3. c.
2026 / 01 / 03 ( Sat )
「十一年生(ジュニア)の時に付き合った女」
 距離が近づいた瞬間、タバコの匂いがした。外で吸ってきたばかりなのだろうか。寝ている間もずっとまとわりついてくる香りの唐突な濃度に、心がざわついた。
 いや、それよりも、今の発言は聞き捨てならなかった。
「このひと、彼女さんだったの」
「三ヶ月で別れたけどな」

 本人は僅かに懐かしがって終わったようだが、シェリーはそうと聞いてそわそわした。
 数か月の仲とはいえ、こういう女性がタイプなのだろうか。滑らかそうな真っすぐな長い金髪に明るい青目をした、スレンダー体形の小顔美人。服飾店の前のマネキンと並んでお茶目なポーズを取っている。頭身が高く、モデルだって務められそうだった。どちらかというと平均女性より背が低くて丸い(顔も肉付きも)寄りのシェリーには羨ましい容姿である。

「今は、特別な人いないの」
 一拍置いて、ここぞとばかりに訊ねてみた。
 こんな踏み込んだ質問、はぐらかされても仕方ないと思ってダメ元で訊いたのに、あっさりと返答があった。
「いない。めんどくせえだろ、『恋人』って。金かかるし。特に付き合いはじめ前後の、あの腹の探り合いが面倒」

「は、腹のさぐりあい」
 交際経験がないシェリーには想像がつかない。
 リクターは大きく欠伸をした。
「何やってたんだ。掃除?」
「ちょっとね。お世話になってるから、これくらいはね」

「その服でか」
「え?」
 服がどうしたのかと視線を落とす。上は白い毛網みのセーター、下は母の趣味で買わされたロングスカートを履いていた。スカートは淡い色を並べた柔らかい生地のもので、洗濯機ではなく手洗い推奨のやや不便な一着である。見た目がどうというより、丸めるように畳むと場所を取らないので、その理由で選んで荷物に含めていた。改めて考えると、裾がくるぶしまで長い上にフリルが多くて家事をするには向かない。

 ところがこれには愛着もないので、汚れても悲しくない。シェリーはなんといえばいいかわからず、肩をすくめてみせた。
「そうだ、パスタみつけたから茹でようと思うの。いいかな」
「いいけどたぶんソース系ねえぞ。買ってくるか」
「オリーブオイルさえあれば形になるよ」
 あの黒い瓶、と彼はキッチンカウンターの端に向かって指を差した。

「ニンニクとかパセリは? 乾燥ものでもいいよ」
「上のキャビネット、左側」
 示された場所を確認してみると、ガーリックソルト、乾燥パセリ、そしてチリフレークもあった。加えて、さっきシェリーは冷蔵庫の中に賞味期限がひと月ほど過ぎたパルメザンチーズを見つけていた。

「これだけあれば大丈夫そう」
「そ。じゃあオレはシャワー浴びて寝る。晩飯前には起きるから」
「お疲れ様」
 また仕事のことを聞きそびれた――去る背中を見つめながら、シェリーは胸に巣くっていた漠然とした不安とモヤモヤが晴れゆくのを感じた。



 目覚まし時計などの音はしなかったのに、宣言通りにリクターは午後五時半には起きていた。寝足りないのではと問うと、こんな半端なタイミングで二時間以上寝る方がまずい、と彼は答える。
 通常結われている茶髪は無造作に肩の上まで流れ、しかも寝ぐせだらけだった。男は上下一式の着心地よさそうな紺色のスウェット姿で、眼鏡をかけ、またもや欠伸をする。そしてキッチンに入り、キャビネットからコップを取り出し、フィルター付きウォーターピッチャーの水をコップに注ぎながら、顎辺りを掻いている。

 異性と過ごす時間が極めて少なかった人生だったため、シェリーがそれが生えてきた髭を煩わしがる仕草だと気付いたのは、数秒遅れてのことだった。
 リクターは口元にコップを当てた状態で「なあ」とくぐもった言葉を発した。

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