4. b.
2026 / 01 / 16 ( Fri )
「気ぃ許しすぎじゃねえの。危なっかしいな」
「そうかな」
「じゃあおまえはオレが『脚触らせろ』とでも言ったら、許すんか」
 他の当たり障りない質問と変わらない声のトーンで。手元の眼鏡に視線を落としたまま、男性は顔色ひとつ変えずに。

(すごいこと訊いた)
 ――なのに。
 再会してまだ三日と経たないのに、いつしか、信頼感を抱いていた。
 裏切られたとは思わなかった。やっぱり、というような感想が湧いただけだった。
「いいよ」

「……おまえな」
 極大のため息をついて、男は眼鏡をコーヒーテーブルに置いた。
 あっという間に距離が縮まった。
「こういうことで」左太ももを掴まれた。スカートがするすると皮膚の上を滑りあがっていくのを感じる。「本当に、いいのかよ」
「それ、は」

 世間知らずは自覚しているが、無知ではない。この男が一人で暮らしていると知った時から、いつも意識の片隅にあった、可能性。
(恋人はめんどくさいって言ったのに)
 ショックはなかった。
 ――男は気持ちがついてこなくてもセックスができる。

 最初に誰からそう聞いたかは憶えていない。
 相手とよく話し合うべきだという意見も、耳にしてきた。
 母はといえば、婚前交渉を、愚かしいと思っていたようだ。適当な相手と関係を持ったところで女側には何も得るものはない、と。一歩間違えれば人生が破滅する――シェリーを大学に送り出す前に何度も釘を刺していた。

 でも周りのみんなは、自分の知らない何かを知っている。楽しんでいる。そして躍らされている。誰とも経験がないまま二十五歳にもなって、こういうことにまったく興味がないと言えば噓になる。
 怖い。けれど、引き返したくはない。

 この男自体が恐ろしいのではなく、主体性の無い自分を認めることの方が怖かった。過ちだったと後で自分にガッカリするのも、機会を逃してガッカリするのも、どちらも嫌ならば。
 選択は脳の筋肉。
 流されているのではない、自ら望んでいる。だからどんな結果になっても、後悔だけはしない。

「覚悟の上だよ」
「あっそ。気が変わったらハッキリ言えよ」
 降りかかる声も、太ももを撫でる指も、意外と優しかった。テレビから漏れる青い光だけでは、仰ぎ見るシェリーには男の表情はわからなかった。
 うん、とシェリーが応じた途端、リクターは手を放した。

 コーヒーテーブルの下から予備の毛布を取り出し、カーペットの上に敷いている。片手で「座れ」の仕草、もう片手でテレビの音量を二、三回ほど上げた。
 よくわからないが、言われた通りに床に腰をかけた。チャンネルまで変わっていたのか、テレビ画面は淡水魚特集をやっている。
 シーラカンスに意識が逸れたその瞬間。

「ひゃっ!?」
 押し倒された。
 重い。シェリーの脚の左右脇に膝をついたのか、圧迫されている感覚がある。
「あんま騒ぐと下の階に文句言われる」
 耳元で囁かれ、身震いした。



 倦怠感が頭の覚醒を妨げていた。
 夢見も悪かった。母に寝坊を責められ、怒鳴られ、泣く泣く支度を急いだ古い記憶だった。
 涙を手の甲で拭いながら、古びた天井を見上げる。
(うちじゃない。どこだっけ)
 瞬きと浅い呼吸を繰り返し、次第に理解した。

(この香水、それにタバコの銘柄、なんて言うんだろ)
 疎いどころか気に留めたこともない分野だったのに、今は無性に知りたい気分だ。
 おなじみとなってきたソファでの目覚めに、シェリーはのっそりと起き上がった。室内に人の気配はしない。時計は朝の八時前を示している。
 家主が不在で残念なのか、安堵したのか、決めかねている。月曜日だから、出勤したのかもしれない。

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