56.d.
2016 / 05 / 08 ( Sun )
「情報開示のお時間だよー。森にはこわーい熊さんが住んでるんだってさ。良い子のみなさんは行っちゃだめだよ」
 銀髪の青年が何気なく南の共通語で話した。ここ一帯では北の共通語の方が重点的に使われており、南のを解する者が少ない。会話の内容を盗み聞かれる可能性は低い。
「く、熊ですか」
 聖女ミスリアがびくりと怯んだ。

「でね、聖地のことはよくわからなかったよ。それ自体が森の向こうにあるのか森の中にあるのか。町民の演技じゃなくて、本当に知らない感じ。訊ねる相手を老若男女バラバラに五人選んでみたけど、誰もはっきりとは知らなかった」
 話しながらも青年の切れ長な眼が、鮮やかな緑色の瞳が、サッとこちらを一瞥した。
 他に有益な情報を持っていないのか、と責められているようだ。エザレイは曖昧に唇を斜に曲げた。
 頑張って思い出そうとすれば何かしら沸き出て来そうな気がしないでもない。単に、やりたくないという気持ちが追憶を妨害していた。

 動機は不明だ。彼らに非があるわけではない。
 喉の奥に石が詰まっているとでも言うのか、妙な息苦しさがあった。
 それにしても耳鳴りがひどい。
 激烈な高音。鋭く、大気を突き刺すような。嫌な音だ。あらゆる神経がざわざわと不快感を訴えてくる。

(うるさい。うるさい、止めろ)
 雨を吸って重くなってきた己の前髪を乱暴に引っ掴む。
(おまえら、―――ねよ――)
 思考の結び目が引き締まらず、まともな糸を紡げない。
 固く瞼を閉ざすと、暗闇の中に朱が弾けた。

_______

 ――追いつかれる――!
 走るのが困難な状況で、濡れた足場に足をもつれさせながらも、スカートの裾を踏み破いてしまいながらも、ただ走った。

 一心不乱に走った。けれど元々あまり運動能力を鍛えて来なかった彼女は、既に全身で息をしていた。嗚咽のような呼吸をしつつ、腰を折り曲げて立ち止まる。仲間たちを振り返った。他の三人とは意外に距離が開いていた。
 いつもなら必ず先頭を走りたがるディアクラ・ハリドが脚を負傷し、意識を手放しかけている。それゆえに彼はイリュサとエザレイにそれぞれ肩から支えられていた。エザレイの現在使われていない方の腕からは、夥しい量の鮮血が滴っていた。

 カタリア・ノイラートは身を隠せる場所を探した。目と鼻の先にちょうどいい場所を見つけ、仲間たちの傍に駆け戻り、今度は歩を揃えた。
 一行はひとまずは倒れた巨木の下に入って、息を潜めた。低いがそれなりに広い隙間であり、何より雨を凌げるのは有り難い。
 それでも、このままでは追っ手に見つかるのは時間の問題だ。取るべき対策は一つだった。

「治させて下さい!」
 負傷した両名に、カタリアはどちらともなく呼びかけた。
 先に応じたのはスターアニスの種と同じ色の髪をした青年だった。ただでさえ苦渋に歪んでいた表情が、更に渋くなった。
「ディアクラの方が重傷だ、多分骨が砕けてる。俺は後回しでいい」

「でもその血の量も深刻では……」
「カタリア、あんたはもう限界じゃないのか。あと一回聖気を使えば昏睡する。どっちかしか治せないなら、わかるだろ! 腕と脚じゃあ優先すべきは明らかに脚の方」
「正論ですわね。かと言って、それも放って置いていい怪我ではありませんわ」
 イリュサが口を挟んだ。エザレイはその指摘に対する答えを即座に捻出した。

「ああ。だから、お前が縫ってくれ」
 それを聞いたカタリアは思わず息を呑んだ。
「……本気ですか、エザレイ・ロゥン」
 話を振られたイリュサ・ハリド本人も、目を大きく見開く。

「本気じゃなきゃこんなこと頼めるかよ。道具は持ってるんだろ」
 問いを返され、イリュサはしばしの間沈黙した。
 理に適っている、その点は認めざるをえない。聖気で治してもディアクラがすぐに動けるようになるとは限らないし、直後にカタリアが動けなくなって、結局は全体の機動力の回復には多少なりとも時間がかかる。その間、深く切り裂かれたエザレイの腕の傷は、悪化する一方だろう。
 それも本人では処置しにくいような上腕の裏側から後ろ肩を回っている。

「…………見くびらないで。道具と技量ならありますわ、兄さまの手当てで慣れてますもの。今のわたしの手元に無いのは、麻酔だけです」
「上等だ。二人で乗っかって押さえつけてくれ。それとカタリア、俺が叫ばないようにこの手ぬぐいを」

 結んでくれよ、と一枚の布を差し出した彼の顔色は、彼女の目には青紫色に映った。
 手ぬぐいの硬めの肌触りを掌に感じ、遅れてカタリアは指を布に巻き付けた。ただの布をこんなに重く感じるなんて――これが最善の選択なのか、幾度となく自問した。

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