66.d.
2017 / 01 / 01 ( Sun )
久しぶりに拝む太陽は、ひどく眩しかった。季節感など一切無い地下牢で過ごしてきただけに、夏の気温には凄まじいものを感じる。
 ぐらりと眩暈がして、ミスリア・ノイラートは道端にあった木箱の上に座り込んだ。

「大丈夫?」
「暑いですね」
 迎えに来てくれた友人に向かって弱々しく笑う。傍に居るのは彼だけだ。
 出所の日程と手続きは秘密裏に処理したものだから、外部から聞きつけた人間は誰もいない。三年も経てば世間も「世界を救った聖女」の行方に興味を失うのだろう。その代わりに、大聖女も地に還っただとか天に昇華しただとか聖獣が恋しくなって極北の地まで後を追いに行っただとか、おかしな噂だけが飛び交っているのだとカイルは教えてくれた。

「これでも三年前よりはずっと涼しいんだよ」
 カイルはそう言ってハンカチで顔の汗を拭った。おいで、と彼はミスリアの手を取り、建物の影の方へと誘導してくれた。
「目、慣れそう?」
「まだしばらくは眩しいかと。光だけじゃなくて、音も……世界ってこんなに色んな音がしてたものなのかと、再発見してます」

 通り過ぎる馬車の音、露店で値切り合う人々の声。頭上を通り過ぎる鳥の鳴き声、子供たちが走り回る足音、洗濯物を干しながら歌う女性の声も、全てが頭の中で大きく響いている。
 地下牢では自分と看守のが作る音以外には、鼠の鳴き声くらいしか聴いていなかった。
 それに匂いだ。漂う重厚な匂いが何なのかは特定できないけれど、空腹感を刺激するものには間違いない。ぐうっとお腹が悲痛な音を出す。

「引き留めてごめん、すぐに終わるから。その後に一杯美味しいもの食べてね」
 友人は爽やかに笑った。三年ぶりともなると、懐かしいとさえ感じる笑顔だ。そして、また見れて嬉しい。
「い、いいえ。お忙しいのに、私の為にわざわざ来て下さってありがとうございます」
「これをどうしても手渡したくて」
 懐の中から、カイルがネックレスのようなものを取り出した。

「それは……」
 続く言葉を紡げなかった。
 しゃりん、とカイルの掌から大きな影が流れる。チェーンから転がり落ちるようにして垂れた形は、聖獣信仰を象徴するもの。銀細工に、二つの水晶を取り付けたもの。
 元々二つ持っていた銀細工のペンダントは、小さい方は旅の道中でいつの間にか紛失してしまい、そして水晶の施された大きい方は聖獣に取り込まれた時に、失われた。その後教団に帰還して、新たに賜った――水晶も、新しくいただいた『鱗』を使って。

「君はもう教団に属する聖女ではなくなったけど、本質は今でも聖女だよ。役職を返上しても聖気が全く扱えなくなるわけでもない。君にはこれが必要だって、教団と掛け合ってきた」
 ありがとう、とカイルを見上げて唇でなぞった。受け取ったアミュレットの重みと僅かな温かさが、心の中で忘れていた感情を引き出した。胸元に、大切に握り締める。

「……やっぱり、私には必要ですね。牢の中には魔物の前兆が数多く視えました。視えても浄化できなくて……」
 体内の聖気を一度根こそぎ失ったミスリアは、以前と違ってアミュレット無しでは聖気を扱うことができなくなっていた。刑務所の残留思念とは語り合うことしかできず、彼らを送ることはできなかったのがずっと悔しかったのだ。
「自由の身になれて、おめでとう、ミスリア」
「はい」
 アミュレットを首にかけて、ゆっくり立ち上がる。ふらつきそうになると、カイルがそっと肘を支えてくれた。

「僕からの用事はこれだけだよ」――彼はポケットウォッチを取り出して時刻を確認する――「ちょっとこの後も予定が入っててね。晩御飯なら、一緒できそう」
「はい! 楽しみにしてます」
 カイルは目を細めて笑った。
 そして何故かわざとらしく、何かを気にするようにちらちらと肩から振り返る。

「待ち人は角の方に居るよ。早く行ってあげて」
「――!」
 パッと心の中に広がった悦びに、頬は緩み、声は出なかった。対するカイルは微笑ましそうなものを見る顔になった。
「じゃあ、また後で」
 手を振り合って、別れる。既にミスリアは小走りになっていた。

 とはいえ独房生活が長すぎた。走る為の筋肉は衰え、何度も情けなく転びそうになる。逸る気持ちをなんとか抑え、建物脇の樽などを支えにして、少しずつ確実に歩を進める。
(どうしてこの角に?)
 すぐに疑問は解決された。
 井戸から汲んだ水を、頭から豪快に被っている青年の姿がそこにはあった。

 本物だ、と直感するまでに大して時間は要らなかった。
 速まる心臓の音が耳の中で響いている。その場に縫い付けられて、動けない。
 地面に流れ落ちた水が一筋、するするとミスリアの足元まで伸びる。
 青年が顔を上げた。次いで、目が合った。

 深い黒をたたえた右目と、白地に金色の斑点が散らばる左眼。
 何も無い闇の中でも、忘れられずに焦がれた――幾度となくミスリアの胸の内を掻き乱した眼差しがすぐそこにあった。
 青年が目にも止まらぬ速さで動いた。

「ストーップ、兄さん! 濡れたままじゃ可哀想でしょ! 拭いて! ほら!」
 間に大きな布がバッサリと入る。
 派手に光沢を放つ服を纏った人物の後ろ姿を認めて、ミスリアは嬉々としてその名を呼んだ。
「リーデンさん!」
「や、久しぶり」
 くるりと振り返った青年は、記憶の中の像を楽々と飛び超えるほどの美貌だった。三年の間に色気に磨きがかかって、同時に男性としての凛々しさも濃くなっている。何より、サラサラの銀髪の襟足が大分減っていたり、短くなっているのが印象的だ。

「髪切ったんですね。すごく似合ってます」
「そうでしょー? 君は髪、伸びたねぇ」
「早く切ってしまいたいです」
「その長さも似合ってるよ」
 リーデンは何気なく、栗色の髪を幾筋か手に取って撫でた。気恥ずかしいけれど、そういえば彼はこういう人だった、と思うと嬉しくなった。

「そうそう、外に出たら、最初に何がしたいとかある」
「お風呂……お風呂に、ハイリタイ……です」
 うじゃうじゃと伸びてしまった髪なんて、汗や泥が固まっていて変な臭いまで発している。唐突にそれを思い出し、リーデンからサッと距離を取った。つい井戸の方へと目が行った。そのまま飛び込みたいくらいに、お風呂が恋しかった。

「あははは、他には?」
「温かくて柔らかいご飯をお腹一杯食べて、広い野原で散歩して、それから――」
 指折り数えている最中に、地面から足が離れた。
「きゃっ!?」
 強烈な抱擁に捕えられている。うなじ辺りに、吐息を感じた。

「汚いってさっきから言ってるのに――! 放してください! ゲズゥ!」
「お前は抱き着くつもりじゃなかったのか」
「そ、そうでしたけども! 改めて考えてみると汚いんです!」
 彼はこちらの抗議など聴こえていないように、抱き締める力をまるで緩めない。苦しい。けど、気持ちいい。

 心臓が口から飛び出しそうだ。
 極め付けには、いつか法廷でしてくれたように耳に口を寄せて「あいしてる」と低い声が伝えた。
 あの時は、三年も会えないという悲しい気持ちに後押しされて「わたしもです」と言えたのだが。こうしていると、気恥ずかしさが爆発する。ついでに、すぐ近くでニヤニヤ笑っている絶世の美青年の視線も気になる。

 けれども、やはり心地良いのである。地に下ろされた頃には怒気はすっかり消え失せていた。
 また目が合った。今度は、迷わずに笑いかける。

「生きてくれてありがとうございます。逢いたかった、です」
 すると、「知ってる」との笑顔が返った。
 頬をなぞる大きな手は、記憶の中よりも冷たい。黒い髪も伸びていて、肌の色素もこころなしか薄くなっている。
 互いに痩せ細ってしまったものだ。でも、また巡り逢えた。それだけで、涙が溢れるほどに嬉しかった。

「貴方は変わりませんね」
「お前は少し大人びたな」
 しばし、体温を確かめ合うような口付けを交わした。
 拍手の音で、我に返る。それをしていた当人、絶世の美青年は、妖しげな微笑みを浮かべていた。

「とりあえずそうだねー、思い付く限りのやりたいことをやり尽くしたら、結婚でもしたら」
「けっ……!?」
 何てことを言い出すのか、とミスリアは仰天した。
「だってさー、もう聖女さんって呼べないんだし。だから今度は姉さんって呼ばせてよ」
「なるほど」
 と、あろうことかゲズゥは納得したような顔をしている。

「からかわないでください!」
「僕はいつだって大真面目だよー?」
 いけない、肩で息をしていたら、またふらりと眩暈がしてきた。倒れようにもガッシリと腰を抱える腕があるので、その点は平気だった。
 はあ、とミスリアは呆れてため息を吐く。次に、深呼吸した。

(――結婚、か。それって、ずっと一緒にいようって家族と神々の前で誓うってこと……)
 落ち着いてちゃんと想像してみると、そこに抵抗感は全くなかった。
 同年代の友達が己の結婚式や花嫁姿について夢を語っていた頃、ミスリアはただ聖女としての使命のみを想って生きていた。
 けれど、今は。隔てるものが何も無い。

 身分や立場も、運命も、迫り来る命の危険も。独房の壁だって、取り除かれている。真実、自分たちは好きなように生きられるようになった。
 カイルに言った通り、自分の望みは――
 それを語るべき相手を見上げる。
 じっと見返してくる左右非対称の瞳は静かだった。密かに、勇気をもらった。

「私は前に、離れるのが怖いからと、貴方を突き放そうとしました。でももうそんなことは考えません。死に別れる時は明日かもしれないし、もっと遠い未来かもしれない。それでも最後の瞬間まで一緒に居てくれませんか」
 ゲズゥは二度、瞬いてから答えた。
「引き受けた」
 ふわりとまたその腕に包まれる。先ほどよりも優しくて、温かい抱擁に。

「当然だ。お前の帰る場所は、俺の傍にしかない」
「はい。これからもよろしくお願いします、ゲズゥ・スディル氏」
 ミスリアは抱き締め返す腕に力を込めた。いつまでもそうしていたかった。
 ふと目を閉じると。
 幸せになってね、と言ってくれた姉の声が脳裏を過ぎった。

 ――お姉さま。どこかで見ていますか。貴女の代わりに私たちが、やりましたよ。そして今は貴女が望んだ通り、私は、幸せです――

_______

 かつて、青年と少女は旅に出た。
 世界を救った旅だった。
 やがてその旅も終息すると――罪人と聖女であった青年と少女は只人となって、人知れず彼らの物語の続きを紡ぐのであった。

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