57.f.
2016 / 05 / 26 ( Thu )
 沈黙、そして誰かが素早く通り過ぎる気配があった。ミスリアが姉の元へ駆けたのだろう。
 全身に力を込めて立ち上がろうとする。何故かその過程で幻聴が聴こえた。

 ――今夜は月が素敵ですわね、兄さま! せっかくです、一杯やりませんか。
 ――名案ですね、我が妹。

 そういえばハリド兄妹は月見酒が好きだった。こんな具合の会話を幾度となく聞いた気がする。
 月光をぼんやりと映し返す池の水は濁っている。蓮が生息するということは、決して透き通っては居まい。再び天空を見上げると、去りゆく雨雲の間からくっきりとした月影が浮かんだ。
(あいつらがはしゃぎそうな夜だ)

 見せてやりたい、強くそう思う。高飛車でねちっこくて、最後までエザレイを家名まで込めて呼び捨てにしていたけれど。鬱陶しいと思うことはしょっちゅうあっても、決して嫌いではなかった。仲間、だったのだ。
 彼らも一緒に埋めた。そう、愛してやまなかった聖女カタリアの傍に。

「ごめん、ディアクラ、イリュサ……ごめんな」嗚咽がこみ上げてきて、舌がうまく回らなくなる。「生き延びたのが俺で、ごめ」
 アバラと脇腹辺りに強烈な衝撃が走った。しかも両隣から。あまりに勢いよく蹴られたのか、地面についた掌が浮かび上がる。空咳をしていると、鼻水を誤って飲み込んでしまいそうだった。嚥下を堪えようとするのはそれはそれで苦しかった。
 やむなく口内の液を吐き出す。滲んでいた視界に新たな熱が満ちた。

「そーゆーコト言う人は嫌いだよ」
「生き延びた結果を、重荷とするな」
 責め立てるのは追憶の念から飛び出てきた幻ではない――現在を生きる青年たちの苛立った声だ。
「あん、たら。なにすんだ」

「穢れた聖地だなんて言うからもっとドロンとした感じを想像してたんだけどね。キレイなもんだね」
「同感」
 ――無視された。が、これと言って不快な感じはしない。蹴られたのも暴力と言うよりは喝を入れられたような気がする。

(違うんだ。生き延びたのは、俺が弱かったからだ)
 エザレイが顔を上げると、既に一行は四人とも岩の前に近付いていた。
 自分も、あんな風に近付けるだろうか。
 教団が保護する聖地であれば重い業を負った者は近付いてはいけない決まりだが、この場所は本来の聖地とは異質であり、隔てる壁は心の中にのみ存在する。

 窪地は歪んだ楕円形だ。現在地から目的の物までの距離は二百ヤードとない。
 此処まで辿り着けたのだから、これ以上に何を恐れることがあろうか。何をしたところで過去を変えることは不可能なのだ。
(取り戻した記憶を乗り越えられたら)
 孤独感も緩和されるだろうか。風に舞うタンポポの綿毛のように不確かな希望が、原動力だった。
 ようやく、相対できそうだ。

「藪の迷路に感じていた想い、リボンに付着していた残留思念も……この岩から漂う気配と同質のものですね」
 聖女ミスリアが跪き、祈る姿勢で感想を伝えたのと同時に、エザレイは聖女カタリア・ノイラートの墓石代わりのそれの正面に立った。

「この地の封印を解きます」
 涙声で、少女は宣言する。
「ダメだ」
 だがその提案をエザレイは即座に却下した。

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