35.g.
2014 / 08 / 26 ( Tue )
 完全な沈黙の中で澄んだ碧い瞳だけが動いている。その様子を医者は鋭い眼差しで観察した。そして何かに納得したのか、手を伸ばして猿ぐつわを解いた。
「最後に飲ませた薬がいくらか効いたようですな。錯乱していないようだ」

 彼の言う通り、認識の色が濃いように見えた。拘束されている状況を理解しているのだろう。
「聖女レティカ、ご気分はいかがですか? 私がわかりますか?」
 試しに呼びかける。静かに、ゆっくりと。碧眼はすぐに声のした方を探し求め、唐突に瞳孔が焦点を合わせた。次いで掠れた声が発せられる。

「……め…………て」
「はい? 何でしょう」
 何と言われたのかもっとよく聴きたくて身を乗り出す。対するレティカの瞳は大きく見開かれた。
 映し出された感情に驚く。――拒絶?

「や、めて。貴女の清浄な気は見たくありません……わたくしの前から、消えて下さいませ」
「消え――……」
 冷や水を浴びせられた錯覚を覚える。思わず固まった。

(どうして)
 拒絶された理由がわからない。清浄な気とは前に言っていた、人の周りの空気に色がついて見えるという話だろうか。でもそれならば尚更わからない。引っ込めようと思ってどうにかできる代物ではないのに。

「あの、私」
「聴こえませんでしたの!? 出て行って!」
 ――バンッ!
「きゃっ!」
 ミスリアは素早く身を引いた。ベルトを千切りそうな勢いでレティカが身体を浮かせかけたのだ。目玉が飛び出さんばかりの険しい表情にゾッとした。

 一瞬後には車椅子がひとりでに下がっていた。困惑して振り返ると、ゲズゥが威圧的な視線で見下ろしてきた。
 今日はもう諦めるしかないのだとミスリアは察した。
 医者に向けて会釈し、目配せを交わす。それが終わるのを見計らって車椅子がくるりと半回転した。

「また来ます」
 部屋から出る際に、振り返らずに言い残した。
 聖女レティカは一言も返さなかった。
 完全なる静寂の中で彼女がさめざめと泣いている気がした。

_______

 己が歩けるようになるまでならと、ミスリアは何度でもレティカの元に通いつめるつもりでいた。護衛たちは異を唱えなかった。どうせ歩けない間は船に乗らない方がいいだろうと二人とも付き合ってくれている。
 最初に訪問してから三日、今度はリーデンを伴い、車椅子を押してもらっている。

(今日はちゃんと聖女レティカと話せるかしら)
 前回の結果がまだ記憶に新しいため不安が大きい。流石に「消えて」には深く傷付いた。
(だからと言ってあっさり引き下がってはいけないと思うけど……)

 ため息交じりに白い息を吐く。街道は相変わらず寒さも忘れられそうなくらい賑わっている。
 ふと思い立って見上げると、空は薄い灰色の膜に覆われていた。

「イマリナ=タユスでは冬は雪が降ったりするのでしょうか」
「ん~? この辺りはあんまり降らないよ。せいぜい年始に通算二~五回程度かな。それも積もるような雪じゃなくて午後にはすぐ溶けて水っぽくなる感じの」

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