58.h.
2016 / 06 / 20 ( Mon )
(雷が面白いの!?)
 収まったと感じてから空を再び見上げた。脅威は過ぎ去っており、主に月にまとわりつくどす黒い雨雲が見える。
 うーん、と唸って状況を確認した。
 宿の窓は総じて板の戸を取り付けていて、ガラスを使っていない。ミスリアの体格であれば楽に通れるはずだ。

(どうして、今になって距離を縮めるんだろう。ううん、遠いって思い込んでただけで、元々こんなに近かったんだっけ。どうだったっけ……)
 ごちゃごちゃと思案していると、知らぬ間に己の手が動いていた。差し伸べられた支えを求めて。

 温かい掌と接触した感覚で我に返った。
 そして認めるしかなかった。心の奥深いところでは、近付くのも近付かれるのも嫌ではないのだと。
 瞬く間にぐいっと引っ張り上げられ、絶妙に支えられながら、ベランダに降り立った。

「わ」
 肌に触れる夜気の質感がしっとりとしていて爽やかだ。髪をすり抜ける風は荒っぽいが、度を過ぎていない。涼しくて気持ちよくて、つい顔が綻ぶ。上の階のベランダが間に入っているので、雨はあまり当たらない。
 それだけにゲズゥの手が触れている背中が異様に熱っぽくてむず痒い。

 ――かくて命尽きるまでに、わたくしはいかほどにこの瞬間に心動かされ、この時に至るまでに連ねてきた数々の選択に感謝し、包み込む体温を愛おしんでいられましょうか。
 異常なるひと時の中に、わたくしは、何ものにも勝る安穏を見つけられたのでしょうか。そこが小波に撫でられる美しい黄金の砂浜でも、禍々しい荒波にこねくり回される船の上でありましても、あなたさまの腕の中であれば、きっと等しく天上の楽園のよう――

 不意打ちで、ついさっき読んだばかりの小説の一節が脳裏によみがえる。
 宿のサービスの一環として、自由に借り出せる古本の並んだ棚が受付の脇にある。そこに「嵐の中でも放さないで」みたいな、ベタながら何故か目を引く題名の恋愛小説が置いてあったのが悪いのだ。ほんのちょっとだけ覗いてみようかなと手に取っただけで、読み耽るつもりは無かったのに。
 思わずばっと手を振り払った。けれども払った手はすぐに追ってきた。

「落ちるぞ」
「ふぎゃ!」
 バランスを崩して後ろに倒れそうになるところを踏み止まり、体勢を立て直す際にも、支えられた。
 情けない声を出したものだ。顔が火照るのがわかる――何にせよ、暗くてよかった。

「座れ」
 両肩を掴まれたとあってはもう従うほかなかった。ミスリアは大人しくベランダの縁に腰をかける。雨の勢いは弱まっているので濡れる心配は少ないけれど、ぶら下がる足が心もとないような気がしたので、後退を試みた。
 障害物に当たった。

(なっ、だからなんで)
 文句を言うところか否か、逡巡した一瞬の間に、腰に強い力が巻き付いた。冷静に考えればそれは安全を思ってのことだろう。しかし近付かれるのが嫌ではないと今しがた自覚したところで、困惑は消えない――
 刹那、夜空が明るくなった。うねる稲妻が三、四度は枝分かれして、轟音を放ちながら遥か向こうの地上と繋がる。見事な自然現象であった。

「――! 今のってどの辺に落ちたんでしょうか」
 恐れると同時に高揚した。確かにこれは面白いかもしれない。
「教会の方か」
 ぴしゃり、とまた落雷。
「今度はアレの居る辺りに落ちたな」
 心なしか楽しそうに、ゲズゥは言った。

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