三 - f.
2017 / 03 / 24 ( Fri ) 行き方は憶えていなかったが、数歩後ろを無音で歩くタバンヌスが時折「ここは右です」「階段を上がってください」とヒントをくれるので、難なく自室に到着できた。しかも運良く誰ともすれ違わずに。 部屋の入り口で、送り届けてくれた男性と会釈を交わす。「主に代わってご挨拶いたします。『良い夜を』」 「……ありがとう。『あなたも』って、伝えてくださるかしら」 「謹んでお断りいたします。では」 瞬間、射るような鋭さで見下ろされた。思わず身構えたが、何をするでもなく長身の男は廊下の陰に溶けて消えた。 (さすがはあいつの従者って感じ……) 不遜と捉えられかねない物言いと行動だ。こちらが訴えれば罰せられるかもしれないと言うのに、そうならないとわかっていたのか、それとも罰せられても構わないような心構えであったのか。 セリカは寝室の中に入り、後ろ手に戸を閉めた。暗闇の中に、溜め息を吐き出す。 階段でのひと悶着を、タバンヌスは聞いていたのかもしれない。主人に害を成す存在とみなされたのだろうか。だとしたら残念でならない。 セリカの部屋と繋がる奥の部屋から物音がした。それは一気に近付いてきて、引き戸へのノックとして収束した。 「入っていいわよ」と声をかけると、寝間着姿のバルバティアが蝋燭を持って転がり込んできた。きっと寝付けずに待っていてくれたのだろう。 「姫さま、おかえりなさい! ご無事でしたか。何も変なことはされませんでしたか!?」 興奮を隠さずにバルバがまくし立てる。 「大丈夫よ、何もされてないわ」 そう、変なことは何ひとつされていない。むしろ、親切に笛を貸してもらったり吹き方を教えてもらったりしていた。何かしでかしたのは自分の方だ――思い出すと、鼻の奥がツンと痛む。 「本当に……?」 重ねて訊かれても、セリカは心中を気取られないように無言で頭を振った。今喋ろうとすれば声が震えそうだ。察しの良い侍女は、その所作だけでどうすべきかを判断した。 「では姫さま、着替えはご自分でできますね。わたしは、気分が落ち着くような温かいお茶を淹れてお持ちします。お疲れ様です」 頷きで同意を伝えると、バルバは満足そうに微笑んで、手持ちの蝋燭を壁の燭台にさした。 静かに引き戸が閉まる。 ひとりになった途端、堰を切ったように色々な感情が溢れだした。セリカは重苦しいカーネリアンとガーネットの首飾りを乱暴に外し、衣服を次々と脱ぎ始めた。 あんなに苦労して巻き付けた被り物はあっさりと剥がれ落ち、幾重に重ねたスカートもズボンも、呆気なく床に脱ぎ捨てられる。 先ほどまで身に着けていた煌びやかな布の山を寝台横に蹴ってどかせて、セリカは下着姿でベッドに倒れ込んだ。 滲み出る涙を何度か手の甲で擦る。ところがどんなに堪えても、ぽろぽろと溢れ出して止まらない。 このままでは崩れた化粧が枕を汚してしまう。のっそりと起き上がり、乱れた髪を指先で梳きながら、顔を拭えるものを探した。 (泣いちゃだめだ) そんな資格が無いのだから。 (傷付いたのは、あたしじゃない) 故郷を発って数十日、やっと目的地に着いたのが今日。多くの出来事があったと言うのに、ふと目を瞑ると、一番にあの表情と瞳が瞼の裏にチラつく。 胸が張り裂けそうに痛かった。 _______ 夜も更け、都中が静まり返ってしばらく経った頃。 セリカラーサ・エイラクスは開け放った窓の枠に両腕と顎をのせていた。 宮殿内はすっかり静まり返っている。巡回する衛兵の姿もまばらになり、虫の鳴き声を除けばほとんど生き物の気配がしなくなっていた。 (眠れない……) 始めこそはバルバが淹れてくれた茶が効いてぐっすり寝れたものだが、二時間が過ぎた頃に目が覚めてしまったのである。しかも寝覚めがすっきりとしていて何やら元気だ。 ひとたび覚醒してしまえば、意識はたちまち憂いに支配された。違うことを考えようとしても、本を読もうとしても、無駄な足掻きであった。 早く謝らねば――という焦りだけがどんどん膨らんでゆく。 いざまた会えた時を想定して、謝罪の場面を練習してみたりもした。すぐに居たたまれなくなって、止める。 (それ以前に、修復不可能じゃないかしら) あれほど怒らせたのだから、式当日までもう会ってもらえなくても不思議ではない。 |
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