63.f.
2016 / 10 / 21 ( Fri ) 懸命に抗議しつつミスリアは首を反り返らせて振り仰ぐ。 至近距離で目が合った。再会したばかりの時と違って茶色の瞳は澄んでいる。その瞳いっぱいに映る己の輪郭は、薄明りの中でもハッキリと見て取れた。 不可思議な感銘を覚える。 鏡の向こうの己の姿に別段何も感じないが、清廉な眼差しの中に浮かぶ己の姿を認めると、奇妙な快感が皮膚を痺れさせた。 少女の心が映し出す自分は――これまでの自分と異なった、別の未来の可能性を予感させるものだった。 きっとゲズゥにとってのミスリア・ノイラートとは、出会った当初からそういう存在であったのだろう。 ――この生涯で。 与えられたものの一体如何ほどを、返してやれるのか――と、漠然と想いを馳せる。 そこで突然、ミスリアが「ひいいい」と叫んで後退った。 「ち、近っ……! すみません! あの、私、臭いですよね」 何故か縮こまって謝り出している。 今日は何やら否定ばかりしている、とゲズゥは思った。 「いや……比較対象が、この汚臭に満たされた穴の空気じゃなかったとしても、お前はいつもいい匂い――」 「いつも!? そんなにいつも匂いますか……? じゃなくて、か、嗅いでるんですか」 言葉半ばに遮られる。 「そうだな」 肯定した。と言っても意識して嗅いでいるわけではなく、気が付いたら嗅覚が香りを拾っているだけであるが。 「野花みたいなさっぱりした匂いだ」 「ひいいいい」 くぐもった奇声が返った。 「…………」 少女が頭を抱えてダンゴムシのように丸まっているさまが面白く、しばらく放って置こうとも考えた。が、気になるものが目に入ったため、ゲズゥはミスリアの左手首を掴んで翻した。 血の痕だ。こちらの血痕は、顔に張り付いていた薄片と違って、色味が茶よりも赤に近い。よく見ると、掌に幾つかの細かい切り傷がある。そっと親指の先で触れてみると、確かに濡れていた。 顔を上げ、「この傷はどうした」と訊こうとして、止めた。 ミスリアがあまりにも悲しそうな顔をしていたからである。唇は震え、両目には涙の膜が張っていた。 「ごめん、なさい」 「何が」 「……せっかく、いただいたのに」ミスリアは膝の下から小石のようなものをかき集め、両の掌で差し出した。「砕かれてしまって、こんな欠片しか残りませんでした……」 黒い石の破片を改めて見下ろす。 何気なく手を伸ばし、一際大きな欠片を人差し指と親指に挟んだ。冷たい感触が、乾燥した指先を刺激する。 すぐに何の欠片であるのかを理解できた。しかしそれがわかったところで、この悲しみようは理解できない。 「気にするな。雪山から下りたらまた買ってやる」 華奢な肩がびくりと跳ね上がった。ミスリアは俯いたままわななき、大粒の涙をぽろぽろと零した。差し出していた手を下ろしたかと思えば、膝の上で拳を握っている。 「その……また、の機会は、もう……」 か細い声がつっかえながら切り出す。 どうして彼女はここで涙腺を決壊させるのか。ゲズゥは少なからず戸惑っていた。 次の一瞬で、心臓が圧迫されたような感覚に陥る。 断罪を待つよりも重い心持ちで、次の言葉を待った。 「来ないんです」 |
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