64.h.
2016 / 11 / 25 ( Fri )
「二十年近く生きてきて、自分が他人とどこか違うことは理解していた」
 よく通る低い声に呪縛された。仰ぎ見る姿勢のまま、呼吸が乱れるのを自覚する。多分、初めて見るような無防備な姿に驚いているのだ。
「俺はお前の純粋さと喜怒哀楽に触れて……ようやくまともな人間に近付けそうな気がした」
 音もなく、滴が零れた。刹那の熱がミスリアの頬に触れる。濡れた肌を掠める風が、ひどく冷たく感じた。
 左に続いて今度は黒い右目から涙が漏れんとしているのを見かねて、背伸びした。謝りそうになる自分を制する。謝ったところで気が休まらないだろう。

「いくな、ミスリア」
「大丈夫です。貴方に起きた変化は、残ります」
 ――ぱた。
 落ちた涙は今度はミスリアの左の頬骨近くを濡らしていった。心地良い熱が、意識の奥深いところをくすぐる。
 欲しがっていた答えがここにある――

「貴方と過ごした一年半は、私の人生の中で最も濃密な……最も充実した、時間でした。自分が確かに生きているのだと、こんなに強く実感できたのは、この旅を経たおかげです」
 およそ一生の間に得られたであろう経験のほとんどを、短縮された期間の中にまとめて受け取ったのだと思う。
「出逢えてよかった。これだけは確かです」
 爪先立ちになり、思うがままに行動した。元々屈んでくれていたのだから、詰める距離はそれほどなかった。

(ゆるして)
 唇で唇を探る。
 目を閉じて視界を闇に落とすと、代わりに不可思議な感覚が広がった。
 自我がとろけて形を失くしそうになるのを、甘んじて受け入れる。安らかに溺れているようだ。
 束の間の接触の後、爪先立ちを止めた。精一杯の微笑みを浮かべた。

「聖女ミスリア・ノイラートの人生には意義があった。今なら胸を張れます。とても、満たされた気分です」
「……そうか」
 ゲズゥがスッと両目を細める。
 突然、背中を押す力があった。何が起きたのかと思案する間もなく、抱き寄せられていた。

 さっきよりも密接に――唇の柔らかさを思い知った。冷えて乾いていた皮膚は、吐息の湿度と触れ合う摩擦で、次第に熱を増していく。
 涙腺を抑えていられたのはここまでだった。閉じた瞼の間から、幾筋もの涙が逃れた。
 頭がくらくらする。足の下に地面があるのか不安になり、手当たり次第に何かを掴む。未だに背を支える手が有り難い。
 ようやく放された頃には、視界はすっかり滲み切っていた。
 行け、との声で我に返る。

「俺はもう引き留めない。行って、お前の大義を、果たせ」
 掴んでいた服を手放し、ミスリアはこくんと無言で頷いた。白くも暗い空を振り仰いで、次には、聖なる湖を見据えた。
「生きて」――巣穴からここまでの間、ずっと借りていた服を脱ぎ、ゲズゥに手渡す――「私の……いいえ、私たちの『空間』を、守ってください」
 是非の返答はなく、ゲズゥは無表情となって後退った。
 入れ替わりにリーデンが歩み寄る。最後にもう一度抱擁を交わした。

 踏み出す。未知なるモノとの境界線を踏み越える為に。
 あと一歩というところで踏み止まった。踵を返して、仲間たちの見送る姿をしかと目に焼き付けたくなったからだ。
 名残惜しい想いに浸りながらも、笑ってみせた。

「さようなら」
 ――返事は聞かない。聞きたくない。
 ミスリアは大いなる存在への祈りを唱え始めた。アルシュント大陸極北の地の寒空の下、二人の青年に見守られながら、地上を去る。大切な人との思い出と、その残り香を胸に抱いて。
 水の跳ねる音はしなかった。

 五感が遮断されたようで。同時に、感覚が広がったようでもあった。
 意識が何かに吸い寄せられている。解(ほど)かれている。
 あらゆる事象と一体化する手応えを覚えた。とてつもなく素晴らしいものだった。畏怖を伴いながらも、人間の感情と意識という枠から解放されている。

(私の魂は二度と『個』としての自我を持たないかもしれない。けれど、もしもまた私が私として再び形を成せるなら――)
 ゲズゥの元に還りたい。
 或いは、彼の傍でなければ、何処にも自分は存在できないかもしれない。
(ああ最後にもう一度だけ……あのきれいな白い眼を、じっくり眺めたかった、かな……)
 聖なる因子に包まれ、微睡みの中で、そんなことを思った。

_______

 小さな聖女が湖に沈んだ。
 水の中に飛び込んだわけでも落ちたわけでもなく、湖面の方が波打ち、その身を大仰に迎え入れたのである。
 ゲズゥ・スディル・クレインカティは一部始終を見届けた。
 数分後、湖が元の静穏を取り戻す。ついさっきの出来事が嘘だったみたいに、風景から生命の気配が離れた。
 やがて運命が動き出すまで。微動だにせずに、ただひたすらに右目の中に――忌まわしくて空虚な世界を映し続けた。

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