60.a.
2016 / 07 / 17 ( Sun )
 妙なモノに遭遇した。
 昼食後、教団の敷地から出て走り回っていた時のことだ。
 そのモノは何故か追ってきた。敵意は感じないが、ゲズゥ・スディル・クレインカティは警戒した。見知らぬ相手には警戒するのが定石であり、しかも気配は突如として現れたのである。

 怪しいの一言に尽きる。人の直感の源が胃袋であると誰かが言っていた気がするが、この場合はゲズゥの左眼から警告が発せられたように感じられた。

「やあ! きみ、いつも走ってるね」
 こちらと並走しながらも人影はありのままの事実を述べた。もしゲズゥに会話する意思があったなら、だからどうした、としか答えようが無い切り込み方である。
「ぼくも一緒してもいいかい」
 喋っている人物の方を振り向かずにゲズゥは走り続けた。この速さでも喋る余裕があるとは、見た目の華奢さによらぬ体力の持ち主だ。

 それにしても、左眼は何に反応したのか。
 魔物は言葉を操れないし、真昼間の太陽の下を堂々と活動できない。「混じり物」であればまた話が違うだろうが――
 よくわからない。面倒臭い。
 放って置いても、教団の近くだ。問題のある存在なら自ずと勝手に討伐されてくれるだろう。

「無視するなんてひどいね。ぼくはきみとお友達になりたいな。最初は一緒に走るだけの間柄からでいいよ。少しずつわかり合って行こう」
「興味ない」
 鬱陶しくなって、ついに口を開いてしまった。

「そうか、それは仕方がないね。やっぱり口数の少ないひととは心を通わせるのは難しいか。ではきみのことは諦めて、きみの大切なお姫さまの方とお友達になってみるよ」
「……!」
 足を止めて振り返ったら、人影は忽然と消え去っていた。
 残り香が鼻をついた。薬草っぽいような、肉っぽいような、甘ったるいような、鮮烈な花の匂い。何の花かは思い出せない。

 眩暈と頭痛がする。長く走った後の気持ち悪さや疲労感とは全く別の、沸いて出たような圧迫感が頭を蝕んでいる。
 どういうカラクリかはわからないが、あったばかりの邂逅を忘れそうになっているらしいのはわかった。
 歯を食いしばって耐えた。忘れないように、断片に縋ろうとする。

 ――聖女さんがこれからの予定を話し合おうって言ってる。戻って来てー。
 思考に割り込んだのはリーデンの呼びかけだった。それによって忘れかけていたものが完全に消えてなくなるが、同時に思い出せたものがあった。

 ――ユリ科。あの匂いは、間違いなく……。
 ――は? ユリって言ったら「肉体を離れた魂の無垢さ」を象徴することから、よく墓に添えられる花だよね。急にどうしたの、兄さん。
 ――わからん。今、戻る。

 左眼がズキリと疼きを訴えかけたが、教団の敷地に再び踏み入った頃には、一連の出来事をすっかり忘れ去っていた。

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