五と六の合間 - b.
2017 / 05 / 30 ( Tue ) いつもならこの近辺を巡回しているはずの衛兵の姿を、今夜は未だに見ていない。道中にすれ違うこともなければ、水を汲んでいる間に彼らが通り過ぎることもなかった。 昨夜魔物が入り込んだ件に続いて、このざまとは――宮殿の警備はいつからこうも程度が低くなったのか。二日連続で衛兵隊長を責め立てなければならないらしい。エランは眉間に指を当てた。暗殺者の一人や二人、侵入を許してしまいそうである。 それはあまりに真に迫っていて、笑えない妄想だった。首謀者が外敵である必要もない。日頃から公宮に出入りする人間は多く、中には良からぬ企みを秘めた輩とて少なからずいるはずだ。 吟味すべき問題は、そんな陰謀渦巻く宮中での自らの身の振り方である。 (たとえ父上が殺されたとして……私はどんな感情を覚えるだろうな) それすらも未知であった。 そろそろ不吉な想像は止めて、戻った方が良いだろう。井戸の縁に置いた水瓶に向けて手を伸ばす。 まさに取っ手に触れるか触れないかの段階で、全身を静止させた。 ――背後に気配がする。 考えるより先に腰の得物を抜き放って身体を反転させた。愛用のナイフの切っ先を、人影に向けて突き出す。 衛兵がやっと来たのかもしれないが、そうとも限らない。他の危険な可能性が存在する以上、口よりも刃で誰何した方が得策だ。 微かに漂う香(こう)の印象からして高貴な衣服を身に着けていると考えられた。つまり、決して身分の低くない者。 だがこちらからは声をかけてやらない。 ほどなくして、相手が一歩踏みにじってきた。井戸の傍に立ててある燭台の光により、全容が薄っすらと浮かび上がる。 「驚かせて悪かったよ。物騒なペシュカブズをしまってくれないかい、エラン」 降参の意を表しているつもりか、長身痩躯の男は両手を広げて肩を竦めてみせた。 「……夜に一人で敷地内を歩き回るとは、らしくないですね。もしや寝床を共にしてくださる女性が集(つど)わなかったのですか? アスト兄上」 警戒を一切解かずに目を細める。 相対する不審者は、兄弟の中でエランがひときわ嫌悪している男だ。奴は後頭部でひとまとめにしている黒髪を揺らして、わざとらしく笑った。 「ふふ、お前は相変わらず面白いね。そうじゃないよ。今夜はどうも父上が心配で心配で何も手が付かなくてね、気晴らしに散歩をしているわけだ」 誰が見ても最高と評さざるをえない美貌が、偽りの感情を映し出している。 エランは動かなかった。 「いい加減、ナイフを下ろしてくれよ。落ち着いて話もできやしない」 「私は兄上と話がしたいとは一言も申しておりませんが」 「ねえ、エランは興味ないのかい、父上の生死に」 冷たくあしらったところで引き下がる愚兄ではなかった。また一歩、距離が縮められた。 「興味ないはずがありません」 ――癇に障る。 アストファンに敵意が無いにしろ、こうして詰め寄られるのも、ねっとりとした視線に絡まれるのも。 そんな訴えを込めて、手首を一転させ、ペシュカブズを逆手に持ち替えた。突く攻撃に特化した刃物だが、切る働きにおいても優れた代物なのである。 第二公子が瞬きをして視線を落とした。 同時に、纏っていた空気が一変したのを感じ取る。 「無関係を装っていられるのは今の内だけだよ、エランディーク。もしも父上が太子を立てる間も無くご逝去されようものなら……その皺寄せはまずお前に来るのだから」 「なりません。そんな事態には」 固く否定した。 アストファンが指摘した通り、諸々あってヌンディーク大公はまだ公式に太子を立てていない。それは周知の事実である。 頭の奥では警鐘が鳴っていた。周知の事実を、敢えてこの男が口にする理由とは――。 考え込んだのが隙となった。 目で捉えるよりも早く。肌がざわついた。 刹那、甲高い衝突音が響く。 エランは振り上げられた斬撃を受け流す傍ら、水瓶が地に倒れるのを見た。割れこそしなかったが、苦労して溜めた水が派手に零れていくさまには、腹を立てずにいられない。 「なんてことしてくれるんですか。もったいない!」 「あはは! 一国の公子が、細かいことを気にしすぎじゃないかい」 |
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