56.c.
2016 / 05 / 07 ( Sat ) 「よく、発つ気になったな」
――楽園のような島国。愛する家族や見知った隣人と、老いるまで共に、ただ平穏に生きればよかったものの。 安穏とした未来を敢えて捨てて、険しい人生を選んだのは何故か。 「それはですね……」 聖女ミスリアは懐かしむように目を細めた。 (そうか、俺は前にも同じことを) 背筋が既視感にぞわっとした。まるで学習しない、愚か者。 記憶が無いのは仕方のないこととはいえ、ここまで来れば呆れる。雪の中に作った自分の足跡を、同じ場所を踏んで通るようなものだ。二度目では初回のような感動は無く、前よりも深く雪に沈み込み、進むのが難しい。 ――カタリア・ノイラートには、生まれ付いて聖者となりうる素質があった。 それを知り、世界の危機を知った彼女は居てもたっても居られなくなり、大陸に出ることにした。きっと、妹も同じような経緯で―― 「私がお姉さまに憧れてたからです」 思考に割り込む少女の声は清廉そのものだった。エザレイは思わず瞠目した。想像していた回答とは違ったからだ。 「憧れ、同じ道を辿ろうとして、その中で私は自らの進みたい方向を見つけられました。故郷が恋しいとは思いますけれど、大陸に来てから出会った人々、得られた経験は……どんなに恐ろしくて悲しいものでも、全部私の宝物です」 刹那、再び花びらの嵐が視界を遮る。 小さな聖女に見惚れた僅かな数秒。エザレイ・ロゥンの中に芽生えたのは、一筋の薄暗い感情だった。だけど、それだけでは決してないはずだ。同情のような想いも、芽生えていたはずだ。 そう、自分に言い聞かせた。 「……カタリアの妹。あんたらは、ちゃんとわかっているのか」 エザレイの視線は、連れの者たちを巡っていった。向こうで町娘と雑談しているらしい派手な銀髪の男とその相方の女。それから、聖女ミスリアの背後で黙々と肉片を口に放り込む長身の青年。 無表情の青年と目が合った。底なし沼のように黒い瞳に、得体の知れない寒気を覚える。 「わかっているって、何をですか?」 「聖獣を蘇らせた後のことだ。偉業を果たした聖人聖女は、生きながら祭り上げられるんだ」 「そうですね。とても大事に、何一つ不自由なく、待遇の良い一生を約束させられると聞きました」 「いつだ」 「はい?」 エザレイの問いかけの意味がわからずに、聖女ミスリアは小首を傾げた。 「あんたがその話を聞いたのは、いつだった」 「えっと、まだ聖女になる為の研修をしていた頃だと思います」 予想通りの返答に、エザレイはため息をついた。 彼女はやはりわかっていない。これ以上言葉を重ねるのは酷かもしれないとわかっていながら、止められなかった。 「じゃあもっとよく考えてみろ。祭り上げられるってのはどういうことだったか。修道司祭みたいに、外界には簡単に降りられなくなるんだ。血の繋がった両親だろうと妹だろうと滅多に会えない。カタリアはそのことを気にしていた――俺はそう憶えている」 「お姉さまが……」 「旅に出る前なら、まだ重く捉えてなかったんだろうな。大聖者は、教皇や枢機卿とはまた違う。どれほど近しい間柄でも、聖職者でないなら年に何度と会えなくなるぞ。たとえ苦楽を共にした護衛だろうとな」 そこで、終始無言で咀嚼をしていただけの青年がぴたりと動きを止めた。嚥下に、喉仏がごくりと上下する。 「そう、ですね。せっかく仲良くなれたのに……皆さんには会えなく、なります、ね」 聖女ミスリアは小さな舌で唇を湿らせて、ぎこちなく答える。茶色の双眸は、ついぞ一度も黒髪の青年の方を振り返らなかった。 哀れだと思った。が、早めに理解すれば傷の治りも早まるものだ。 苦労して作り上げたつもりの居場所が、その実、砂上の城だと。 ――自分には、遅すぎた―― 気まずい空気が流れた。周囲がお祭り気分であるだけに、三人を囲う空間だけが湿っているのはどうにも滑稽であった。 残る二人の帰還で、その空気が壊された。 |
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