十 - l.
2017 / 11 / 15 ( Wed )
 視線の重さを質量に換算できるなら、きっと馬十頭分はあっただろう。
 決断を迫られていると言っても、エランの返事は決まっていた。問題はそれが喉まで出かかって止まっていることだ。
 身に纏うものの感触が急に意識を占める。母から贈られた耳飾の重さ。顔の右半分を覆う布の、濡れた肌触り。鼻先から垂れる水滴。

 喉の奥が引き締まって息がうまくできない。そんな中、視界に動きがあった。先ほどアダレムを背負ってきた女が、すぐ傍まで近付いてきた。
 肌の白い女はヌンディーク公国にあふれているが、これほど色素の薄い瞳はあまり見ない。橙色のアクセントが美しい、ヘーゼル色。角ばった目の形も特徴的だ。
 女は数歩の距離を残して立ち止まった。微かな笑みを、朱色の唇にのせている。

『好きだけどね。そうやってかっこつけないとこも』

 彼女の微笑につられ、遠くない過去を思い出す。
 目が合うと、セリカはパチリと片目を瞬かせた。意味のわからない仕草を前に、あっという間に肩の力が抜けていった。
 腹から呼吸をして、声を張り上げる。

「暫定! 空いた大公の座はこの私、エランディーク・ユオン・ファジワニが埋める」
 数秒の静寂。次いで、今日一番のどよめきが上がった。押し寄せる人波を、タバンヌスとイルッシオ公子の兵士たちが身を挺して食い止めてくれる。
 有象無象の考えが手に取るようにわかる。兼ねてより、数ある公族の中で一等大公を任せられない男だと思われていることくらい、知っていた。
 だからどうした、と一笑に付す。

「――最後まで聞け! 暫定と言ったのが聴こえなかったのか。ひと月……三十日後に私は退位する。だがひと月の間に、ハティルかアダレムか、大公世子を必ずや決定してみせる。それからの数年間、世子が成人して大公に即位するまでは、代理を立てて政を回せばいい。資力・人材が集中している都はそれで十分回せる。対して、属領ルシャンフの領主は簡単に替えられるものじゃない。私はいずれ元の役目に戻る」

「ご英断にございます!」次なる抗言が飛び出るより早く、宰相が大げさに手を叩いて感嘆した。「これで我が国はしばらく安泰です!」
「ご即決、ありがとうございます。どうか我らファジワニ家を率いてくださいませ」

 流れに乗って跪いた者が意外にももうひとり。殊勝な弟だった。正確にはハティルはアダレムをも――後頭部を押さえつけることで――平伏させているため、二人か。状況を理解しているのかいないのか、アダレムは呑気そうに「ひきーてくださいませ!」と復唱している。

 更にはセリカとタバンヌスが跪いた。特にそんな必要もないだろうに、イルッシオ公子の兵までもがくるりと身を翻して、それに倣う。徐々に、群衆の中からも後に続く者が出始める。

 奇妙な空気になった。直立したまま異論を唱えたそうにする者、その場を去る者、最後まで流れに乗らない者も少なからずいた。
 当のエランと言えば、頭を下げる人々に囲まれても、優越感も何もあったものではない。早く終わらせたい、それしか考えられない。

「尊き聖獣と天上におわす神々に誓って、私は国と民に尽くす。ヌンディーク公国の未来に、栄光あれ」
「栄光あれ!」
 大抵の者が沸き立つ中、
「すぐにでも即位式を……!」
 と誰かが呟いたのが聴こえた。

「即位式よりも葬式だ。まずは聖職者を手配しろ。差し当たり父上の件に関しては、進行は宰相殿に一任する。よろしいか」
 謹んで拝命いたします、と宰相が深く礼をする。
「さあ皆、濡れて冷えているだろう。早く中に入るぞ」

 そっちはお前が仕切れ、とエランは第六公子に伝えた。命じられたままに、彼はアダレムを連れてテキパキと屋上から人を追い払う。第二公子はどうなされたのかと問う者も居たが、それを言葉巧みにあしらったのもハティルだった。
 屋内に入ったところで、人だかりから密かに離れる。
 誰もいない一室に滑り込む。後についてきた足音はひとり分だけだ。ちょうど三歩後ろから、静かに。

 部屋の中央に至ると、エランは唐突に前後反転した。背後にあった人影が、驚いたように立ち止まり、輪郭を揺らした。
 ――なんなの? 
 小さく発せられた疑問に覆い被さるようにして、抱き寄せる。

「わっ! もう……びっくりした」
「悪い」言葉とは裏腹に、腕の力は勝手に増した。衝動のままにかき抱く。「無事でよかった」
「それは、こっちのセリフよ」
 拘束を逃れようとセリカがもぞもぞ動いている。解放してやると、真っ先に手が伸びてきた。躊躇いがちな指先が顎下を撫でる。くすぐったい。

「公子サマが顔に傷増やしてんじゃないわよ。ばかじゃないの」
 心配する声がひどく切なく、胸を打った。薄闇で表情が見えないのが悔やまれる。
「好きで増やしたんじゃな」
「口答えしないの」
「スミマセン」
 手を優しく包み込もうとしたら、叩かれた。邪険にされているのとは違うのだと直感した。照れ隠しが可愛くて、愛おしい。




どばっと出して終わらせたかったんですがむりでした。
次回、m記事で今度こそ十話は終わりです。

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