36.d.
2014 / 09 / 20 ( Sat ) ゲズゥは目を瞬かせた。最初は違和感に耐えられなくて左目を頻繁に擦っていたが、コンタクトとやらに段々慣れてきたのか今は落ち着いている。 改めて見回せば庭園は濃い緑が大部分を占めていた。季節の移ろいに合わせて葉をつけては落とす種と共に、冬になっても枯れない常緑植物が植えられているからだ。「……――以上でわたくしからの案内は終了でございます。次のグループが来るまでの間、今から三十分は自由に庭園を回っていただいて結構です。見終わったら逆側の階段を下りて一階に戻って下さいまし。何か質問がありましたらいつでもどうぞ」 尼僧が愛想よく告げると、一同が軽く拍手をした。 観光客は早速四方に散る。屋上から望める丘陵を静かに眺めたり、スケッチブックを取り出してベンチに腰掛けたり、尼僧に質問を持ちかけたり、詩集にペンを走らせたり、庭園の植物を触ったり――楽しみ方はさまざまである。 そんな中、ミスリアは縁に立ち止まったまま庭園の中心を見ているだけだった。なので護衛についてきたゲズゥとリーデンも動かない。 「聖女さんは見て回らないの? さっき聞いた話が真実なら聖獣はこの庭園に降り立って城を浄化したんでしょ」 リーデンが何気なく訊ねた。 「はい、でもナキロスでの経験を思うと……聖地に踏み込んでいきなり倒れたりしても困るので、後で誰も居ない時間にこっそり入れてもらえるよう掛け合ってみます」 そう答えたミスリアの大きな茶色の瞳に、奇妙な煌きが宿った。そういえば城の前に着いた時も何故か恍惚とした表情を見せていた。これは気にかけるべき点なのだろうか、とゲズゥは一考した。 ――ねーねーねー。ちょっといい? 唐突に脳内にリーデンの声が響いたので思考を中断する。言われなくてもゲズゥには何の用件かわかっていた。全く動かずに返信する。 ――……別棟の屋根に一人。はっきりとした敵意を発してる。群れの中にも一人…… ――うん、変な気配が混じってるね。こっちは敵意っていうか好奇心っぽいけど。狙いは果たして君かな、僕かな、はたまた聖女さんだったりして―― 「わっ!?」 誰かの喚き声に続き、観光客の中からどよめきが上がった。何事かと騒ぎの方を向くと、同時に中年女の小さなグループが囁き合うのが聴こえる。「大の男が何も無いところで転ぶなんて……」「情けないですわね」などと、嘲るような言葉だ。 当然、誰もが避けるその一点へと少女が駆け寄った。 「大丈夫ですか?」 ミスリアは白い手袋に覆われた手で、地面に突っ伏した男の肩に触れる。その時点でもう周囲の他の人間の関心は遠ざかって行った。 「ずびばぜんー」 返ってきたのは鼻声だ。男は身を起こし、立ち上がる。中肉中背で灰色のニット帽と長いマントを身に着けた三十歳未満の男だった。木炭と同じ色の巻き毛がニット帽からはみ出ている。他には若干の猫背と広い顎が印象的だ。 「どうぞ使って下さい」 男が顎まで垂らしている鼻水を気にしてのことか、ミスリアはコートのポケットからハンカチを取り出して渡した。鼻水男は素直にそれを受け取った。 マントの下から伸ばされた腕に、籠手(ガントレット)が嵌められているのが見えた。主に民間人が訪れる場所に武装して来るようでは、人畜無害に日々の生活を送っていないのだと予想できる。 ただ者ではないと考えるのが妥当だろう。おそらくこれが、群れの中に感じた「変な気配」の正体だ。ゲズゥは無言で弟とアイコンタクトを取った。 |
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