57.g.
2016 / 05 / 29 ( Sun )
「解いた後に新たに封印を仕掛けます。やり方は、聖獣がお与えになります」
 ミスリアはめげない。聖獣のくだりはよくわからないが、短時間でもしっかりと考え抜いたのだとわかる受け答えである。
 それでも承服しかねた。

「そういう問題じゃない。今はダメだ。夜が明けるまで待て、でないと魔物か口笛の連中が来る」
 朝であれば魔物は霧散する。少なくとも、確実に一つの脅威が減るだろう。そしてこれまでの傾向からして夜に活発になる森の民も、朝となれば大人しく住処に帰ってくれるかもしれない。
 それにしても、頭を割らんとする高音、あの口笛の音を思い出すと目の奥が赤く点滅し出した。理性が遠ざかりそうだ。
 ふと視線を感じて、瞬きをする。少女が真剣にこちらを見上げていた。

「では万が一、夜明けに封印を解いた際に包囲されていたら。貴方はまた暴走するのですか」
「…………」
 その問いの返事をエザレイは持っていない。聖女ミスリアは「包囲」の主語を省いたが、そこに当てはめるべきは「カタリアたちの仇」。奴らが視界に入れば、十中八九、惨殺したくなる。
 どうしようもない因果性だった。

「私は当時の事情を知りませんし、貴方のやろうとしていることを完全に理解することはできません。憎悪を消化できないと言うなら、止める権利はありませんけれど……」
 ミスリアの眼差しがリボンと岩を行き来した。つられてエザレイも刺繍のメッセージを思い返す。だからと言って、心の中の澱は変わらない。

「死者の遺志を生者が尊重しなければならない道理は無い」
「わかっています。私のわがままに付き合っているのだと思ってくださって結構です。お願いしますエザレイさん、朝になって封印を解くまで、此処に居てください。ほんの少しでも思い留まれそうなら、そうして欲しいんです」
「朝まで説得する気か?」

「そこまでは……。ただ、魔に転じて欲しくないとは思っています」
「だったらもう遅い」
 小さな聖女に背を向けた。
 袖を見下ろすと、抜け落ちてしまった白髪が何本かそこに付着していた。今ならハッキリと思い出せる――鮮やかな赤茶色だった髪の色素が消えてしまった、その前後の出来事を。
 藪の迷路が誕生した経緯も。

「こう見えて俺は、一度そちら側に堕ちたことがある」
「……!?」
 振り返れば、ミスリア一行が各々、驚愕を表していた。
「どういう、ことですか」
「話せば長くなる、」

 何かを言いかけて、やめた。おずおずと訊ねる少女の肩越しの、温かな生命力を放つ蔦の花に目が行った。白や黄色やピンク色の、小さな花びらが微かな夜風に震えている。
 蓮の甘い香りが鼻孔をくすぐる。何を言おうとしていたのか、束の間忘れてしまう。

(くそ。死んで居なくなってもあいつは、こっちの毒気を抜くんだな)
 一晩中此処の空気を吸ったら、本当に気が変わりそうな予感がしてきた。きっとこの空間の中では外で何が起こっていようと、ゆったりと時間が流れ続けるのだろう。
 惹かれるようにして岩に歩み寄った。湿った岩の表面が甘やかな月明りを反射する。

 三人分の墓石だからと、時間をかけて大きな岩を見つけ出して、背負うようにして引きずったのを憶えている。どういう風に筋肉が軋んだのか、どこの皮膚が擦り剝けたのか、身体が思い出した。
 ――遡る。
 掘った穴に遺体を並べた後、涙が涸れるまで立ち尽くした半日間。
 ――更に遡る。
 最期の息を吐き出すまでに抱いた、少女の華奢な身体の重み。あの時に見せた表情――

「わかったよ、朝まで付き合ってやる」
 長い長いため息をついた。
 そして岩に背を預けて座り込む。支えて欲しくて、仲間たちがそれを受け入れてくれると信じたくて。砂上の城でも、崩れ去った後でも。
 顔向けができないなら、向けなければいい。

(結局どう足掻いたって、俺の心の在処はこいつらの傍にしかない)
 片膝を立てて深呼吸をする。
 少し、昔語りをしよう。そう切り出すと、ミスリアたちは頷き、夜を過ごす準備を静かに始める。
 銀髪とその相方の女は話を聞く気があるのか無いのか、敷き布を敷いて横になる。黒ずくめの青年はミスリアの動きを目で追うだけで動かない。

 そして当の聖女ミスリアは、膝を揃えてちょこんと斜め向かいに座る。エザレイの腕の届きそうな範囲より少し遠いくらいだ。膝を揃えていては足が痺れるだろうと思って、崩していいぞと声をかける。
 ぴちょん、と背後の池から水音がした。夜行性の両生類でも棲んでいるのだろう。
 平和なものだ。数年前のあの時が嘘のように――。

「魔物の最も手っ取り早い作り方って知ってるか」
「つくり、方……?」
 滲み出そうになった驚きを遅れて抑えたのか、少女の語尾はおかしな翻りをする。それもそのはず、魔物を作ろうなどと、常人が考え付くようなことではない。

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