僅かに世界に彩りが宿った気がした。 見える。片方の男性が、もう片方を組み伏せて殴りに殴っている。血反吐を吐いている方は、諦めずに殴り返している。 「そこだ! やれ! 殺せ!」 周りの人々がわっと歓声を上げる。心底楽しそうに観戦している様子だ。 「悪趣味ですね」 ミスリアは、淡々と指摘した。 「あはは、きみがそう思うのは、まだこの行為の真価が見えていないからだ。ぼくらは探究者だよ。かれらは自ら望んであの場に立ったんだ。生き延びた方が、コヨネさまに喰われる権利を得る……この上なく名誉なことだよ」 「はあ、そうですか」 未だ水を通して聞いているように、自分の声もくぐもって聴こえる。 繰り広げられる死闘をぼんやりと眺めながら、ミスリアは手すりの上で手を組んで顎をのせる。 「きみは知っているだろう。この世界では、生者は死者に囲まれて生きている。きみたちの教団の介入さえなければ、魔物は不滅だ。地上では常に生きた人間よりも死んだ人間の方が数多く蔓延っている、そうだね?」 「貴女は、大陸中を旅して魔物の数でも数えたのですか」 「そんなことをしなくてもわかるよ。人間としての寿命は平均で何年だい? 四十、五十年かな。では魔物は?」 「…………」 気怠さのあまり、ミスリアは口を動かそうとも思わなかった。 眼下の広場では決着が着いたのか、一人の男が膝立ちの姿勢から勝利の拳を突き上げている。 「人間の肉体に囚われたつまらない人生じゃない、魔物とは――解き放たれた『永遠の命』の形なんだ! 質量や体積の限界なんて無い! 時間の流れに沿って存在が褪せることも無い! 喰らい合うほどにソレは膨れ上がり、普遍さを体現する!」 プリシェデス・ナフタが急に声を荒げた。 「こんなに素晴らしいことって無いだろう!?」 その勢いで手すりの上に上った。絶妙なバランスを保って、彼女も拳を突き上げる。 他のバルコニーの者がプリシェデスの姿に気付いて、更に色めき立った。 「善行に励んで天上の『神々へと続く道』に辿り着くのが真にヒトの生き甲斐であり使命であるなら、何故魔物は存在する? 何故神々は魔物が発生しない理を創らなかった!?」 ――問いの答えがわからない。 聖女ミスリア・ノイラートはただ静聴、傍観する。 「魔物が人類の進化の終着点だからさ!」 ――狂っている、その感想が湧き出て来なかった。そもそも彼女は本当に狂っているのだろうか。これもひとつの摂理の解釈なのだろうか。 違うと言いたいのに、思考回路が強引に方向転換させられる。納得――或いは共感、しそうになっている。 「……魔物を、つくる……サエドラでも似たことがあったような……」 ぽつりとミスリアは呟いた。 「ああ、ウフレ=ザンダの町だね。あれらも、コヨネさまの教えに触れたのさ。記録には、弟子の者が流浪の旅の最中に寄ったとあったかな。ふ、あんな辺境の蛮族だけで答えに至れるわけないじゃないか」 はあ、そうですか、とまた空返事をする。 姉の死を――そしてエザレイの不幸を引き起こした事件の話だと言うのに、心は動かなかった。 ミスリアは己に起こった異変を、まだ自覚できずにいる。 「きみも参加してみるかい」 拍手コメ返信@ 62.g. はるさま 1ニマニマいただきました、やった! 二章でのさらわれイベントで「助けに行くか否か」でちょっと葛藤してた彼が今やこのザマw ミスリアを心配してくださってありがとうございます… ええ、ここからもジェットコースターです。是非、絶叫しながらお付き合い下さい。 いつもお読みくださってありがとうございます! |
62.g.
2016 / 09 / 22 ( Thu ) 「そう。出血は?」
「無い」 「それだけ元気があるなら、大丈夫そうですね~」 吹き飛ばされた体勢から復活したフォルトへが、へらへらと声をかける。 対するゲズゥは立ち上がるなりこちらを見ようともせず、大剣を背負い直すと、踵を返して歩き出した。 「ちょっと、何処行くの」 引き止めようとして、手が空振った。 「待って兄さん」 明らかに、丘の上を目指している。雪崩によって格段に歩きにくくなっている坂道を、意地でも上ろうとしているのだ。察した。兄が歩を進める方向は、聖女ミスリアが連れ去られたと思しき方向である。 とりあえずついて行った。 「兄さん。おーい」 何度呼びかけても返事が無い。風が強まり、聴こえにくいということもあるだろう。 (多分、メインの理由はそれじゃないだろうけど) やがて前方の兄はしゃがみ、懐から出した道具で火を点けた。 探しているのだ。 (見つかるかな。あのプリなんたらという女は聖女さんともども雪崩が通らない場所に陣取ってたけど……) あれからもう何十分も経っている。加えて、雪は尚も積もり続けているため、ついさっきつけた足跡ですらあっという間に消え失せる有り様だ。 だが、心配は杞憂に終わる。奇跡的に痕跡が見つかった。ミスリア本人のものではなく魔物の足跡だが――地面の奥深いところに響くほどの質量を持っていた巨体だ――それだけに、跡は深い。 しかもこれまた運が良いことに、木の根元近くにあった。空から降り注ぐ雪は木の枝葉にまず引っ掛かり、地面の積もり具合はまちまちである。少なくとも五歩の跡があり、そこから進んだ方向も推測できる。 (足跡を急いで辿れば敵の拠点を割り出せるかもしれない!) 乗り込んで囚われの少女を救出する流れまで想像して、リーデンは顔を上げた。 ギョッとした。黒い影は走り出していた。いつ視界から消えてもおかしくない距離にまで離れてしまっている。 「ちょっと兄さん!? 単独行動、断固反対!」 追い縋るも、足が重い。埋もれた際にスノーシューズを多少破損してしまったようだ。 ――兄さん! 待ってって! 無茶でしょ! 一人で何ができると思って―― 喉が痛くなってきたので、呼びかける方法を切り替えた。脳内通信は、この距離なら余裕で届いているはずなのだが。 イライラする。 どう足掻いても距離が縮まらないのだと悟ったリーデンは、何故か手の中にあった物を振り被り――力の限り投げた。 「聞けッ! クソ兄貴」 携帯式シャベルが、見事な回転を繰り出しながらも突進していく。突風がちょうど耳朶を打った所為で、鉄が頭蓋骨と衝突した瞬間の音を聴き取れなかった点だけが悔やまれる。 (あ、やば、さっき脳震盪起こしたって言ってたね。頭に怪我増やしちゃった……でもまあいっか) 引き止める方が重要だった。この程度で動けなくなるようなら、敵地に乗り込むなど到底不可能だろう。 「やっと止まってくれたね」 ゲズゥが後頭部を押さえて屈んでいた間に、追い付いた。 「……用件は何だ、クソ弟。時間が惜しい」 振り返った左右非対称の双眸は無感情だ。そこに、生理現象による涙が溜まっているさまは、いい気味だと思った。 「逸(はや)る気持ちはわかるよ。僕だって聖女さんが心配だし、一刻も早く会いたい。早く無事な姿を確認して、笑いかけてもらいたい。でもそこに至るまでの段取りを間違えたら……彼女は助からないし、全員死ぬだけだから」 或いは死ぬよりも酷い結末を迎える可能性もあるが、考えないでおく。 「ちゃんと作戦立てよう。あの二人も、本来は敵だけど今は味方側なんだし、活用しないとね」 「…………」 表情が翳ったのは一瞬。けれどもそれはリーデンの胸中に小波を立てるには十分だった。 「ほら、立って立って」 誤魔化すようにやたらと声を出し、兄の肩を叩いたりした。 一瞬は過ぎ去り、いつもの無表情が戻る。 (あんな傷付いた……ううん、泣きそうな顔するなんて) 窒息死に対する恐怖とはまた違った種の寒気が、リーデンを震わせた。 この兄弟は腹立つと互いをクソクソ言います。きたねえw 頭の怪我は深刻です。脳震盪は軽くても重くても病院に行きましょう。 今ふと思い出したけどこの兄弟の距離感はPrison Breakと天の祈り大地の願い(ウェブ漫画)の影響を多少受けています。 |