終 - d.
2017 / 11 / 30 ( Thu )
「セリカ。ふてくされてないでこっち向け。私が黙って別の部屋で寝るとでも思ったか?」
「ふてくされてない! ほっといてよ」
 枕を下から両手で握り、顔を深く埋めた。

「構えと言ったり放っておけと言ったり、忙しいな」
「みゃっ」
 腕を掴まれたのだが、指の触れた位置が脇の下に近くて、くすぐったい。足をバタバタさせると、布のようなものに当たって、動きを制限された。
 力づくで裏返される。

 仕返しがてら、砂色の衣を脇腹辺りを狙って鷲掴みにした。堪えたような笑い声が返る。目線を上げて、ハッとなった。
 近い。覆い被さる体勢で見下ろされている。石鹸とタバコの匂いに酔いそうだ。

(わ、わ。視界いっぱいにエランだ)
 男に強引に組み敷かれているのに拒否感が全くなくて、むしろ嬉しいくらいで、そう感じる自分に戸惑う。
 こういうのを「目のやり場がない」と言うのか。内着がはだけて、左肩が布の下からのぞいている。首都を逃れた時や川で水浴びをした時にも目にした肌だ。着やせする方なのだろう、じっくり観察すると、筋肉の盛り上がりや筋がきれいだと思った。
 目のやり場がないというよりもこれは、眺めたい、気がする。

(さわってみたいな)
 触る口実が欲しい。首筋や鎖骨を、指の腹でなぞってみたい。だが首を触らせてもらえるような口実とは一体何なのか。
 ふと、青い涙型の耳飾が目にちらついたため、気が逸れた。
 付けたままお風呂入ったの? と訊ねると、外すのを忘れてた、と彼が答えた。セリカは手を伸ばして留め具を外した。ラピスマトリクスの耳飾を、そっと寝台横の家具にのせる。

「案外軽いのね。宝石」
「重かったら左右で耳の長さが変わってくるからな」
 そう返されて、噴き出した。
「ごめんごめん……想像したら可笑しくて」
 ほーう、とエランは目を細める。右手を動かしたのかと思えば、セリカの耳たぶを引っ張った。

「いたっ! ちょ、伸びる伸びる」
 足をばたつかせるも、抑え込まれていて思うように動かせない。かたい。うっかり蹴った太ももの触感も、拘束も。
「伸ばそうとしているからな。片方だけ」
 じゃれる程度の力で、実際伸びる心配は無いと思うが。面白がって覗き込む顔に向けて、セリカは歯の間から威嚇音を出す。

 お前は蛇か。彼がくつくつと喉を鳴らして笑った時、また少し距離が縮んだ。
 セリカは抵抗を止めて、目の前の青年を改めて見上げた。
 目の前にそれがあったから、手を伸ばした。訊き出す勇気をついに持てたというよりも、弾みだった。

「これ、お母さんがやったって」
 盛り上がった皮膚に指先が掠る。青年は身を引いて、表情を曇らせる。
「聞いたのか」
「聞いたっていうか聞かされたっていうか…………ごめんなさい」

「いや……いつかは話すつもりだった。気分のいい話じゃないが、聞くか?」
 セリカは力強く頷いた。
 それから彼は簡潔にあらましを語った。異国人であった母親が、世継ぎを産むのに執着していたこと。だというのに、第一子の後に何度も子が流れたこと。
「……女は子孫を精製する機械じゃないわ」
「さあ。人は男女等しくみな己の役割を探し求め、得て、全うしようと生きている。母は、それでしか居場所が得られないと思ったのだろう」
 深いため息をついて、エランは話を続ける。

「せめて私が大公に気に入られていれば違ったかもしれないが、この通り、外見も内面もほとんど似なかった。三度目の流産を経て情緒不安定になっていた母は、周りに突然当たり散らすことも多くなった。煙たがられて、親子揃って軟禁されたのが六年前。その折にハティルが生まれたとの報せが宮中に流れて、何かが壊れたというわけだ。六歳だった私にそこまで母の心境に気が回るはずがなく、ある時普通に構って欲しくて近付いたら……癇癪を起こされた。たまたまその場に果物ナイフがあった」

 ――ナイフは誰かの不注意か、思惑か。
 結局答えが出ることはなかったし、本気で調査してもらえたわけでもない、と彼は言う。
 狂人のレッテルを貼られた妃はそれからも隔離され続けたが、その後は緩やかに衰弱していった。意識は薄れ、我が子の顔も忘れ、侍女のヤチマ以外の誰かとまともに言葉を交わすこともなくなった。

 そうしてある夜。彼女は誰にも見咎められることなく部屋を抜け出て、静かに逝った。おそらく事故だった。ヤチマは己を責めて自害を試みたが、お前のせいではないと、エランは繰り返し言い聞かせて宥めたという。

「…………」
 セリカはしばらく二の句が継げずにいた。確かに、気分の良い話ではない。
 胸の奥がむかむかする。怒りをぶつけたい相手が多々いたが、何より腹が立つのは――
 首の後ろに両手を巻き付ける。力いっぱいエランの頭を抱き寄せて、胸に沈めてやった。

「わかってると思うけど。あんたは何も悪くない。お母さんが追い詰められたのは環境のせいで、元々そういう傾向があったとは限らないし。だからあんたが周りに疎まれてるのって、理不尽以外のなにものでもないわ」
 母親に顔を忘れられたのも、彼のせいではないのだ。セリカはこれでもかと手に力を込める。
 胸元を温める息遣いは、僅かに乱れていた。

「めいっぱい愛情を注ぐからね。寂れた子供時代なんかあたしが忘れさせてあげる。だから、そんな泣きそうな顔しないで」
「そうしてもらえると、助かる」

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