51.f.
2015 / 12 / 25 ( Fri )
「あ! すみません。気が付きませんでした」
 少女がいきなり声を挙げる。大きな瞳が、青年の右手を注視していた。
「は?」
「怪我をされたんですね」
「ああ、さっき殴った時に擦り剥いたっぽいな」
 鮮血のついた指関節のことを言っているらしかった。いちいち手当てするほどの怪我でもない。
 それに普段は青年は非番の日も欠かさず革の籠手を嵌めていたのだが、職を失った途端に、半ばヤケになって手持ちの防具をほとんど売り飛ばしたのだった。

(我ながらマヌケだよな。武器まで売らなかったのが幸いか)
 職を失ったその日でいきなり金に困りはしない。務めも無いのに凝った装備をつけて街中を闊歩するのが、滑稽に思えて悔しかっただけだ。
(どうせ自意識過剰だよ)
 一旦卑屈な気分になれば、浸るようにどんどん沈んでいく。人生うまく行かないのはこの性格の所為かもしれない。

「ありがとうございます」
「……?」
 少女を改めて見下ろした。
 その時、右手が不可解な温もりに包まれた。
 少女の両手に指先が包まれてはいるが、それとは別の、芯まで染み入るような温かさだ。

「いっ」
 つい奇声が漏れた。皮が擦り剥けて赤かったはずの箇所が、見る見る塞がっていく。
(なんだぁ!?)
 気味の悪い光景だ。青年は震えを抑えるのに必死だった。
「はい、治りました」
「治りましたじゃねえ……もうちょっとこう、心の準備をさせろ」
 自分の皮膚じゃないみたいだと思っても、左手で撫でてみれば確かに感覚はあった。間違いなくこれは自分の皮膚だ。今のはどういう現象だ――

「そういえば、とてもきれいな髪だなってさっきから思ってました。スターアニスの種の色みたい」
 突発的な容姿褒めが始まる。欠片も嬉しくない。
 落ち着いて物思いもできやしないな、と青年はやはり諦めた。
「せめてシナモン色と言ってくれよ」
「アニス、嫌ですか?」
「薬っぽくて苦手な味だ」
「じゃあシナモン色ってことにしますね。ああでも、アニスを練り込んだパンが食べたくなっちゃいました」

「あんたは何を言ってるんだ。さっきたらふく食ったじゃねーか、肉を」
 反論してみたら、少女はぷっくりと頬を膨らました。
「美味しいパンの話ですよ。お腹が空いているという話ではありません」
「どうでもいいわ! それより、あんたが今何をやったかの話をしようか」
 最後を低い声で告げると、少女は「あ」と唇を驚きの形に動かした。スカートの両端を指先で持ち上げ、腰を折り曲げる礼をする。

「失礼、申し遅れました。私はヴィールヴ=ハイス教団に属する聖女、カタリア・ノイラートと申します。今のは我々が『聖気』と呼ぶ清浄化の力です。よろしかったら、貴方の名前も教えてくださいな」
 聖女カタリア・ノイラートは、服の下に収めていたらしいペンダントを取り出してみせた。教団の象徴をあしらった、二つの紫水晶が印象的な銀細工――なかなか偽造できる代物ではない。治癒能力といい、本物だ。

「聖女……」
 はああああ、と彼は露骨に長いため息をついた。
 自分は厄介な何かに巻き込まれようとしているのではないかと、頭の中に警告が鳴り響く。
(ヒューラカナンテ。思い出した、それって教団の本拠地だったな)
 旅の聖女となると、連合への用事も単なる魔物退治の域を超えたものかもしれない。
 事情は変わりつつあった。その辺の田舎娘ならともかく、人類の宝とも言われる聖人・聖女の一人を目の前にして、手助けをしないわけには行かない。

(連合に送り届けてからトンズラしよう。うん、そうしよう)
 今度こそ縁を切るのだ。でないと胃が不安だ。
「あんた一人じゃ心もとないから、連合拠点まで案内してやるよ」
「本当ですか!?」
 喜びすぎだ、とは口に出さずに、気を取り直して青年は咳払いをした。

「門前まで送るだけだぞ。いいな」
「十分助かります。よろしくお願いします!」
「よろしくしなくていい。俺の名は――――……」
 そして求められたがままに、青年は名乗った。どうせ憶えられることも無いだろうとの軽い気持ちで。


 ――しかしこれは、青年のその後の人生において、激動をもたらす出会いとなる。

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