56.g.
2016 / 05 / 12 ( Thu )
(あの人は私たちを貶めたりしない)
 自発的に彼が此処に来ようとしたのではなく、サエドラに行こうと誘ったのはこちらだ。などといくら疑念をどこかへ押しやろうとしても、引っかかりは拭い去れない。
「まあどっちでもいいよね。まずはこのピンチを切り抜けないと」
 気遣ってくれたのか、リーデンが話を畳んだ。
 既に護衛らは行動に移っていた。どうやら、進むべき方向を「前」と定めたらしい。

 町はもう安全ではないだろうし、目的にかすりもしないで逃げるよりは目的地に向かって逃げるのが得策だと、ミスリアも思う。
 気がかりなのは――魔物の気配がそちらに近付くに連れて強くなっていることだ。
 住民が魔物を使役している?
 不安が、渦となって胸の内を占めていった。

 疎らに上って来る松明の群れがどんどん小さくなっていく。
 ミスリアが身体を捻って森の民の方を振り返ると、横一列に並ぶ馬上の人影が奇観を呈していた。こちらからは横一列に見えてしまうだけで、実際は特攻に適した陣形かもしれない。例えば、V字型陣形。
 口笛のような音の応酬があった。中央付近の人が吹けば、列の左端右端がそれぞれ応答する。
 夜盗と思しき者たちに襲われたあの夜と、どことなく状況が似ている。彼らはありきたりな夜盗ではなかったのだと、察するほかない。
 列の横幅は二十人程度。

(こんなの、抜けられるの)
 焦ったところで自分にはどうしようもない。仲間たちを信じて、掴まる腕に力を込めた。
 稲妻が再び周囲を明るく照らす。瞬間、すぐ後ろを走る二人の姿が目に入った。まるで照らし合わせたかのように二人は足を止め、左右に跳んだ。銀髪の青年の指の間から、直径十インチ(約20.5cm)ほどの特大の鉄輪が飛び立つ。同様に、イマリナも何かの凶器を続けざまに投擲した。
「ぐあっ!」
 ミスリアにとっての背後から、呻き声が幾つか上がる。

「まだ通り抜ける隙間が無い、ね!」
 言っている傍からリーデンはまた何かを投げ飛ばしている。そのいくらか切迫した叫びに、別の声が重なった。
「下ろすぞ」
「え!?」
 すかさず落とされた。尻餅をついた姿勢から地面に両手をつき、這うようにして前後反転した。
 するとミスリアを庇い、立ちはだかるゲズゥの全身がよく見えた。何故よく見えたのかと言うと、光源があったからだ。頭上高く跳んで顎から唾を垂らす、異形の巨体が――

「きゃあっ」
 呪いのような青白いゆらめきを網膜に焼き付けたまま、ミスリアは地に伏せた。衝突の余波が髪を乱すのを感じる。
 舌打ちが聴こえた。顔を上げれば、巨大な狼に似た影に圧されるゲズゥの姿を認めた。狼の大きな顎は、長身の青年のそれとちょうど同じ高さに位置していた。彼に襲いかかろうとした牙は全く噛み合っていない。

 斜めの角度で挿し挟まれた剣の刃が、ギリギリと牙と擦れる。
 濁った色の唾液が、汚臭を放ちながら刀身を伝っていく。
 森の住民たちの居る方から、場に不似合いな音が上がった。拍手喝采、歓声、手拍子。狼に似た魔物はまるでその声を応援としたかのように、激しく頭を振り始めた。

 迫りくる馬蹄の勢いが落ちている。列が少し開けた。けれどもそれは求めていた好機ではなく。
 ――また狼が現れた!
 こうしてはいられない。ミスリアは、聖女である己にしかできない戦い方をした。
 聖気の流れを作り出し、一直線に伸びるよう制御して、新手の魔物に集中させる。狙う先は――頭蓋。がくがくと震える手でも楽に当てられる、大きな的であった。
 ぼ、と余韻すら残さない短い効果音と銀色の素粒子の発散が、試みの成功を報せてくれる。胴体だけとなった異形は、それでも俊敏に駆け寄ってくる。迎え撃ったのはチャクラムの連撃。魔物の前足は切断され、元の半分の長さになった。巨体はついにくずおれた。

(もう一体は!?)
 確かめようと視界を探るも、そちらは危機ではなくなっていた。魔物はゲズゥの剣先によって容赦なく分解されつつある。
 だがもう、騎乗した軍団が攻撃の有効範囲までに到達している。端の人影が斧を振り上げて投擲しようとしている。落雷によって、その姿はひどく鮮明に目に映った。
「――!」
 庇ってくれたのはイマリナだった。肩から抱き寄せられ、頭を押さえ付けられる。
 かろうじて片目からの視界はまだ活きていた。

 怖いもの見たさだろうか。ミスリアの視線は筋骨隆々とした男性の輪郭に釘付けになった。
 息を呑んだ。
 次の瞬間、輪郭が激変した。

(……な)
 人の首とは、あんな風に回転して放物線を描くものだったかしら。あんな風に宙を飛んで地面に転がっていいものだったかしら。衝撃のあまりに、思考回路が追いつかない。
 斧を片手で振り上げたまま、首を失った身体がゆっくりと前倒れになる。

 列が崩れた。リーデンたちが仕掛けていた攻撃で倒れた人たちとは異なり、死角から起こっている別の何かによって倒れていっている。人も、馬も。
 彼らが驚いて振り返る間にも、次々と数が減った。鉄が鉄を打ち、肉が裂かれ、そして――

「死ね。おまえら、全員死ねよ」
 聞き覚えのある声が呪詛のように吐く。
 それに対する森の民の反応が、印象深かった。
「こやつ、まさか!」
「この手口!」
「あの時の奴ではないかっ」
「間違いない、赤い悪魔……!」

 絶望と怨嗟の言葉に被せるように、一頭の馬が最期の嘶きを上げる。
 唐突に理解した。
 赤い髪が厭われる原因こそが、エザレイその人なのか――



エザレイは、敵ではなかった。
敵ではないが、だからと言って、正常でも、ない。

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