64.e.
2016 / 11 / 19 ( Sat )
 はらはらと辺りに雪が舞い落ちる中、氷の浮かんでいない湖が目に入った。
 ミスリアは直感に従って水面まで近付いた。屈み込み、右手の手袋を脱ぐ。手を伸ばすと、中指が最初に水に触れた。そこを中心に滑らかに波紋が広がった。

 温かい。
 鼻水すら凍るような環境で、この生温かさはおかしい。手首まで水に突っ込んでも、濡れた指で顔に触れても、同じように温かく感じた。
 こうしていると、身体の芯から光が沸いてくるようなイメージさえあった。間違いない――湖底に、神聖な存在が秘められているのだ。

 ――パキン。
 遠く離れたどこかから、氷柱が折れる音が響く。次いで、折れた氷柱が雪の中にドサッと落ちるのが聴こえた。それらについ過剰に反応してしまい、ミスリアは異形の影を素早く探した。しかし杞憂に終わる。空が薄暗いのは雪雲に覆われているからであって、魔物が現れる刻限までまだいくらか猶予が残っている。

 緊張で鼓動が速まるのを感じた。
 襲われることへの恐怖以上に己の最期への患いと畏(おそ)れが強い。
 或いは夏に到着していれば、瑞々しい草花を眺めながら、もっと晴れ晴れとした気分で去りゆくことができただろうか。

(ううん。きっと同じだった)
 不安はどうしてもついて回っただろう。今でさえ、どうしようもなく手が震えている。
 幸せなのに。穏やかに眠れる気がしたのに、些細なきっかけだけで決心は揺れ動いてしまう。このままでは「私には荷が重すぎました」と逃げ出すのではないかと、自分が信じられなくなる。情けない話だ。

 些細なきっかけ、とは。
 極力身体の向きを変えずに、ミスリアは眼球だけを使って後ろを振り返った。黒いシルエットを視界に入れた途端、気付かれるのが怖くなり、目線を湖の方に戻した。

 谷に下りてからというもの、ゲズゥはまるきり口を利いてくれない。話しかければ目配せが返るし、質問には頷いてくれるけれど、それだけである。加えて、こちらを見る眼差しはまるで――ミスリアの遥か向こうを見通すような、別の何かを見ているようで、ゾッとする。
 勘付かれたのだろうか。大いなる聖獣との霊的な繋がりが、もしや彼には感じ取れるのだろうか。
 ――そんなはずはないと、ミスリアはその可能性を意識の片隅に押しやった。

(具合が悪いとか……?)
 それも有り得ない、と自答する。知り合ってからというもの、多分ゲズゥは食当たりに遭ったことすらなかった。
  直接、どうしたんですかと訊く勇気も無い。
(このままじゃやだな……)
 笑って送り出して欲しいとまでは行かなくても――大切に胸にしまって持っていけるような思い出を望んでも、いいではないか。それくらいの我がままは許されてもいいではないか。

 今をおいて、他に機会は訪れない。思い切って問い質すべきだ。ミスリアはすくっと立ち上がり、口を開きかける。
 が、青年がこちらに背を向けていることに気付く。しかも、首を少し仰け反らせて、何かを待っているようだった。
 ややあって人影が見えた。山を転げ落ちているのかと疑うほどの速度だが、目を凝らしてみると実際は折を見て滑降しながら効率的に下りているのがわかった。
 何でも器用に華麗にこなすその姿を見上げる合間に、過ぎる思考。

(リーデンさんはこの後、イマリナ=タユスに戻ったりするのかな。それともこれからもゲズゥと一緒に居るつもりなのかな)
 訊いてみようかと逡巡する。当のリーデンは脇目も振らず、真っ直ぐに突進してきた。よほど焦っているようだ。聖女さん、と大声で呼ばれる。
 切迫した声音を聞いて、ミスリアにも焦りがうつった。
(何かあったのかな。あんなに血相を変えて走るなんて)
 自分も距離を縮めようと十歩と踏み出したところで――瞬く間に視界が遮られる。清涼な香りに包まれ、ぎゅっと抱かれた。

「……何で話してくれなかったの、と責めたいとこだけど。大体察しがつくから、やっぱ何も言わなくていいよ」

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