58.g.
2016 / 06 / 17 ( Fri )
 旋律は尚も続いている。まるで優しい風に抱かれているような心地だ。
 公園には他に人が居ないが、音に興味を持ったらしい鴨の家族が、近くの池から上がってひょこひょこ近付いてくる。

「愚かだって笑っていいよ」
『ううん。すてき』
 イマリナは悪戯っぽく笑った。
 夢見がちなご主人さまは可愛いね、と言葉を続ける。彼女の手話では夢見がちを表現するのに「いつも夢を見たがる」みたいなぎこちない言い回しになったが、十分伝わった。

「野郎に可愛いとかあんまり言うもんじゃないからー」
 同じ悪戯笑いを返して、イマリナの肩に頭を休ませる。髪に塗り込まれた香油の甘い香りが鼻孔を撫でる。
(平和だなぁ。ずっと平和であって欲しいなあ)
 その願いがどこかに届く日は来るだろうか。

 因果応報という概念が摂理の一部であるなら、きっと叶うことはありえない。どれほど贖ってもきっと果ては無い。
 それでも、希望を運ぶ聖女の安らかな歌声と表情を前にして――希求せずにはいられなかった。

_______

「きゃあ!」
 突然の雷に、ミスリアはつい声を上げて怯んだ。開け放してあった窓から閃光が流れ込んできて、目も眩んだ。
(いつの間に雷雨になってたの)
 読書に夢中になっていて全く気付かなかったらしい。宿のベッドから立ち上がり、窓を閉めに向かった。

(リーデンさんたち大丈夫かしら)
 夜遊びに行く、と言って彼らが街に出かけて行ってからしばらく経つ。その間ミスリアは食後の祈祷の為に部屋に残り、ゲズゥも付き添いで宿に残った。

 窓に手をかけようとすると、ベランダの人影が目に入る。
 実はこの宿の個室はどれも窓の外にそれなりの大きさのベランダがついているのだけれども、手摺りなどが壊れてなくなっているため、人がそこに出ることは禁じられている。
 縁に腰をかけて大胆にも足をぶら下げている人物を認めて、色々な意味でぎょっとする。

「そこは危ないですよ」
 と静かに声をかけると、彼は振り返って答えた。
「たかが二階だ。落ちても大したことない」
「……えっと、何をしてるんですか?」
 返事は手招きだった。お前もこっちに来い、との意図らしい。かろうじてミスリアもそこに座れるだけの幅があるにしても、窓から身を乗り出すのは気が引けた。大きな窓ではあるけれど、大きさの問題ではない。

「いいえ、私は遠慮します」
「来い。面白いから」
 ゲズゥはよくわからないことを言って立ち上がった。窓に向けて両手を伸ばしている。
 これまた色々な意味で怯んだ。先ほどの路地での出来事も無論、記憶に新しい。警戒しているというほどではないにしろ、近付くことに多少の躊躇があった。

「面白いって……」
「雷」
 カッと夜空に眩い光が奔る。吃驚して頭を庇った。

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