35.f.
2014 / 08 / 23 ( Sat )
 室内にはひとつだけぼんやりと明るい輪郭があった。四角い窓だ。
 医者は窓まで歩み寄り、音を立てないように静かにカーテンを横に引いてどけた。暖かい日差しが眠り姫を淡く照らす。外の天気は曇っているようで、部屋の中の明るさが雲の運びに応じて明るくなったり暗くなったりしている。

 ミスリアは自ら車椅子の輪に手をかけた。
 少し薄暗いが、ベッドまでの道のりに障害物は無いと見たので問題なく進められる。

 病室に入った瞬間にとある香りが鼻についた。それもそのはず、診療所中の至る所に備えられている底の浅い皿の中には、乾かされた花びらや樹皮が重なっているのだ。とりわけこの部屋の中は他の臭いを紛らわして隠そうとしているのか、ポプリのツンと醒める香りがやけに強かった。

 ベッドのすぐ傍まで車椅子を寄せると、ほどなくして、雲が太陽を妨げるのをやめた。

「――――」
 思わず唇から漏れそうになる声を両手で封じた。
 見知った人間のあまりの変貌に目を瞠る。

 医者や従業員の努力か、話に聞いたような汚れは目につかなかった。
 一方で顔や身体はすっかりやつれてしまっている。蒼白な肌は乾き、目の周りには真っ黒な隈ができていた。あるべき艶を失い、白髪の混じってしまった長い髪。元より細腕だったのにますます肉が落ちて骨ばってしまっている二の腕。指や手首、頭や首に巻かれている包帯に至るまで、全てが痛々しい。

 それでいて最も異様だったのは――

「先生、これは一体…………?」
 震える人差し指を指して問う。
 横たわる聖女レティカは猿ぐつわを噛まされていた。拘束具は他にもあった。ベッドに縫い付けるように何本もの分厚いベルトが、ほっそりとした体躯を横切っている。

「それなら」特に動じない様子で医者は顎鬚を撫でる。「保護して何日か経ってからですかな。目を覚ます度に自害しようとするんで、仕方なく。従業員と私の総勢三人で押さえつけましたさ」
「じ、がい……自害」
 何度もその単語を口の中で反復した。曰く、隙あらば舌を噛み切ろうとしたり手首を掻き切ろうとしたり、あまつさえ頭を壁に叩きつけたりしたのだとか。正気の沙汰とは思えない。

 レティカが負ってしまった闇の深さを、自分は果たして理解できるつもりでいたのだろうか。どんな言葉をかけるつもりでいたのだろうか。同じ絶望を知らない人間との会話は、かえって不快にさせてしまうかもしれないというのに。
 愚かだった。胸の奥に針が刺すかのような後悔が芽生える。

「考え直せと説得はしたんですがね。うわ言ばっかりで会話になりやせんで。精神を落ち着かせる薬も処方してみたんですが、なぁんにも届きそうにない。こりゃあ、早いとこ身内に引き取らせるか……」
「引き取らせるか……?」
 ミスリアは先を促すように囁いた。

「望むままにさせてやるしか無いと思いますな」
 医者はこうも続けた。此処には生きる気力を欠いた人間をいつまでも置くだけの余裕が無い、と。そもそも生きたいと願う理由が無いのなら、無理に生かす方が残酷だ、とも。

「残酷だと言うのには賛同します。けれどそれでも自殺はダメです」
 この世に生を受けた奇跡を自らの手によって絶つ行為――それがいかに道徳を踏み外しているか、を論じるつもりは無い。
 ミスリアは項垂れ、膝の上で拳を握った。

「彼女は混乱しているだけで、生きる理由を一時的に見落としている、とそう考えられませんか? 己をしっかり見つめ直せるまでに回復しない内に、自害を選ぶのは早計です。そうならないように周りが手を尽くすべきです」
 強く言い切って顔を上げると、医者は何故かニヤニヤと笑っていた。嫌な印象は不思議と受けなかった。

「ならば本人にも言ってみなされ」
 ベッドを見下ろすと、ちょうど聖女レティカの睫毛が震えた。
 やがて碧い双眸が億劫そうに瞬く。

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