七 - d.
2017 / 07 / 11 ( Tue )
 にわかに芽生えた感情を、セリカは隅に押しやった。話を続ける二人を邪魔しないように、静かに寝床から抜け出る。
 唯一、枝に刺した小動物を焼いているらしいあの不気味な男だけが、気付いてこちらを一瞥した。けれど何も言わなかった。
 それからセリカは、特に当ても用も無く森の中をねり歩いた。

(何よ。そりゃあ聖女さまに出会わなかったらやばかったけど……あたしだってすっごく頑張ったのに。あの子ばっかり)
 ぱしゃん! と勢いよく水を踏んだ音で、我に返る。
 この感情と思考。これではまるで、妬み嫉みだ。

(ち、ちがっ、別にあたしは、あいつに褒めて欲しくて助け出したんじゃないのよ)
 自己嫌悪が込み上がる。知らない人の為に躊躇いなく飛び出したあの聖女に比べると、今の自分はあまりにも情けないのではないか。
 そうは言っても、堪えられないものは仕方がない。
(なんで…………)
 優しい眼差しの先にいるのが、「顔の傷跡」に関して気楽に話せる相手が自分ではないのが、どうしてこんなにも悔しいのだろう。

 セリカはその場でしゃがんで、先ほど踏んだ水を見つめた。
 湧き水みたいだった。まばらに水たまりができていて、飲めそうなほどに済んでいる。
 それにしても、頭上から聞こえる鳥の鳴き声が明るい。のどかな風景の中にあって、自身のささくれ立った心は滑稽に思えた。
 ――みじめだ。

「なんか、疲れた」
 家に帰りたかった。できれば兄弟を捕まえて稽古に付きあわせて、休憩にはバルバが淹れてくれるお茶を飲んで、夜は母の小言を聞き流しながらキタラーを弾いて月を眺めたい。一生、結婚できないままでも気にすまい。
(もういいじゃない、人のことなんて。あたしには荷が重いわ)
 膝の上に揃えた両手の甲に顔を埋めた。故郷の自室のベッドの匂いを思い出そうとするも、うまく思い浮かべられない。

 枝の折れる音がした。パッと音のした方へ顔を上げる。
 数歩離れたところに、黒染めの革の長靴があった。初めて目にした時に比べて、それは随分と汚れてしまっていた。

「……こんなところで何をしている?」
 呆れた顔で、エランディーク・ユオンが訊ねた。
「別に。物思いに耽ってたの。悪い?」
 思わず顔を逸らした。見るほどの何かがあるわけでもないのに、水たまりをじっと見つめる。

「悪いということはないが、あまり一人で遠くに――……泉か、ちょうどいい」
「ちょうどいいってどういう」
「セリカ。そこの石に座ってくれ」
「は?」
 刺々しい声で答えてしまった。
「いいから座れ」
「ちょっとあんた、元気になった途端に何でそんな偉そうなのよ!」
 睨み付けるつもりで振り仰いで、しかしそこで呆気に取られた。思いもよらなかった光景に、言葉が出ない。

「へ、あの、エラン、ねえ」
 彼は右手でターバンを解きながら、左手でセリカの腕を引いた。されるがままに、近くの石に腰をかける。
「足、触ってもいいか」
「足……? あ、はい……」
 呆然と答える。エランが目の前でしゃがんでいる間も、セリカの目は解かれる被り物に釘付けになっていた。しゅるしゅると、頭上の布が減り、手の中の布が増えていく。

「なに、やってんの」
 かろうじて呟いた。青年はすぐには答えず、左手を伸ばした。
 足首に触れた急な感触に、セリカは無意識に息を止めた。
 紐が解かれ、終いにはサンダルを脱がされた。まずは右足、それから左足。その感覚は温かくてくすぐったくて――そして痛かった。

「だいぶ擦れているな。マメもできてる。聖女さまに治してもらえばいいだろうに」
「うっ、気付かなかったのよ。あちこち痛くて麻痺しちゃったというか」
「だからって放置するなよ」
「ほっといてよ! あんたには関係ないでしょ」
 足を取り返そうとして、失敗した。それより早く掴まれたのである。
 掌の熱に、掴む力の強さに、驚く。

「放っておけるか。関係なら、ある」
 エランはターバンから布を破いて、端を湧き水に濡らした。それでセリカの足を拭うようにして洗っている。冷たくて痛いが、嫌な感じはしない。
(なにこれ)
 心臓がおかしくなりそうだ。なんとなくドレスの裾を握り締めた。目線をどこへやればいいのかわからないので、ラピスマトリクスの耳飾を鑑賞する。それも思いのほか汚れているのがもったいない。

「お前がどれほどの犠牲を払ったのか、真に理解できるとは思っていない。感謝している、それだけはわかって欲しい」
 目が合った。青灰色の瞳は真剣そのものだ。
 息が詰まった。これもまた嫌な感じではなく、むしろ感極まったのかもしれない。

「出会って三日と経たないお前は、命を賭して私をあそこから連れ出してくれた。出会って数秒としない聖女さまは、見返りを求めずに私の命を救ってくださった。一の善意は千の悪意をも上回る輝きを放つものなのだと、実感している。こんな想いは初めてだ。常に謀略を巡らせる人間ばかりの世の中だと思っていた」
「……そう」
 耐えかねて、息を吐く。

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