32.i.
2014 / 05 / 26 ( Mon )
「よせ! 戻るんだ、君!」
「じゃまだ! はなせえええ」
 再び、目と鼻の先で魔物狩り師たちが仇討ち少年と揉み合っている。
「何の騒ぎです?」
 浄化を終えたレティカがレイを伴って近付いてきた――その時。

 空気の色が変わった。
 厳密には、上から降り注ぐ青白い光に周囲が照らされたのだ。
 あまりに唐突だったのでミスリアは遅れて空を仰いだ。

 喉が恐怖に収縮する。
 それがどういう形をしているのか全体像を捉えられないくらいに、対象は視界からはみ出ていた。
 人間の顔に似た無数の隆起が呻き声と腐臭を放っている。
 その上、一瞬を追うごとに近く感じる。

 ――呑み込まれる!?

 ぐにゅり、と人面型の突起が、丸い吸盤に覆い尽くされた柔軟な足に変化した。
 足が獲物めがけて伸びる。
 咄嗟に顔の前に手をかざしたミスリアは、右手首を絡め取られた。強力な吸引力によって上へ引っ張られる。靴の裏が地面から離れていく――

『むねん』
『いきができない。くるしい』
『いたいいたいいたいいたい』
『たすけて。だれかたすけてよ』

 いくつもの悔しげな囁きが鼓膜をかすめた、気がした。

「リーデン!」
「わかってる!」
 兄弟間で短いやり取りが交わされた直後、ミスリアの身体を上へ引っ張る力が消えた。
 横抱きにされたかと思えば、視界が疾く動いた。
 しかし慣れた感じと何かが違う。乗り心地、とでも言うのだろうか? それに爽やかな香りがする。

「聖女さん、手大丈夫?」
「リーデンさん!?」
 自分を抱き抱えている人物の正体を知って驚愕する。

 が、それ以上に手首に吸い付いたままの魔物の足の先端に吃驚して、左手で慌てて浄化した。白い足が完全に消えると、肌に赤い痕がだけが残った。
 作業も終われば今度は背後から響く悲鳴に注意が行く。

(状況は……!?)
 リーデンの肩越し、今しがた逃げてきた場所へと視線を向けた。
 そして絶望した。

 そこには地獄絵図が広がっていた。
 倒れたテントみたいに、平坦な形をした大きな魔物がパタパタはためきながら人間たちに覆いかぶさっている。
 逃れんとする人間をしなやかな足で捕まえて、下面の口と思しき空洞へ引き寄せている。

 絡まった魔物狩り師は各々の武器を手に、吸盤付きの足に斬りかかる。だが斬っても斬っても解放されない。
 紫黒色の液体が飛び、朱色の血飛沫も飛び交い、河岸は阿鼻叫喚の巷と化していた。
 誰かの腕が引き千切られる展開を見届けて、ふいに吐き気を催した。

(なにが、これ、なに)
 口元に手を当て、ミスリアは信じられない想いでそのシュールな光景を眺めていた。
 顔から血の気が引いていく。

 仇討ち少年の姿はどこにも無い。
 が、彼の高らかに笑う声が聴こえてくる。
 距離が開けてきているのに、嫌にハッキリと聴こえた。

「いける! これであえる! まってて、おばさん! アハ、はははははははははははは!」
 ミスリアは両耳を手で塞いだ。どうか錯覚であって欲しい。

 ――幻聴だとしても、なんてひどい笑い声――!
 哀しい狂気に憑かれた子供を、ついぞ救うことができなかった。
 現実の重さが心を侵していく。

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