4. c.
2026 / 01 / 17 ( Sat )

 無意識に下腹部に手を当てた。
 ――むちゃくちゃに痛かった……!
 世の中の女性の皆様は本当にこんな苦行に耐えてきたのだろうか。
 昨晩の顛末に、後悔はない、けれど。

(やってしまった感はある)
 ずるずると廊下を進み、顔を洗って歯を磨いて、頭の中を整理した。
 今日がもう月曜日ならば、一度は事務所に電話を入れてみるのもいいだろう。シェリーは先延ばしにしている諸々の問題に、ほんのちょっと想いを馳せた。
 リビングに戻って電気をつけると、テーブルの上のビニール袋が目に入った。こんなもの、いつからあったのだろう。

 袋の隣にちょこんとプラスチックの小瓶が置いてあった。手に取って確認してみると、痛み止めの錠剤だった。中身がやや軽いのとラベルの端がはがれかけている点を踏まえると、これは最近買ったのではなく前から備えてあったものと見て取れる。
 袋の中には包み紙に入った生温かいハムサンドイッチがあった。朝早くに買ってきてくれたのだろうか。

(気が回るなあ……私は自分のことでいっぱいいっぱいなのに)
 嬉しいのと恥ずかしいのと申し訳ないのとで、頭がぐるぐるする。とりあえずラベルの指定通りに痛み止めを二錠、水で流し込んだ。
 だるさが軽くなるまで、じっと座って思案した。
 買い出しや洗濯物にそろそろ着手したい。それと先ほどトイレを使った時に気付いたことだが、スカートに血の跡がついていた。

 ――いっそ、捨てようか。今までのしがらみをひとつずつ切り離す踏ん切りがつけば、この数日間にも意味が出るというもの。
 いずれにせよ、これ以上の家事は家主に相談なしに取り組みたくない。
 サンドイッチは冷蔵庫に一旦入れて、昼食に取っておくことにした。残り枚数の少ない服から一式選び、着替えて、伸びをした。

「えっと、お電話借りるよ」
 いない相手に断りを入れて、壁の受話器を取った。
 職場の番号は暗記済みだ。営業時間中なので、デスクはすぐに取り次いでくれた。シェリーを配下とする弁護士の男性と、案外あっさりと繋がった。
『やあ! 君から連絡してくれて安心したよ。あれから様子はどうだい』

「いえとんだご迷惑を……お待たせしてしまってすみません。今週中はちょっとわかりませんけど、少なくとも来週までには職場復帰できると思います」
 来週までここに居座るかどうかはまだわからないが、それはこちらの話である。
『いいんだよ、気にすることないさ。ゆっくり休んでくれ。一人いなくなって回らなくなるような仕事の割り振りはしてないよ。そうそう、ジェニーが受け持っていたケースは概ね引継ぎが――』

 ジェニーとは母の愛称だ。ほとんどソロ(アシスタントはいてもメインの法律家は一人)で事務所を経営していたので、亡くなった後はやりかけの案件を他の人が引継ぐ必要があった。クライアントが自ら後任を探すしかない場合も多いらしいが、さすがは母の人脈と人望か、意外と早く片付きそうだと言う。
『まああまり詳しいところは君には関係がないかな。とにかく元気にさえなってくれれば、彼女の後輩として君の世話を任された僕としても、それ以上は望まないよ』

「ありがとうございます」
 雇い主への感謝に濁りはなかった。
 きっと彼も、そして母の事務所のスタッフも、悔しいのは同じなのだ。どうしてこうなる前に止めてやれなかったのか。どうすれば分かり合えたのか。これは葬式で既に出尽くした話題だ。

 永遠に答えが出ることはない。それでも考えずにはいられない――もっと自己主張していれば、何かが変わっていたのか。
 目頭が熱くなった。
『ところで隣の市外局番(エリアコード)からかけてるみたいだけど、自宅に居ないのかい』

「あっ、はい。外出先から、電話を借りているんです。深い意味はありません」
 シェリーは焦りを隠すように早口になって、かえって不自然な物言いになった。
『そうかい? でもこの前会った時よりはずいぶん元気が戻ったみたいだね。よかったよ」
「重ね重ねありがとうございます。またお役に立てる日までに、英気を養っておきます」
『ははは、堅苦しいね。また一緒にやっていこうね』

「はい」
 会話終了の挨拶を交わし、電話を切った。
 表情筋が和らぐのを感じた。
 ほんの数日前に比べて前向きな気分になれている。自分の両足で立ち上がれそうな、前に進められそうな、そんな気がする。
 頑張ろう。もう少しでも、生きてみよう。

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