36.e.
2014 / 09 / 22 ( Mon )
 リーデンも同じ結論に至ったのだと目を見て理解した。
「重ねてずみまぜん。自分、寒がりなもんで」
 鼻をかむ合間にも男は喋り続けた。「このハンカチ、すっごく柔らかくて花みたいな素敵な香りがします~」
「そうでしょうか」苦笑交じりにミスリアは手を振った。「あの、失礼ながらそんなに目深に帽子を被っているから前が見えないのでは」

「被ってなくてもあんまり見えないんですよ~」
 ミスリアの指摘に応じて、男はニット帽を右手の親指に引っ掛けて引っ張り上げた。
 現れた双眸の内、右目は病で潰れたかのように濁った色をしていた。
「右目は子供の頃の病でこの通りです。左は一応使えるんですが極度の近眼でしてね~、伸ばした腕の先からはぼんやりとしか視認できないんですよぉ」

「そ、それでは一人で歩き回るのは危なそうですね」
 明らかに困惑したミスリアが気遣わしげに言う。嫌なことを訊いたのかと気にしていたようだが、杞憂に終わりそうだった。
「はい~。連れがなんかいきなりどっか行っちゃいましてねぇ。戻ってくるまでは一人でうろうろしてようかと思って~」
 対する男は能天気に笑う。どこか緊張感に欠ける態度が、かえってこちらの警戒心を煽る。ゲズゥは二人にそっと歩み寄った。

「実はこんなんでも得意の編み物で生計を立ててたんですよ~。親戚の雑貨屋に置いてもらったりして。編み物は手元が見えてればいいからむしろ近視で好都合なんです~」
 男は一時も口を閉じずに勝手に身の上話を始める。
「凄いですね。その帽子もご自分で?」
 とミスリアが愛想よく問えば、男はにこやかに頷く。やっと鼻水が尽きたのか、ハンカチを絞って丁寧に折り畳んでいる。

「あ、これ洗って返しますね~」
「よければ差し上げます」
「なんと! お嬢さんはお優しいですね~、まるで慈愛の女神イェルマ=ユリィみたいです」
 ミスリアの返事に男が表情を明るくした。大げさですよ、と当人は否定する。

「親切にしていただいて図々しいですが、もう一つお願いしても良いですか~?」
「何でしょう」
「別棟に行ってみたいんでご一緒してもらえませんか? あそこに吹く風は格別に気持ち良くて香りも良いって噂なんですよ~」

 別棟という単語にゲズゥの中の警告が反応した。男とはぐれた連れ、敵意を表している気配、それらを結び付けるのは自然といえよう。

 ――めっちゃ罠のニオイがするねぇ。
 頭の中に届いたリーデンの意見に同意せざるをえない。男の態度や話がまるごと演技で、目標を罠に追い込むのに一役買っているのかもしれない。

 ――敢えて飛び込むのも一手だ。手っ取り早く敵の正体を知りたい。
 ゲズゥはそのように答えた。罠に飛び込まない限りはずっと見えない相手を気にしていなければならないからだ。向こうが出て来ないのならこちらから行くしかない。

「別棟は一般人は立ち入り禁止だったはずでは」
「そんなに厳しくないと思いますよぉ。ご案内の人、今取り込み中みたいだし」男は右の指で耳をトントンと叩いた。確かに庭園の奥の方で、尼僧が騒がしい家族連れに囲まれて質問攻めにあっている。「誰かに見つかったら自分が猛烈に謝っときますから~」
 そこでミスリアが訊ねるような視線を向けてきた。ゲズゥは黙ったまま点頭しておいた。

「わかりました、行きましょう」
「ありがとうございます! 自分、フォルトへって言います。手繋いでも良いですか~?」
「どうぞ。私はミスリアと申します」
 フォルトへと名乗った男が求めるままに、ミスリアは右手の指を奴の左手に絡めた。二人は緩やかな足取りで連絡通路の方へ向かう。

 もしもフォルトへがゲズゥやリーデンの存在に気付いているとしたら、そんな素振りを見せていない。
 レンガを打つ足音をなるべく消しつつ、ゲズゥは二人の後についた。

 何かが引っかかる。
 今しがた目に入っている、フォルトへの左の手の甲に描かれた刺青だろうか。どうにも薄っすらと見覚えがあるような気がしていた。

 両刃斧――通称ラブリュス――に圧(の)し掛かる目。何かの集団の徽章だったのか、或いは先程奴が口にした女神みたいな旧き神への信仰心を表す象徴だったか――。

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