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2016 / 09 / 29 ( Thu ) 惑乱に踊らされる人の輪が、謎の影によって一層崩される。 ひとまず地面に伏せた。その間、叫び声が頭上を飛び交う。「なっ!? なんでこんなところに!」 「ぎゃあああああ」 「拠点中の魔物が急に暴れ出してる!? 鎖を引き千切って……せ、制御できねえ!」 「このままじゃコヨネさまが檻を壊しちまう――」 ここぞとばかりにミスリアはガバッと顔を上げて、動き出した。 「聖女、まさか! 魔物を自ら引き寄せたと言うのですか! そんな所業、理論上は可能でも実際にやるとは……貴女も十分に正しさから逸れていますよ!」 聖人が喚くのも顧みず、ミスリアは這って人々の間を縫っていた。動きを止めると、魔物に狙い撃ちされてしまうからだ。 (なんとでも言って。反省は後でするから) そこかしこの傷が痛い。打撲した腰が特に、めちゃくちゃに痛い。でも、確かに動かせる。 少なくとも人だかりから逃げおおせた。壁伝いに立ち上がり、一度呼吸を休ませて―― ――走る。 片足を引きずりながらも、走る。地面が激しく揺れる度に転んだりしながら、掴みかかってくる人の手から逃れながら、ひたすらに走る。 混乱の最中(さなか)をどうやってうまく切り抜いていったのかははっきりとはわからない。気が付けば出口を見つけられて、気が付けば氷点下の世界を横切っていた。 亡者の気配が追ってくる。人間の追っ手がまだ迫らないだけ、幸運と言えよう。 (急がないと……急がないと……) 急いで、どこか隠れられる場所を見つけないと。 広大な景色に恐れをなした。 置かれている状況の厳しさを再度理解して、ミスリアは戦慄した。全身が凍って動けなくなるまでに何分、或いは何秒もつだろうか。 聖気を使えば、多少の暖を取れる。一方、それではいかに隠れようとも魔性の物に見つけられてしまう。 (お導き下さい) 夜空を見上げて大いなる存在に乞う。 目頭に涙が滲む。空はいつの間にか明るくなっていた。かといって夜明けが近いわけでもなく、降りしきる雪の結晶が月明かりを反射しているのである。 背後から獣の咆哮が響く。それはあまりにも細く、人間的な音の歪みであった。 ――魔物に追いつかれる! 震える手足を引きずって進む。見えない何かに突き動かされて、二時の方向に雪の中を這う。 怖いもの見たさか、振り返った。 毛むくじゃらの異形が視界の大半を占めて尚大きくなる。 後退る。声にならない悲鳴が、ミスリアの強張った喉を震わせた。 思わず地面に爪を立てようとするも、大地はぐにゃりと窪んで、こちらの指を支えてはくれなかった。 ――ズッ。 床が抜けた直後、滑り落ちる。 やがて乾いた枝の感触に包まれた。どこからともなく糞尿の臭いがする。 (……動物の巣穴?) となると、元の住人はどうなったのだろう。 暗闇の中に生き物の気配はしない。とりあえずはこの場所を見つけられたことに感謝する。 (当分ここで凌げそう) 当分、が果たしていつまでなのか。 体積の大きすぎる魔物が入り口をこじ開けようとしているのは、音や衝撃から明らかだった。小石が穴の中に落ちてくるだけで、びくびくと身構えてしまう。 (大丈夫。いざとなったら、魔物の一匹や二匹くらい私ひとりで浄化できる) 一匹二匹で済まない場合、或いはプリシェデスら人間に見つかった場合は、また別の話だ。 考えない。不安にさせるものは全て忘れねばならない。何よりも、心を奮い立たせる方が重要である。 (地中って結構温かいのね……) 入り口をもっと念入りに閉じることができれば更に温かそうだ。そんなことを思いながら、ミスリアは横になって蹲る。 逃げていた間に一度も開かなかった左手の拳を、ゆっくりとほぐしていく。 砕かれた黒曜石がそこにあった。 どさくさに紛れて回収できたのは、ほんの少しの欠片だけだ。それぞれに穴を開けて紐に通しても、ブレスレットにすらなれないような量である。 「ふ……ひっ、う」 抑え込んでいた悲しみが、溢れ出す。 大切なものが壊れた。鏡もナイフも、大切にできなかった。守れなかった。 でも、守ってくれた。 無機物たる道具が身を守ってくれたというのは、この場合自分自身がそれを振るったからなのだが――ミスリアにはまるで、道具を与えてくれた当人に守られたかのように感じられた。 静かに泣きじゃくる。これまでの顛末を振り返る時間ができてしまうと、ひとつの強い想いが改めてじわじわと身体中を侵食した。 「うえっ、くっ」 きつく目を瞑った。心の奥に残るその姿に、声に、言葉に、縋る。 助けてくれなくていい。笑いかけてくれなくていい。 口を利いてくれなくてもいいから、傍に居たい。居て欲しい。 近くで息をしてくれるだけで、いいから。 (会いたい――――) 皮膚が切れるのも厭わずに。 石ころになってしまった黒曜石の刃を、両手の内に握り締める。 |
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