3. d.
2026 / 01 / 06 ( Tue )
「台所に立つなら白い服はやめたほうがいいんじゃねえの」
 指摘されて、シェリーはまくり上げた己の袖を見やった。確かに。油のシミがついたら悲しいし、かっこ悪い。
「明るい色じゃないのあったかなあ」
 というより明るい色の服ばかり所持しているので、荷に詰め込んだトップスはだいたいクリームやらピンクやらの色合いである。

「それくらい貸してやるよ」言うなり、リクターは自室に消えていった。一分としない内にまた出てきた。「探せばエプロンもどっかにある気はするけど、今日のところはこれで我慢してくれな」
 やがて渡された黒い長袖のシャツを、シェリーは受け取って、見つめた。これを着るために取るべき行動を検討する。

 ガスコンロには塩を加えた水で満たした鍋が置いてある、つまり火が点いているのだ。いまわざわざトイレまで行きたい気分ではない。セーターの下にTシャツを着ているのだから、上を脱いで取り替えるくらいなら。

「ここで着替えても?」
「ダメって言うとでも思ってんのか。勝手にしろって」
 思いっきり変な顔をされたので、慌てて首を振る。

 余計な時間を取る方が恥ずかしい。背を向け、シェリーはなるべく素早くセーターを脱ぎ捨て、代わりに貸してもらったシャツを覆い被さった。サイズが違うので肩周りがぶかぶかである。どこかのバンドのロゴと思しきぐにゃぐにゃの文字がプリントされていた。長すぎる袖は肘までまくり上げた。
 現在、室内の空調はそこまで高い温度に設置されていない。セーターよりは肌寒いはずなのに、首から熱が上がってくる。背後から視線を感じるのは、気のせいではないはずだ。

 いたたまれなくなり、沸騰寸前の鍋の水を眺めることにした。それもすぐに沸騰してしまったので、あらかじめ手元に置いてあったエルボーマカロニの箱から、大人二人が食べるには十分な量のを湯に落とした。茹でる時間はアルデンテなら七分と箱に書いてある。
 ぐつぐつと湯がマカロニを躍らせる。

「あの、今まで聞けてなかったけど、お仕事何してるの」
 耐えかねて問いを口にしたその直後、後ろから、こぽぽ、と水の注がれる音がした。次いで、飲み込む音。
「週刊紙。の、雑用。一番多いのが、取材についてって荷物持ち、機材とか持たされるな。昨日もそうだった。あと社長の頼みでたまに写真撮ってる」

「へえ! すごいね」
 純粋に感心して振り返った。正直のところ、何と答えてくるのか見当も付かなかった――違法の金儲けをしているとも怪しんだ――シェリーには意外な真実だった。どの新聞だろうか、教えてくれるだろうか。
「すごくねえって、マイナーだし下っ端も下っ端だ。偶然の連鎖で就いたみたいなもん。そも、おまえの方が高給取りじゃねえの。パラリーガル? だったか」

 パラリーガルとは法律事務所で弁護士を補助する、資格持ちのいわば高度なアシスタントである。弁護士を目指す者がこういう形で経験と知識を積み重ねるのはよくある話だった。
「高給はないよ、私だって下っ端だよ」
「前提条件として教育にかけた年月、学歴が違うから、同じ『下っ端』にも天地の差があるっつー話」

「学歴かあ」
 胸中に黒い粒みたいな感情が芽生えた。己の力で望んで手に入れた学歴ではないからだ。けれどそれがまぎれもなく自分が歩んだ道筋で、結局自分にはこれしかないのかもしれないと思うと、窮屈な人生に苛立つ資格すらないのだと、消極的な気持ちになる。
 けれど彼は。昔から、私と違って、この人は。

「あのね、怒らないで聞いてほしいの」
「なんつー前置きだよ」
 いいから言え、とリクターは手を振って続きを煽った。




ローカル週刊紙とか、もはや絶滅してますよねぇ。

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