終 - f.
2017 / 12 / 01 ( Fri ) 「おい! この状況で眠れるか、普通。とんでもないな」
起き抜けに呆れた声が耳に入った。セリカは、寝ぼけ眼を瞬かせる。 「どうしたの?」 「どうしたのじゃない。馬の上で寝るな、危ない。何度言えばわかる」 初めて会った時と同様の風変わりな格好をしたエランが、責めるような目で振り返る。筒型の帽子やボタンの多い詰襟の黒いチュニック、半袖の羽織り物。ヌンディーク公国に多少は慣れてきた今だからこそわかる、この服装は特異なものだ。 聞けば、ルシャンフ領の先住民族から贈られたものだという。動きやすくて楽だからと彼は宮殿の外ではこちらを好んで着るらしい。 「だって眠くなるのよ……。いいじゃない、一応つかまってたでしょ」 手首を布で結び合わせるという、保険はかけてあった。セリカは馬の手綱を持ったエランの後ろに乗って、振り落されないようにその腰につかまっていた。 荷物はあまり多くない。後ろを走る荷馬車に必需品を積んである。二人で先行したいと言い出したのはエランで、その為に身を軽くした。 現在、馬は速歩(はやあし)で野を横切っていた。やや遅れて、タバンヌスも続いている。 エランは大げさにため息を吐いた。 「それより、もうすぐ着く。上を見てみろ」 「うえ?」 言われた通りに上空を振り仰ぐ。 時を同じくして、清々しい風が吹き抜けた。春が夏と出会うまでもう少しと言ったところの、暖かい風が袖口を撫でる。 呼吸を奪われた。そう感じるほどの絶景であった。 抜けるような青空を見上げたのは、いつぶりだっただろうか。遠くでは、絹を思わせる柔らかそうな白雲が並んでいる。 「空に落ちたら飲み込まれそう」 自分でも変な感想だと思う。深く息を吸い込んでみると、肺は優しい夏の香りに満たされていった。 「まだ驚くのは早い。下も見てみろ」 セリカは首を戻した。 若葉色の地平線が、群青を受け止める。大草原が視界を占領していった。 際限なく美しい眺めだ。奥に向かってなだらかな丘陵が展開しており、そこまですっきりと見渡せるほどに、平地が広々としている。 後ろを振り返っても同じだった。いつの間にか森が途切れていたのだ。まばらな常緑樹だけが残っている。 進行方向には木という木の姿はほとんどなく、あるのは草花と――白くて丸い人工物。てっぺんだけが尖っている。 「あの円柱、何?」 指を指すと、形は指の爪ほどの大きさもないように見えた。いかに遠くにあるかを実感する。 「移動式住居だ。ルシャンフ領の民は冬は山や谷の近くに定住するが、暖かい間は放牧しながら天幕に寝泊りする」 なるほど目を凝らしてみれば、住居の影に羊が見えた気がした。 「あたしたちも?」 「当然」 「遊牧民って排外的だって聞いたけど」 泊めてもらえるだろうか。近くで天幕を張ることすら嫌がられるのでは、との疑念を込めて指摘する。 「一概にそうとも言えない。まあ私は、受け入れてもらえるまでに色々とやらされたな」 そう言った青年の横顔には、領主の余裕みたいなものが感じられた。果たして領民はどんな人たちなのだろう。 「色々って何よ」 「それは後で話そう。酒でも入れないと、語る気になれない」 「えー。どんだけ恥ずかしい思い出なのよ」 エランは誤魔化すように笑って、取り合わない。馬の走行を調整しているようだ。 「駆けるぞ。ちゃんと掴まってろ」 「うん」 限界までに密着した。首筋と髪に顔を近付けると、もはや慣れつつある香油の匂いがした。夫の、とても安心する匂いだ。 のびやかな風が草花を揺らす。目の前で黄色い蝶が二匹、ひらひらと舞っていた。 掛け声と共に、エランが馬の腹を蹴った。 ――穏やかな昼下がりだった。 そんな世界を、息苦しいほどの速さで駆け抜ける。 景色が勢いよく通り過ぎていった。胸が高鳴る。この手応え、爽快、としか評せない。 ――ああ、ほんとうだ。あたしの知らなかった「自由」がある。 約束がひとつ果たされた。それゆえに、溢れんばかりの幸せに浸る。 これからいくつ約束を繋ぎ、そして果たしていくのか――楽しみだ。 咳き込んだ。空気の流れが速すぎて、肌から熱がさらわれている。余計なことを一切考えられなくなる。余計なことを取り除くと、後には鮮烈な想いが残った。 「エラン! ありがとう! すっごくたのしい!」 叫んだ。唾が少量、風に乗って消えていく。 「よかった! けど、まだこれからだ! セリカを楽しませるのは私の役目で歓びだ!」 わかっている。が、これ以上喋ったら舌を噛みそうだったので、相槌を打つのは断念した。 ――わかってる。あたしたちは二人でひとつの魂だから。 きっと二人でなら、悲しいこと辛いことは分かち合うことができて、そのぶん楽しい遊びは倍楽しくなること、間違いなしである。 面白そうだ。面白い人生に、これからなりそうだ――。 <了> ちょっとこれからホットヨガ行くのであとがきはまた後ほどにw |
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