15.c.
2012 / 08 / 26 ( Sun )
「神話ですか……。今でこそヴィールヴ=ハイス教団が大陸の唯一の宗教集団と広く認識されていますが、その昔はもっと様々な信仰があったそうですよ。それぞれの団体が崇拝する神の名の下、大勢の人々が争い合うほどに」
 口元にかすかな笑みを浮かべて、ミスリアがそう語った。多少は気が紛れているらしい。

「ところが百年前にとある人物によって統一されて――」
「すみません」
 ふいに戸がノックされ、話はそこで切り上げられた。

「お夕飯できましたので良かったらどうぞお召し上がりください」
 言われてみれば、何かの煮物の濃厚な香りがここまで届いている。
「有難うございます。今行きますね」
 そうして赤毛の少女が誘うままに、ゲズゥとミスリアはダイニングルームへ向かった。

_______

 階段を降りる途中で、ミスリアは思わず立ち止まった。
 さっきからずっと胸の奥がざわついている気がしてならない。

「何だ」
 背後から聴こえてきた低い声は普段よりもいくらか低くなっている。流石、気付くのが早い。
「魔物って神出鬼没で一見何もないところから構築されるだけあって、気配を前もって察知するのは難しいんです」
「……いるのか」
 ゲズゥはその前振りからミスリアの言いたいことを読み取った。

「わかりません。でも胸騒ぎがします」
 ミスリアは服の下のアミュレットを知らず握り締めていた。
「おそらくこの集落に魔物狩り師はいない」
 淡々と告げる彼を、弾かれたように振り返る。前髪に隠れていない方の黒い瞳と目が合った。

 どうしてそんなことがわかるんですか? と訊ねようとして、結局その言葉は飲み込んだ。広場の中心に居たミスリアには人間観察をする余裕は無かった。しかしゲズゥが歩き回っていたのは知っている。

 魔物狩り師というのはぱっと見ただけですぐにそれとわかる。彼らは常に武器を持ち歩き、特に夜が近付くと獣のように鋭い目線で周囲を巡回する。いつどこに現れるか知れない化け物が相手である以上、そうしなければ遅れをとるからだ。その反面、道行く普通の人間には見向きもしない。

 見れば、ゲズゥも部屋では下ろしていたはずの剣をいつの間にか再び背負い、腰に短剣を携帯している。

(準備がよくて守られる身としては頼もしいけど、敵に回したらどうなるかなんて、それは考えない方がいいかな……)
 背筋が冷たい手で撫でられたような錯覚を覚え、頭を横に振った。
(そんなことより魔物狩り師がいないとなると……この集落に結界は張られてないし、今までどうやって魔物を退けていたというの)
 黙々とそんなことを考えながら、食事の席に辿り着いた。

 ちょうど長老の次男夫婦が帰ってきていた。二人とも日に焼けて泥に汚れている。彼らは先ほどは広場に居なかったのか、ミスリアにとっては見知らぬ顔だ。俗に言う濃い顔立ちではあるけど、娘と同じくはにかむ時に笑窪が出来て、とても好感を持てる。三人揃って、瞳が空のように青い。
 互いに軽い挨拶を交わした。ミスリアらの事情なら誰かから伝え聞いたというらしく、詳しい説明は省けた。

「お父さん、お母さん、お疲れ様です」
 長老の孫娘が微笑みながらコップに水を注ぎ、それを両親にそれぞれ差し出す。
「ありがとう、ツェレネ。助かるわぁ」
 二人はコップを受け取って一気に飲み干した。

「私だって畑仕事くらい手伝うのに」
「何言ってるんだ。お前は町の学校に行くんだろーが、できるだけ勉強してた方がいい」
「……うん。そうだね!」
 短いやり取りを娘と交わした後、二人は着替えに行った。

「さあ! 遠慮なくお召し上がりください。お父さんたちを待たなくていいですからね!」
 ツェレネと呼ばれた少女はくるりと振り返った。真っ直ぐな赤い髪がふわっと広がり、ついつい見取れてしまう。
「ではお言葉に甘えて」
 ミスリアは椅子を引いて座った。
 四角いテーブルに並べられたご馳走が食欲をそそる。パンとチーズ、野菜炒めに鶏肉の煮物。これなら旅の道中に食べていた保存食の味を忘れられそうだ。

「あ、あの……スディル、さん? どうぞ席へ」
 ダイニングルームの片隅に立つゲズゥへ、ツェレネが声をかける。ミスリアと一緒に降りてきたはいいが、食事の席に着く気配がまったく無い。
 ちなみに身元が集落の人間に知られると面倒そうだからと、ゲズゥのことは苗字だけで紹介しておいた。
「一人分残しておけば彼は後でいただくと思いますから、今はお気になさらないでください」
 微笑みながらミスリアが代わりに答えた。ゲズゥが他人と一緒に座って食事を摂りたがらないのにいつの間にか慣れてしまっていたので、他の人がそれをおかしいと思うだろうことを失念していた。

「そうですか……?」
「ところでツェレネさん、町の学校に行かれるんですか?」
 やたら残念そうな眼差しをした少女に、ミスリアは違う話を振ってみた。すぐに彼女は我に返り、ミスリアの皿を盛り始める。
「おかしいですよね、いい歳して」

「え? そんなことありませんよ――――と、野菜はそのくらいで十分です、有難うございます」
 ミスリアは食べ物の盛られた皿を受け取った。
「まだその資金が貯まってないんです、あとちょっとってところで。私、先生になってここで学校を開くのが夢なんですよ」
 ツェレネはぱあっと顔を輝かせた。

「十年前くらい前でしょうか、とある旅の研究者様がここの集落にしばらく留まって下さって、字の読み書きや歴史など色々教えてもらったんです。書物も一杯いただいたんですよ! 私もああいう風になりたくて」
「素敵な夢ですね。きっと叶います」
「有難うございます、聖女様! あ、何かいらないご本とかあったら……」
「祈祷書しか持っていませんけど、それで良ければ差し上げましょうか?」

「いいんですか!?」
 両手を合わせて喜ぶ少女を前に、ダメと言うわけが無い。
「はい。私は中身はもう暗記していますので」
 ミスリアは懐から小さな本を取り出し、それをツェレネに渡した。何年か前に暗記してあるものを、形だけ持ち歩いていたのである。

(祈祷書でそこまで喜べるなんて凄いわ……)
 ご飯そっちのけでページを捲っている様子が微笑ましい。
 隅のゲズゥへチラッと視線を巡らせてみたら、彼は腕を組んで目を閉じていた。無関心なのは間違いないが、寝てはいないのだろう。

 ミスリアはパンを千切り、口に運んだ。硬い外側と柔らかい内側の調和がいい。二口目には、煮物の汁を少しつけてから食べた。鶏肉の旨みが染み込んで、想像以上に美味しい。自分も家事はよくやる方だと思うが、彼女の料理の腕はもっと上かもしれない。
 着替え終わったツェレネの両親も戻ると、食卓は更に賑やかになった。食べきれないのに、ミスリアの皿はどんどん盛られていく。

「ツェレネ、お前ももっと食べなさい」
「え~、肉体労働してないのにあんまり食べたら太っちゃうよ」
「年頃の娘が何言ってるんだか。お母さんなんてアンタぐらいの歳じゃあ……」

 ミスリアは微笑んで見守っていた。
 互いを思いやる家族、そして夢見る娘とそれを応援する両親。幸せな家庭とはこういうものなのかな、としみじみ思う。
 確かに昔は自分の家もこうだったはずだけれど、すっかり忘れていた。

(お姉さま)
 唇をぎゅっと噛み締めたのを周りに見られないように、ミスリアは俯いた。
 視線を感じて顔を上げると、黒曜石を思わせる瞳がこちらをじっと見ている。揺らぐ蝋燭の炎が映っていて綺麗だなと思った。

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23:15:07 | 小説 | コメント(0) | page top↑
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