2. e.
2025 / 12 / 25 ( Thu ) (私も笑ってる?)
選ぶことを、練習する。普通の子供が幼い頃に会得するであろう、普通のスキル。大人になってからこれをやるのは新鮮な感じがしてわくわくしたが、母の死がきっかけなのは、どうしても複雑な心境である。 「あれ、でも待って。公園じゃあ本来の目的を果たせないんじゃ」 「とりあえずオレが食いたいもん買いに行く。気が向いたら口にしてみろ」 長身の男はさくさくと先を歩いた。寒いのだからあまり動きを止めないのは賢明である。歩幅が違うため、シェリーの方はついていくのに必死だった。 リクターが食べたい物とは、チリドッグだったらしい。公園の端に陣取っている露店商の前に止まって、肉付きの良い黒人男性と会話していた。 「ダンナ、図体でかいのにこんなんで足りるんかいね。もう一本買っていきな」 「足りるよ。知ってたか、タバコって、食欲を抑制すんだ」 「知ってるに決まってんだろ。あんた、今日は別嬪さん連れてんじゃねぇか。なんか買ってやらねぇんかい」 「余計なお世話だっつうの」 「へいへーい、まいど」 行きつけのところだったらしい。リクターは支払いを済ませる間も、気心が知れた相手とするように、店の主と値上げがどうのこうのと冗談交じりに罵詈雑言を投げ合った。口の悪さは健在である。 彼はようやく踵を返したと思ったら、アルミホイルからのぞくチリドッグをずいと差し出してきた。 「やる。最初の一口」 「私に?」 「欲しけりゃの話。んで、気に入ったなら半分食っていいぞ」 熱々のチーズの香りが、鼻先をくすぐる。食欲がないはずなのに、こうして促されては試してみたくもなる。 シェリーはプレッシャーに負けて、ぱくついた。 (そうだ。ホットドッグってこんな味だった) ホットドッグと、トッピングの溶けたチーズと牛ひき肉の、濃厚な旨味に驚いた。子供の頃に父にねだって買ってもらっていたものよりも、ずっと衝撃的だ。バンズもちょうどいい柔らかさである。思わずそのまま二口、三口目と続いた。 「おいしい」 「もういいのか」 「うん、ありがとう――あ、手袋にちょっとついたかな」 ホイルから垂れたチーズが男の黒い革手袋に付着したようだったが、当人は「気にすんな」と言って露店商からもらったナプキンで雑に拭いてみせた。 「げ、雪。公園で食べてくのは無理だな。戻るか」 大きな雪結晶が空からこぼれ始めたのを見て、ふたりは深くフードを被った。 男は、頬をもぐもぐ動かしながらも早歩きをやめない。豪快に大口で食べているのに、器用にも口周りが汚れないし、あっという間に完食していた。 食事は座ってするものと厳しく躾けられてきたシェリーは、妙な心持ちでついていった。 (相変わらず自由だなぁ) 我が強いとも考えられるし、親が放任だったから早くに自主性を身に着けたとも推測できる。二十五歳にもなって些細なことであたふたしてしまう自分とはなんて違うのだろう。 羨ましいと言ったら彼は怒るだろうか。 胸がぐっと痛んだ。 ――私はお母さんが嫌いだったわけじゃない。 もっと私の言葉を聞いてほしかった。私をちゃんと見てほしかった。今日は何したいとか、何が欲しいとか、将来はどんなことがやりたい? ってたまには訊いてほしかっただけ。 私たちの間にあったこの何十年もの時間は、なんだったの――。 地面を見つめて歩いていたことに、気が付いた。先を進んでいたミリタリーブーツが、ふいに止まったのである。もうコンドミニアムの階段の前まで来ていたところだ。 なぜ止まったのだろうと、シェリーは不思議そうに顔を上げた。リクターが珍妙な物を見るような顔でこちらを見下ろしている。 |
2. d.
2025 / 12 / 24 ( Wed ) 「なんていうか、支度にかかる時間がもったいないな、って……お化粧さえなければもっと早く家を出られるのにって思ってた……。夜も、メイク落としが面倒だし、ネイルは……匂いが嫌だし」
「おう。これからはそんなもん全部やめて、時間ギリギリまで寝てればいいだろ」 「ほんとに、いいのかな」 「誰に断る必要があんだよ」 「はい……」 リクターの言動には不思議な説得力があった。昔からそうだ。 言われた通り、やりたいようにしてみようと思った。仕事はさすがに薄化粧で続けるか――また出勤する日が来れば。 ハンドバッグに詰まっている化粧道具を意識した。これがなければバッグが軽くなる。ずっと興味があった、肩にかけるタイプの小型のバッグに乗り換えてみるのも楽しそうだ。 「おまえ、食いたいもんあるか」 しばらく歩いてからふいに足を止めて、リクターがまた振り返った。今から? と訊き返すと、そうだ、と返された。 食材の買い出しに行くのではなかったのかと面食らう。 「うーん、ない。むしろ、たぶん、食欲があんまりない」 数十秒かけて頑張って考えてみるも、シェリーには何もいい案が浮かばなかった。 「近しいヤツが死んだあと胃腸が何年もおかしいっつう例もまあまああるらしいな」 「おか、しい……」 言われてみれば、お腹に溜まるようなものをずっと口にしていない。お腹が減っている気はするのに、咀嚼する気力がどうにも湧かない。 「食べないと余計に眠れないだろうし、パンくらいは……でもパンだったらスーパーで買った方が……?」お金をかけるならせめて体に良さそうなものを、と思っても、サラダを食べたい気分でもない。「優柔不断でごめんなさい。私って昔から、自分じゃ何も決められなくて」 煮え切らないシェリーに対して、リクターは訝しげな顔をした。 「思い込みだろ。自分はダメなやつって、あの母親に刷り込まれたんじゃねえの」 「そんなこと、ない」 「選択なんて脳の筋肉みたいなもんだ。使わなきゃ衰えるし、鍛えれば発達する」 「え、えー? そうかな」 「いまここで左に行くか右に行くか、おまえが決めろ」 男は、黒い革手袋に覆われた手をポケットから出して、真っすぐに伸ばした。人差し指が順に左と右を差していく。 「判断材料が足りないよ。私は食べたいものがないし」 「いいから」 シェリーの抗議もむなしく、彼は答えを促すように視線で圧をかけ続けた。 「せめて、先に何があるの教えて」 「左はアーケード街で右は公園だな」 ふたつのキーワードを、シェリーは顎に手を当ててしばし咀嚼した。 (どうしよう) 色々と理由を並べて考えた。その間、傍らの男は「さみぃな」とぼやいたものの、急かす素振りは見せない。 (このひとは――待ってくれるひとだった) ふっと胸の奥が軽くなった気がした。 「……右にする」 アーケード街の方が色々な食べ物がありそうだ。けれど、いまこの時に見たいと思ったのは、公園だった。ただそれだけの理由でも、それが自分の正直な気持ちだった。 「できんじゃねえか」 「このやり取りで五分は使ったよ」 「練習すりゃ早くなる。洗脳が行き届いてなくてよかったな」 トレンチコートのポケットに両手を戻したリクターは、ふっと白い息を吐いて――笑った。 目元が柔らかく細められ、口角が少し上がっただけで、数年の時間がとけていくようだった。 悪戯を思いついた少年の表情。変わったと思ったら、根っこの部分は変わっていないのではないかと、くすぐったいような嬉しさがある。 「楽しそうだね」 「そっちこそ」 言われてみれば、とまた頬に触れてみた。 |
2. c.
2025 / 12 / 23 ( Tue ) 「あ、の。ここに住んでるのは、あなただけなの?」
ようやく勇気を出して、問い質す。 「見ての通りだけど」 「……ご家族はどうしたのかなって」 歩道(サイドウォーク)に出るまでの間、応答はなかった。さらに角を曲がったら大通りに出た。 雑踏と車の音が大きくなる。どこに向かえばいいのか知らされていないシェリーは、流れに任せて、男の一歩後ろを歩いた。 交差点で信号待ちになった。その時になって、やっと答えが返ってきた。 「母と姉はとっくに家を出てった。父親は八年前に飲酒運転やらかして事故死......ほかに誰も巻き込まれなかったのが不幸中の幸いだな」 白い息を吐き出しながらまるで他人事のように淡々と語る彼を、シェリーは驚愕した顔で見上げた。 「ご、ごめんなさい。辛いことを思い出させて」 「別に悲しむようなアレじゃなかったしな。むしろローンを残しやがった。ただ――」 男の横顔は、強張ったように見えた。 クラクションが鳴り重なっている。土曜日だというのにせっかちな人間ばかりだ、と頭の片隅で思った。 「クソみたいな幼少期とクソみたいな家族を反面教師にしてやるって、それをバネに生きてきたつもりだったのに……見返す相手が勝手にいなくなったってのは、なんつうか、モヤモヤしたもんが残るな」 そんな、とシェリーは言いかける。 「渡れるぞ」 一瞬、諦観した顔を見せた後、リクターは再び歩き出した。数歩遅れてシェリーはその後ろについていく。 事故死したという彼の父親の顔はもうあまり記憶にない。たまに見かけてもいつも怒鳴っていて、酒臭かった、と思う。母と姉は、派手な感じだった、となんとなくおぼえている。 横断歩道を渡り切ってしばらくすると、こちらの遅れを気にしたのか、男が振り返った。そして変なものを見つけたように、眉を吊り上げた。 「ひっどい顔してんな」 「そう、かな。ごめんなさい」 「謝ってほしいんじゃねえって。泣くなって話」 呆れて言う彼に、憂いのようなものは感じられない。その心中を真に図るのは難しいが、家族のことで気を遣って欲しくないというのは伝わった。 「泣いてないよ、って、あれ」 頬に触れると確かに濡れていた。同時に別のことを思い出して、シェリーは立ち止まった。 「なんだよ」 「お化粧し忘れた」 母にメイクを教えられてからほぼ毎日、欠かしたことはなかった。ちょっとゴミを捨てに行くだけでも身だしなみには気をつけなさいと、厳しくしつけられてきたのに。 他人の家で寝起きしたせいで習慣が崩れてしまうのも仕方はないのだが、それ以前に、自分の精神状態はもしかしてだいぶ不安定なのだろうかと疑問に思った。 「いらねえだろ。肌の状態良さそうだし」 「そ、そういう問題じゃないの。だらしない姿を人に見せるなって、お母さんが」 言いつつも、男の人にはどうでもいい話題かもしれないなと思い当たった。少なくとも大学で関りがあった男性は、女性グループが服飾やらファッションやらの話で盛り上がっていても、興味が無さそうにしていた。職場の異性に至っては仕事に関わる会話しか交わしたことがない。 「自分の考えじゃねえじゃん。だらしない恰好したいなら、すればいいだろ」 「......え」 「おまえ自身は、どう思ってるんだよ」 「わ、私?」 話にのってくれるどころか逆に意見を訊かれると思わなくて、しどろもどろになった。 |
2. b.
2025 / 12 / 22 ( Mon ) 「あんまし食うもんがない」
「あ、はい。行こうかな、ううん、行く」 大人ひとりとふたりでは食材の消費量が全然違う。人数が倍になった時点で、対策を考える必要はある。 (へんな感じ) 家族以外と生活したのは、大学生の頃くらいだ。最初の二年はルームメイトが居たが、彼女らとは友達と言いづらい関係だった。マイペースにそれぞれ過ごして、足並みを揃えたりはしなかった。 「あなたは自炊してるの」 「週一、二くらい。めんどくさいから、だいたいどっかから買ってきてる」 「私が作ろうか? お世話になるわけだし」 「好きにすれば。オレはどっちでもいい」 「でも」 食い下がろうとするシェリーを、彼は手を振って遮った。 「だらだら毎日を生きてるだけだから、そこにもうひとり人間を挟んだって、気にならねえよ。だからおまえも気にすんな」 乾いた音を立てて新聞が畳まれる。 返事をしそびれたまま数秒が過ぎてしまったので、シェリーはコーヒーを味わうことにした。 (おいしい。味は濃い目なのにどこか果物っぽい甘さがある) 飲み終わるまでの間に、リクターがマスターベッドルームへと消えてしまっていた。身支度をしているのだろうか、電気シェーバーらしき電動音が聴こえる。 シェリーは荷物に入っていたヘアブラシを出して髪を梳かしながら、言われたことを反芻する。生まれつきの巻き毛を背中まで伸ばしているのでこれは結構な手間だったが、朝晩の習慣なので考え事をしながらでもうまくやれた。 (ひとり人間を挟んだって気にならない……? 私が居座っても、怒る恋人とかいないのかな) だらだら生きている、の感覚がよくわからなかった。そう言う割には、銃を持ち歩いているのではないか。 (私、いまのあのひとのこと、なんにも知らないんだなぁ) 至極当然の事実を思い知らされる。 梳き終わった髪を手慣れた動作で三つ編みにすると、シェリーはハンドバッグの中身を軽く整理した。 (知らないのはお互い様か) 聞きたい。彼は気怠そうな雰囲気は昔のままでも、当然ながら、前よりも大人びている。それを近寄りがたいと感じずに――もっと話してみたい、もっと仲良くなりたいと願うこの気持ちは、自然に沸き起こっていた。 ずっと自分のことで精一杯だったシェリーには久しい感情だった。 立ち上がり、出かけるための支度を続ける。 外は雪こそ降っていないものの、窓についた霜の具合からして寒そうだった。下は紺色のジーンズに長いブーツを加え、上は厚着にマフラーをして、最後に膝までの長さのもこもこの白いダウンコートを身に着けた。なお、これ以外の靴とコートは持ってきていない。 深い緑色のフード付きトレンチコートを着て出てきたリクターは、出入口前でミリタリーブーツに足を突っ込んだ。昨夜と違って今日はショルダーバッグをかけていない。眼鏡もまたいつの間にか外していた。 そうして外廊下に出た。肌に触れる外気の冷たさで、家の中はちゃんとヒーターが効いていたのだなと思い知る。 扉が大仰な音を立てて閉まった。鍵がかけられる間、シェリーは周囲を見回して懐かしくなっていた。 (四階建てのミドルライズ・コンドミニアム。彼は三階、私たちは二階に住んでた。見た目は古くなってるけど、そんなに変わらない) リクターの背中を見つめながら、外の階段をゆっくり降りる。 ここで親の目を盗んで遊んだこともあった。ボールを転がしたり、小石を集めたりと、振り返ってみれば大した遊びでもなかった気がするけれど。通りすがりの他の住民にはさぞ邪魔だったことだろう。 |
2. a.
2025 / 12 / 20 ( Sat ) 親の傀儡として生きてきたシェリーには理想の紳士像がなく、リクターという男からの優しさへの期待値も高く抱いていなかったので、古びたソファで一晩を過ごした事実に対しても悪感情がなかった。別の誰かだったならば家主の態度に「女性への気遣いが足りない!」のように憤慨したかもしれないが、押しかけたのは自分の方であることを自覚しているシェリーは、そんな厚かましい考えは持ち合わせていなかった。 異性と交際した経験、ゼロ。結婚相手はいずれ母が探してくる予定だった。男女間の事情に関する知識はフィクションや、人づてに聞いたエピソードの領域を出ない。 寝ぼけ眼をこすりながら、思い切ったことをしたものだ、と遅れて自省した。 ここに来て何がしたかったのだろう。昔の知り合いに会ってどうなるというものでもないのに。ただ、底なしの虚しさを紛らわせたかったという点では、成功したかもしれない。 コーヒーの香りが漂っている。そこでハッとなる。 慌てて腕時計を確認すると、もう時刻は昼過ぎだった。シェリーはソファから跳ね起きた。 ここから見て、左手にキッチンスペースがある。そして、キッチンカウンターに寄りかかってマグカップに口をつけている長身の男の姿があった。襟の高い灰色のセーターを着て、濃い茶色の髪は昨晩と同じく首の後ろで一つに結んでいる。そこからほどけた髪がひと房、緩く波を打って肩にかかっていた。 目が合うと開口一番にリクターはこう言った。 「眠れなかったか」 片手でカップを持ったまま、空いた方の手で目の下を指差している。シェリーは自分の目の下にそっと触れた。腫れている感触があった。 「寝たり覚めたりだね。お母さんが亡くなってからずっとこんな感じだから。ここがダメだとか、そういうことじゃないよ」 「眠剤は」 「処方してもらってない……だって、こわい、よ。相談できるお医者さん、いないし」 誰かに診てもらおうという発想が湧かなかったのも一因だが、改めて考えると、睡眠薬は恐ろしかった。それで誤って永眠してしまった俳優のニュースが、最近報道されたばかりだ。 まあそうだな、とリクターはなんともなさそうに話題を流した。ずず、と飲み物を啜る音がした。 「おまえ、コーヒー飲むひと?」 「飲むよ」 「いる? いるならもう一杯淹れる」 「じゃあ、いただきます」 おう、と短い返事で請け負って、男はくるりと背を向けた。豆から挽いてお湯で淹れるつもりらしい。一杯が出来上がるまでに数分かかったので、その間にシェリーは廊下のトイレへ着替えと顔を洗いに行った。 洗面台には歯ブラシが置かれていない。相変わらず、他の家族の住んでいる様子がない。 (昔、この家に入ったことあったっけ。なかったかな) だいたい少年の方から会いに来てくれたのである。うろ覚えだが、彼には父母と姉が居たはず。なのに今は一人で暮らしているとしか思えなかった。 ダイニングテーブルすら置いていない。食事はテレビの前のコーヒーテーブルとソファにて済ませているのではないかと疑うくらいだ。或いは、寝室か。 戻ると、リクターはカウンターの上に新聞を広げて読んでいた。いつの間にか長方形フレームの眼鏡をかけている。記憶の中の姿よりも日焼けしているな、となんとなく思った。 カウンターの上にマグカップを滑らせる形で、すいとコーヒーを差し出された。向かい合って立っているのが少し気まずくて、横にずれた。 「ありがとう」 「ブラックでよかったか」 「あるなら、砂糖はほしいかな」 ほれ、と今度は小さなスプーンの入った瓶を差し出された。二度すくって、カップに入れる。 新聞がめくれる音がする。 「今日予定ないなら、出かけるか」 「え?」 顔を上げたら目が合った。影がかかっているからか、リクターの双眸は今は青茶というべき色に近い。 シェリーは首を傾げた。出会った(正確には再会した)翌日の人間に共に出かける誘いをしてくるのに、驚いたのである。 次に続いた言葉を聞いて、腑に落ちた。 |
1. c.
2025 / 12 / 19 ( Fri ) すると後頭部に感じていた嫌な圧力がなくなった。足音がしたかと思えば、今度は電気がついた。 目を片手で覆って振り返る。 「おまえ、シェリーじゃねえか」 「おぼえててくれたの」 ゆっくりと手をどけて、シェリーは明かりに慣れるまで目を瞬かせた。 「オレは物覚えはいい方だ」 得意げに言ったのは、すらりと背の高い長髪の男だった。髪を首の後ろで束ねていて、長いトレンチコートが様になっていた。 今年で二十七歳のはずだ。眉と目元の力強い印象は記憶の中と変わらない。直線的でスッと通る鼻梁に、角ばった頬と顎も。 肩辺りに少し雪が積もっているのが気になった。もう深夜一時を回っているのが、棚の上の時計からも明らかなのに。 「あなたは、変わったかも」 「最後に会ったの何年前だと思ってんだ。そりゃ変わるわ」 「十年とか十二年……?」 はあ、と男は長いため息をついた。そして慣れた手つきで拳銃を大きなショルダーバッグにしまった。それでようやく、場に満ちていた緊張感が空に弾けた。 この男こそ、記憶の中の近所の少年に相違ない。髪型と声音が変わっていても、はっきりと面影があった。 苗字はリクター。ドイツ系の移民の子孫なものの、代を経て「リヒター」ではなく英語読みをしているらしい。ちなみにファーストネームは知らない。好きじゃないからと、本人が頑なに教えてくれなかった。 「で。その荷物、なに」 リクターの視線は、シェリーの足元にある大きなボストンバッグに流れた。 「えっと、ちょっと泊めてもらえないかな、って」 「なんで」 男が単刀直入に訊いた。 シェリーは、己の身の上に起きたことを掻い摘んで語った。母の死後、寂しくて気が狂いそうになっていたこと、途方に暮れたこと。子供の頃の約束を思い返していた点は、なんとなく省いた。 いつしか、リクターはコートを脱いでソファでくつろいでいた。間に開いた人ひとり分の距離が、十年とちょっとの心の距離感をも表しているようだった。 話しながらもシェリーは辺りに目をやっていた。タバコの煙が気まぐれそうに宙を舞う。 ほどほどに片付いている部屋だ。あまり頻繁に掃除していないのだろう、埃っぽさはあったが、隅に積まれた雑誌を除いて、余計なものは置かれていない印象だ。リビングと台所の空間が繋がっている設計だった。 話がひと段落すると、シェリーは横を盗み見た。 ガラス製の灰皿にタバコの先を押し当てる指は、やや骨ばっていて、長い。 「ま、いんじゃねえの。とりあえず今日のところはそこで寝てもらうか」 そこ、と言って彼はソファを差していた。ベッドルームが二つあっても片方は物置きになっているという。 「い、いいの。迷惑じゃない?」 話があっさりと進みすぎて、思わず訊き返した。そういえば彼が当時と同じコンドミニアムに住んでいる時点で驚いたが、他の家族の痕跡が無いのも気になった。 「迷惑かけないんなら迷惑じゃねえよ」 なんとも、答えになっていない答えだった。 「ほぼ他人だよ。信用されなくても仕方ないものと」 「おう。寝首かかれないように気を付ける」 男はわざとらしく欠伸をした。 「ありがとう」 「ご愁傷様。そうか、あの母親ついにいったか。よかったな、つうのもなんか違うか。腐っても肉親だしな」 「…………うん」 肉親と言った時の声は、どこか皮肉そうに聴こえた。 「気が済むまでいれば。予備の毛布、テーブルの下な。共用のトイレは廊下。風呂設備はマスターベッドルームの中にしかないから、シャワー浴びたくなったら言え」 踏み入った質問を重ねずに、リクターは席を立った。 その夜、シェリーは年季の入ってそうな冷蔵庫の音を聞きながら、浅い眠りについた。 (私はお母さんの敷いたレールの上を走るだけでよかったのに) 完全に自分の意思で行動をしたのが久しぶりに思えて、気持ちが落ち着かない。近くから人の気配がするのも、それが成人男性のものであるのも、慣れない。 冬に触れる頃の、とある金曜日のことだった。 |
1. b.
2025 / 12 / 18 ( Thu ) ――あんま洗脳されんなよ。いまはそれでもいいかもしんねえけど、大人になったらめんどくせえことになるぞ。 何度目かの目覚めの時に、頭の中に少年の声がした。ついに幻聴が聴こえるようになったのか。ゆっくりと頭を振る。 なんとか立ち上がり、コップに水道水を注いで飲み干してからも、その声はまだ意識の端に残っていた。 かつてそう言ってくれたのは誰だったか。ぶっきらぼうに、しかしどこか心配そうに。 (小さい頃よく遊んだ近所の子だ) 両親の離婚後、よりよい学区に入るためという名目でシェリーは隣町に引っ越したが、それまでは二年くらい、毎日のように顔を合わせた男の子がいた。 品格を落とすような友達付き合いはやめなさい。母からは口うるさく叱られたものだった。それでも隠れて会うのをやめられなかった。 口が悪くて時々乱暴で、なのに面倒見のいい少年だった。シェリーより二つ年上だったから、宿題を手伝ってくれたこともあった。もちろん、母には内緒で。 (あの子は窓から入ってきてたっけ。二階だったのによく怪我しなかったよね) 思い出を辿るうちに懐かしくなり、心の内側にポッと暖かさが灯った気がした。 ずっと、AからZまで母が決めてくれた。疑念を抱かなかったわけではないが、優秀で素敵な彼女を尊敬もしていたから、言うとおりにしていればいいんだと、無理やり自分を納得させてきた。 そんなシェリーでも、その少年に関してだけは、最後まで従わなかった。 母が厳選した「友人」とうわべだけの付き合いをしていたばかりの人生において、唯一、自分の意志ではっきりと「友達」と胸を張って言える人物。日々の生活に追われているとたまにしか思い出してやれないが、それでも、好きだった気持ちは残っている。 短く刈り上げられた茶髪に、少し痩せ気味の体躯。青と緑の中間のような瞳は確か吊り上がっていた。 まだ、彼はあの町にいるだろうか。 引っ越した時、シェリーは自身の新住所を伝えることが叶わなかった。それがずっと、心残りだった。 次いで少年の家族を思い出して、シェリーは顔を曇らせた。 そうだった。酒浸しで暴力的な父親とネグレクト気味の母親から逃げていたのだ、彼は。満足な食事をしていなかったから、シェリーはふたりの時間によくお菓子を分け与えていた。 そして―― 会わなくなる前に交わした約束を、あの子はおぼえているだろうか。 ――おまえ、引っ越すんか。つまんね。あーあ、クソみてえな毎日に逆戻りだな。いっそ、死んじまうか。 少年は真夏でも長袖長ズボンだった。横腹をさすりながら、苦々しい表情をしていた。 ――そんなこと言わないで。きみがいなくなったら、私、悲しいよ。すっごくすっごく悲しい。約束して。ひとりでいなくならないで、おねがい……死にたくなったら、会いにきて。 当時のシェリーは、死を決した人間を自分なら引き留められるとか、命を大事にしてほしいとか、そんな大それたことはもちろん考えていなかった。純粋に悲しかった。その子に害が及ぶのも、彼が生きるのを諦めたくなっているのも。 ――わかったよ。わかったから、泣くな。あと急に抱き着くんじゃねえ。暑いんだよ。 ――ほんと? 約束? ぜったい、会いに来る? ――約束する。だから、おまえもだ。おまえもいつか、死にたくなるようなことがあっても、ひとりで勝手に消えるんじゃねえぞ。 * カチッ。 規則的に時刻を刻んでいた時計の音が、妙に大きく、耳に届いた。それでも母とふたりで生活していたアパートにあった時計よりも、控えめな音だった。 鮮明になりつつある頭で、シェリーは状況を改めて理解した。 とにかく弁明しなくては。 「ご、ごめんなさい。外で待とうと思ってたんだけど、あんまり寒くて、つい」 「不法侵入を謝ってどうすん……あ?」 男は何かに気付いたように黙り込んだ。 |
1. a.
2025 / 12 / 17 ( Wed ) 慣れない場所で目を覚ました。 寝心地からしてここはベッドの上ではない。タバコと、男物の香水の残り香がする。どれも普段の生活の中では嗅ぐことのない匂いだった。 上体を起こしたら、手のひらに何か薄っぺらいものがついた。よほど古いソファなのだろう、ちょっとした拍子で表面が剥がれてしまったようだ。 (私、どうしたんだっけ) 薄暗い。 目前にコーヒーテーブル、その向こうには小型テレビのシルエットが見えた。電化製品が発しているであろう振動音を除いて、辺りは静かだったが――足音。 背後から人の気配が近づいている。 「動くな」 ガチャリ。 実物を見たことはなくても、映画やテレビで聞き知っている音。冷たく、無機質な感触が後頭部に触れる。 銃口だ。 「空き巣で寝落ちって、ふざけてんな」 抑え込まれたような怒気と警戒。男の掠れ気味の低い声に、全身がすくんだ。 動くなと言われているのに、震えながら言い訳した。 「違うの、私は、その……えっと、鍵が開いてて」 「あぁ? 鍵がかかってなきゃ何してもいいのかよ」 ごりっと、鉄の擦る感触が頭蓋骨に伝わった。 「ごめんなさい」 どうしてこんなことに――思考は数時間前までさかのぼる。 * 母が過労死した。 その事実に対して胸が張り裂けそうな悲しみが確かにあるのに、紛れもない安堵と解放感を覚える自分に、嫌気がさした。 (お母さん、私はどうしたら) 先々週までふたりで暮らしていたアパートの中で、シェリーはひとり身震いした。空調をつけるのがなんとなく気が引けて、ウール製ブランケットに包まりながら、何をするでもなく膝を抱えて悶々と過ごしていた。 ちっ、ちっ。壁の時計は午後九時を回っていた。すっかり夜なのだから暗くしなきゃ――義務感でリビング中の明かりを落とす。カーテンも閉めた。窓の外からのぞく世界は都会らしく、まだまだ行き交う車のヘッドライトや営業中のビルの明かりに彩られていた。 完全に暗くするとどうしようもなく寂しくなって、眠れない。だから明かりはひとつふたつ、残しておく。 もう何日もまともに寝れていない。寝室に行くには母の部屋の前を通らなければいけないので、それが嫌で、夜な夜なソファで横になっていた。値の張るソファクッションの寝心地自体は悪くないが、頭の中は黒い靄がかかったように重い。 シェリー・ハリスには、十年以上前から、母しかいなかった。大学教授だった父と法律家だった母はとうの昔に別れていて、そこからシェリーは女手一つで育てられたのである。 息苦しい人生だった。 お金ならあった。なかったのは、自由だ。行動の自由、選択の自由、そういった普通の人間が持っているはずのもろもろを、母は残らず奪ったのである。そうとわかっていながら、長年抗うことができずにいた。 だが母がいなくなったらなったで、どうやって生きればいいのかわからなくなってしまった。 (どうしよう) 仕事はしばらく休みをもらっている。司法試験に受かるまではここで経験を積むようにと母のコネクションで始めさせられた仕事なので、迷惑をかけているという申し訳なさはあっても、戻りたいという意欲はあまりなかった。 (アパートだって……) 遺品整理をせねばならないが、親族は手伝ってくれそうにない。もとから叔父や叔母とは疎遠気味で、彼らは葬式に顔を出した後はさっさとそれぞれの住む州へ帰ってしまった。 首都の中心部に高層ビルの部屋を借りられたのは弁護士だった母の収入があってこそできたことだ。法律事務所勤めとはいえ助手でしかない自分の給金と、保険金でこのまま住み続けていいものか、シェリーにはわからなかった。 精神衛生的にも出ていきたい気持ちはあった。住む地域を選んだのは母だし、内装も全部母の趣味だ。亡霊にまとわりつかれているようで気分が悪い。だからといって遺されたものを全部捨てるのは、亡くなったばかりの家族への無礼にも思えた。 いくら考えても答えは出なかった。やる気も出なかった。 質の悪い睡眠を繰り返し、目を覚ます度に時計を見やった。まだだ、まだ朝が来ない。 永遠のように続く虚脱感。なにも、何もしたくない。手足を動かすのも億劫だった。 お久しぶりです。皆様お元気でしたか。 たぶん毎日更新します。 ふんいき2000年代のアメリカ中西部のどこかの都市、携帯電話が普及する前後。 途中でR18がひょろっと入るのでその話には注意書きを入れます。(読んでも読まなくてもストーリーの流れは伝わる、はず |
ずっと休眠していたけど
2025 / 11 / 21 ( Fri ) 一話:完成 4900
二話:完成 9600 三話:完成 10300 四話:完成 11100 五話:完成 11600 六話:完成 5200 七話:完成 11100 八話:まもなく完成 7300字程度 最終話:メモ段階 500字程度 忘れていたわけではないよ! (最後にブログ記事打ったのが6月とは、あまりにひどい) これって最終的に7万字くらいになるのかしら? 最近ずっとゲームが楽しいです。全人類Brotatoをやろうぜ。 都市伝説解体センターも楽しい。 |
読み上げで遊んでいる話
2025 / 09 / 25 ( Thu ) |
おらおらおら
2025 / 06 / 17 ( Tue ) 一話:完成 4900
二話:完成 9600 三話:完成 10300 四話:完成 11100 五話:完成 11600 六話:完成 5200 七話:完成 11100字 八話:5600字程度 最終話を書きながら細かい調整をしているところですね。 ここしばらくインプットに専念していたおかげか、書くことへのモチベが高いです。わっしょい。 |
いいのかこれで、これでいいのか
2025 / 04 / 23 ( Wed ) 一話:完成 4900
二話:完成 9600 三話:完成 10300 四話:完成 11100 五話:完成 11600 六話:完成 5200 七話:完成 10850字 八話:書き出し 1000字程度 最終話(予定)に入ったよ。大丈夫……か? まあ終わったら寝かせて頭から読み返すから! |
はっぴーばーすでーとぅーみー
2025 / 04 / 07 ( Mon ) 一話:完成 4900
二話:完成 9600 三話:完成 10300 四話:完成 11100 五話:完成 11600 六話:完成 5200 七話:ほぼ完成 7000字 八話:メモ書き 1000字程度 そんなこんなでもうすぐ本編終わりです。頑張ったなぁ…… 旅行中で執筆時間はとれなそうなので帰ってからが本番になりそうです。わっしょい |
まさか自分にこんな
2025 / 03 / 26 ( Wed ) 一話:完成 4900
二話:完成 9600 三話:完成 10300 四話:完成 11100 五話:完成 11600 六話:完成 5200 七話:開始 2000字 八話:メモ書き 1000字程度 八話で完結……するのか? これとそれをひとつの話に詰め込もうと思ってたのに、話の方が勝手に区切りを作ってしまいました。 ちなみに子供たちを寝かしつけた後が執筆時間なのだけど、最近では熱やらなにやらで奴らが寝付く時間が遅れてしまっているので、諦観交じりにスマホから執筆したりしてます。まさか自分にこんな芸当ができるとは思っていなかったよ。 |
三月末に新作公開を始められないかなと模索中
2025 / 03 / 20 ( Thu ) 一話:完成 4900
二話:完成 9600 三話:完成 10300 四話:完成 11100 五話:完成 11600 六話:開始 3000字 6.5話:構想中 七話:メモ書き 1000字程度 心理描写って難しいね☆彡 あとそろそろブログを改名しようかな。 |


