33.c.
2014 / 06 / 17 ( Tue )
 あの朝、といっても正午近くに遅かった時刻――言い争う声で目が覚め、ミスリアは寝ぼけ眼をこすったのだった。
 のろのろと布団から起き上がり、地下室の寒さに一度ぶるっと震えた。

(この声、ゲズゥとリーデンさん?)
 共通語ではなかったので、内容は全く頭に入らなかった。ただ、普段の二人とまるで結びつかないような激しい怒気が壁をすり抜けてまで反響している。

 声の方に行くのが憚れる。けれど、気になる。
 イマリナに借りた寝間着から部屋着に着替え、靴下と靴を履いて床に立った。

 寝泊りしている部屋から出るとリビングルームがあり、その部屋を抜けた先にダイニングルームがある。外へ続く扉がダイニングルームに取り付けられているのは些か変わった構造だが、そもそもこの空間はちゃんとした家とは言い難いので問題ないのだろう。

 バーガンディ色のカーテンをめくり、ミスリアはなるべく音を立てずに部屋に入った。
 想像していた通りにかの兄弟が殴り合わん勢いで言い合っている。部屋の隅では、ミスリアと同じようにびくびくとした様子で見守るエプロン姿のイマリナが居た。

 その時、リーデンの方が何か決定的な一言を言い放ったらしい。
 ゲズゥは歯を噛み締めて押し黙った。数秒の間、兄が弟を睨み下ろす。そして舌打ちし、苛立たしげに漆黒の前髪を鷲掴みにした。
 低い声が何かを呟いた。それを聴いてリーデンは満足そうに頷く。

(リーデンさんの我侭をゲズゥがイヤイヤ譲歩――承諾した、みたいな流れかしら……)
 険悪な雰囲気の中を進み出ることが未だできずにいるミスリアは、特にすることもなく襟元のフリルを指で撫でたりした。
 ふとリーデンがこちらを振り向いた。

「おはよう、聖女さん」
 絶世の美青年はとろけるように微笑んだ。不覚にも心臓がドキリと跳ね上がる。何度見ても絶句してしまう美貌である。

 彼の今日の服装は薄紫色の生地に背中に孔雀の刺繍、という派手な民族衣装だ。しかしそれが何故かあまりにも似合っていて、まるで孔雀という生き物が彼の為に存在しているのかと思い込みそうなほどである。

「お、おはようございます……」
 俯き気味に応じた。
「そうだ、ご飯はマリちゃんに頼んで好きな物作ってもらってね。せっかく今会えたのに残念だけど、僕はこれから出かけるから」

「出かける? どちらへ?」
 ミスリアは顔を上げて輝かしい緑色の瞳と視線を交わらせた。いつの間にかすぐ正面に来ていたらしい。
「ん~、まだ正確にはわからないや。これから居場所を突き止めなきゃならないから」

「居場所……?」
「ま、そういうことだからしばらく戻ってこないかも。扉の暗証番号はここにメモって置いたから好きに出入りしていーよ」
 リーデンが左手の指の間に挟んでいる紙切れを見つめるや、ミスリアは嫌な予感がしていた。

「危険なことをしに行くんですね。も、戻って来ますよね……!?」
「確信を持ってその問いに答えることはできないね」
 何でもなさそうに彼は笑って返事をした。

 逡巡してから、ミスリアは象牙色の右手を両手で包んだ。リーデンは「おや」とやんわり驚いたように眉を上げる。
 ミスリアは生温い体温を両手の指の間に感じながら、訴えかけた。

「お願いします。無事に帰ってきて下さい。こんな別れ方で、家族と二度と会えなくなるのは、悲しすぎます」
「あはは。他人なのに凄い感情移入だね」
「それは……」

 食卓の傍に立つ長身の青年の方を一度見やった。彼は感情がまるっきり抜け落ちた人形みたいな表情でこちらを見ている。
 二人の心中を想って、ミスリアは意を決した。

「私には歳の離れた姉が居ました。大好きな姉で、いつも一緒に笑って暮らしていました。だけどお姉さまは聖女になって、旅に出ることが決定して……私はそれが寂しくて、だから自分も早く大人になるんだっておかしな背伸びをしたくなったんです。お姉さまが出立する前の夜、意地を張ってしまいました」

 リーデンは、ふうん、とだけ言った。

「いつものように外を歩いていた時に、手を繋ごうってお姉さまが私の手を取りました。それを私は、振り払ってしまった」
「早く大人になろうって思ってたんだったらそうしちゃうねぇ。手を繋ぐのがカッコ悪いみたいなね」

「はい。それはとても些細なことで、お姉さまは全く気に留めた風でもなく、普通に夜は更けました。そして次の朝には別れが――」
 何度思い出しても悔い足りない。
 ミスリアは一呼吸挟んでから、続けた。

「その後もしばらく私は後悔していました。多くの思い出の中でも、そればかりが気になって……どうして素直にならなかったんだろうって。そして数年が経ち、もう会えない事実を受け入れるようになれば、後悔は増すばかりでした」

 帰って来て欲しいのは勿論、素直に別れを惜しんで欲しいとか和解して欲しいとか、もしかしたら自分はそういうことが言いたかったのだろうか。ミスリアは自分でもわからなくなってきていた。
 美青年の表情に僅かな変化が表れた。次第に切なく儚げな微笑みとなるのを見て、ミスリアはもの悲しい気持ちに胸を締め付けられた。

「ごめんね。僕らはどうしてもこうなってしまうんだよ。だからこれからは聖女さんが代わりに兄さんの手を握ってやってよ。僕にはきっともう、それができないだろうから」
 ぎゅっと右手を握り返された――と気付いた瞬間、リーデンは掌を上向きに返していた。彼はミスリアの細い右手をそっと引いて、第一関節に唇を寄せた。

 思いがけぬ熱さと軟らかい感触に、小さく息を呑んだ。

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