56.b.
2016 / 05 / 05 ( Thu )
「大型肉食獣……では奥の森が立ち入り禁止なのって……」
 血の気の失せた顔で聖女ミスリアが呟く。森が区切られているのは、臣民を獰猛な肉食獣から守る為だとでも推測したのだろう。
「立ち入り禁止なのはそんな親切な理由じゃないと思うなー。ね、兄さん」
「行けばわかる」
 腹違いの兄弟らしい二人の青年のやり取りを、エザレイは横目で眺めた。目を合わせないように、一瞬だけだ。

 一見まるで性格の似ない兄弟だが、上辺ではどれほど社交的に振る舞っていようがいまいが、根っこのところで疑り深く人を観察している点では同じだ。
 素直で人の好い聖女が狂った世の中を生き延びるには、きっとこういう護衛が傍に居るべきなのだろう。

「行けばわかる、か。そうだな。どの道、夜が更けたら行くんだ」
 エザレイは立ち止まって言った。周りの町人に音が漏れないよう、小声で。
 言葉を形にすると、心臓に鉛が落とされたみたいに感じた。気が重い。ちっとも耳鳴りが収まらないというのに、「奥の森」のことを考えると、ますます苦しかった。

 女神への讃美歌の合唱がふいに止んで、歓声に変わった。
 視界一杯にごうっと色とりどりの花びらが舞う。息をすれば吸い込んでしまいそうだ。実際、何枚かが歯にくっついた。
 それを剥がしている内に、隣に聖女ミスリアが立った。

「あの、エザレイさん。訊いてもいいですか」
「なんだ」
「そのリボンは、大切なものなんですか? 折りを見ては丁寧に洗ってますよね」
 大きな茶色の瞳が、エザレイの腰に集中していた。正確にはメイスの柄に結びつけてある灰色のリボンに、だ。

「ああ、これは――」
 答えかけて、一瞬だけ戸惑う。質問自体にではなく、ほぼ抵抗なく答えようとしている己にである。
 かつての自分はもっと嫌々と他人と会話していた気がする。訊かれたことに答えるまでに、やたらと逡巡していたはずだ。

 ――人格は統合されたのであって、完全な回帰をしたのではない。
 そう考えると、納得した。いわゆる霧の中を彷徨っていた数年とて、確かに自分は生きていたのだ。その間に作られた「シュエギ」という在り様は、消えたのではない。
 吸収されたのだ。
 答えようとして、変な嗚咽が喉から漏れた。音にするなら「るっ」とでも発したのだろうか。聖女ミスリアが不思議そうな顔をした。

「……っ、悪いな。大事なものだった気はするけど、よく思い出せない」
 言い直した。
 常に持ち歩いている、否、手放そうとすると指先から激しい震えが始まるくらいには大切らしい。懐に仕舞って持ち歩けばいいものの、視界に入っていないと落ち着かない。それゆえにリボンは繰り返し汚され、エザレイは手間を取って繰り返し洗う羽目になる。

「女性ものに見えますね」
「女が着けるには色が渋す――」
 頭痛がした。
 息切れに、エザレイは不自然に言葉を切った。これも覚えがある。舌が、台詞を憶えている。
「だ、大丈夫ですか? 無理に思い出そうとしないで下さい」
 隣の少女が泣きそうな顔で心配している。それがあまりに興味深いからか、つい苦しさを忘れられた。

「カタリアの妹、優しいところはあいつと一緒だな。あんたら姉妹からは、春の日差しみたいな匂いがする」
「そ、そうでしょうか」
 聖女ミスリアは照れたように片手で耳を撫でた。
「故郷も、常春なんだったか」
「はい。ファイヌィ列島は、年中ぬくぬくしたところです。草木がよく茂って、虫や花や魚も、いつも元気そうでした」

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