62.b.
2016 / 09 / 12 ( Mon )
「ぼくはこの手鏡、気に入ってしまったんだ。おくれよ」
「勝手言わないでください」
 ふつふつと、嫌悪感が腹から喉を上り、首筋を這い上がる。寒さによる全身の激しい震えに、怒りの感情が追加された。
 普段ミスリアは物欲に乏しいが、プリシェデスの細い指が撫でるそれはリーデンからの生誕祝いの贈り物だった。
 世界にたったひとつしかないのだ。くれと言われて、はいどうぞと笑顔で明け渡せるようなものではない。

「気が強くて結構。でも状況を見たまえよ。きみに拒否権なんて、存在しない」
「――――は」
 突然近付いて来た美貌を前に硬直する。美女は唇を湿らせ、ニタリと笑った。
 ――ガシャン!
 縛り付けられている身でも、びくりと身じろぎした。
 咄嗟に閉じた目を見開いて確かめると、恐れた通り、鏡が地面に叩きつけられた音だった。割れたガラスの破片の煌めきは、ミスリアをひどく落胆させた。

「そうそう、尿意を催したらその場でしていいよ。ぼくらは気にしないから」
 脈絡なく投げつけられた一言。
「……貴女は人としての尊厳を、何だと思って」
 ミスリアは声を低くして返した。威嚇、呆れ、蔑み――いずれにせよ、昏(くら)い感情を込めて。
 対する女性は身を引いてさも楽しそうに大笑いした。あまりに首を後ろに傾るため、まるで天井に向けて笑っているようであった。

「さほど価値の無いもの、だよ」
「な、ぜ……そう思うのですか」
 理由を問う。理解しようと試みる。無駄に終わるとわかっていても、それは押し寄せんとする恐慌の波を御する為に必要な努力だった。
「あのね、聖女サマ」
 ――これまでの人生で呼ばれた際のどの「聖女さま」よりも、嫌味が込められていたように聞こえた。

「人間の肉体に閉じ込められての一生というのは、魔物となってあらゆる面で解放される一生に至るまでの『序章』に過ぎないのさ。魔物こそが究極。ヒトのあるべき姿だよ」
 ミスリアは絶句した。彼女の提示する主張の意味が飲み込めなかった。
 翡翠色の瞳に、見入るだけである。

「人間として生きる限り、社会というものに縛られる。たとえばこのアルシュント大陸中、悪女ラニヴィアの作った教団や、旧き神々を掲げる対犯罪組織の監視から外れる場所なんてほぼない。それでなくとも、誰の強制が無くとも、ヒトはひとりでは生きられないものだからね……群れに紛れ、体裁を気にし、面子を守ろうとする。此処にいるぼくらとて例外ではないよ。多少はタガを外しているつもりだけれど」

「……悪女……?」
 己が属する教団の創始者への言われようが引っかかり――短く訊き返すも、無視された。
「だからこそ魔物は素晴らしい。人類は魔性と生まれ変わっての第二の人生を目指し、容認すべきだ」
「シェデさん。貴女が魔物に対して甚だしい夢想を抱いていることはわかりました」
 突飛過ぎる話を耳に入れる内に、ミスリアの心中には辺りの気温よりも冷ややかな平静さが生じていた。
 ちちち。プリシェデスは頭を振りながら舌打ちした。

「誤解だよ。この夢想は実現可能な楽園……乗り遅れているのはむしろ、きみたちの方なのさ」彼女は上目遣いに笑ってこめかみを指で指した。「古臭い思想は捨てた方がいい」
「古臭いだなどと――」
 反論の途中に入り口に人の気配が増えた。
「おっと、呼ばれているようだ。また後で話そうね、かわいい聖女サマ」

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