3. b.
2026 / 01 / 01 ( Thu )
(触ればわかる、か)
 ――わからない。そもそも自分は、恋と呼ばれるものを求めていたつもりはない。
 けれど食べ物を共有したことにも、触られたことにも、嫌悪感を抱かなかったのは確かだった。
 単に少女の頃の感覚の延長線上にいるだけな気もする。異性を知らない分、気持ち悪がっている余地もないというか、彼を異性と捉えているのかすら定かではないというか。

(うーん、雑念。よし、これ以上は考えるのはやめよう)
 着替えも終わり、髪を団子にまとめあげて、午前中シェリーはまずはトイレ掃除に勤しんだ。掃除道具はシンクの下という、わかりやすい位置に揃えてあった。
 昨夜はここで吐いてしまったという負い目があったからこそのチョイスだ。幸いなことに目に見えて便器に跡は残っていなかったが、それでも念入りに洗剤をかけてブラシで擦った。この廊下のトイレはおそらく客用だ。普段はそんなに使われていないのかもしれない、隅っこには蜘蛛の巣ができていた。

 昼過ぎになると、少しお腹が減った気がしなくもないので、勧められていた通りにシリアルをほんの少し食べた。シリアルは浮き輪の形をしたプレーンなものである。
 牛乳を出した際、冷蔵庫の空っぽさに驚いた。リクターがコーヒーは手間をかけて淹れるのに食には手間をかけないのがどうにも不思議だった。
 食べ終わってボウルも洗い終わると、他に何があるのか気になって、一応キャビネットを一通り見て回った。インスタントマッシュドポテトやパスタの箱がいくつか置いてあった。

(これは晩御飯に使えそう)
 食欲が無い時こその炭水化物である。少なくともチリドッグよりは、胃におとなしく収まりそうだった。
 暖房や冷蔵庫が発する機械音のせいだろうか、気が付けばぼーっと立っていた。今何時くらいだろうか。くるりと振り返ると同時に、人の居ない空間を見渡す。
 暗い考えが脳裏から這い上がってきた。

 ――このまま帰って来なかったら。
 母も、自分が一緒にいなかった間に亡くなった。再びすべてを失う恐怖が心臓を鷲掴みにした。
 違う――!
 根拠なしに最悪を想像しても仕方がない。

 身体の動きを止めたら沼に沈む。シェリーは己を奮い立たせて掃除を再開した。
 単調な動作を繰り返してキッチンカウンターを拭き、床にほうきをかけた。自分ひとりでアパートの闇に佇んでいた頃と比べて何かをしたいモチベーションを保ちやすいのは、誰かがここに帰って来てくれると信じるからだ。

 いつしかリビングの本棚の埃を拭いていたら、上の小さな段ボール箱に目が行った。
 なぜその箱が気になったのかはわからない。茶色で無地のただの箱だった。シェリーはつま先立ちに背伸びをして箱を取り下ろす。
 蓋が引っかかって、開けるのに苦戦した。弾みで飛び散った埃を吸い込み、咳が出た。
 咳がおさまるのを待ってから、箱の中身を確認した。

(写真? しかもこの上に束になってるのってポラロイド?)
 決して詳しくはないが、確かポラロイドはフィルムの値段が張るはずだった。これはご家族が撮ったものなのか、或いは――
 鍵が回る音と玄関扉が開く音がして、シェリーは写真の束からハッと顔を上げた。
 出た時と比べていくらか疲れの色を表した長身の男が、入口のところでブーツを脱いでいる。

「おかえり。無事だったんだね、よかった」
 安堵に笑って迎えると、リクターは首を傾げたようだった。仕事の呼び出しで出かけただけで、無事を危ぶまれるのに違和感をおぼえたのかもしれない。
「おまえこそもう元気そうだな」
「うん。心配してくれたの?」

「しないほうがよかったか」
「そんなわけない。ありがとう」
 頭をぶんぶんと振った拍子に、写真の束が崩れて箱から何枚から落ちた。慌てて拾い集める。
 荷物を床に置いた家主が、写真を覗き込んであっと小さく声を上げた。

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