62.c.
2016 / 09 / 14 ( Wed ) 驚くべき速さでプリシェデスはいなくなっていた。 「――待って!」叫びは空しく、戸の無い出入り口の闇に吸い込まれるだけだ。できることならばもっと強気に出て「待ちなさい」ぐらいは言いたかったのに。懇願になってしまった。 闇に、静寂に、取り残されるのが嫌で。 数分の間、柄にもなく喚いた。 しかしどんなに騒いでも人影は現れず。人の気配は遠ざかったまま戻らない。 (いや、やめて、こんな……こんなところは嫌……!) 孤独が怖いだけならばその方がどんなに良かったか。 ――ォオオオオオ。 空気が唸る音に紛れて、声のような何かが耳に届くのである。 ウラメシイ。カゾクヲカエセ。 アノ女、喰イ破ッテシマイタイ。 イタイ。カエリタイ。イタイ。サムイ。 (お願いやめて、聞きたくない!) 実体を持つことを余儀なくされた亡霊の恨み節。幻聴などでは決してない。同じ建物の中で、魔物が暴れているのだ。彼らは生きた人間の耳に届くような言語を発せないが、聖女には、それらが断片的に伝わってしまうのである。 (人間は数時間も一人にされると発狂するそうだけど。真の意味で独りだった方が良かった……!) 発狂するだろうか。できるだろうか。目を閉じることはできても、両手は椅子の手摺りに縛られていて耳を覆うことはできない。 彼らの有り様は、明白な予感をもたらす。自分がこれからどうなるかへの悪い予感。 よからぬ想像の力を吸って肥大化する、不安の渦。 どこからか響く水音が、血の滴ではないかとわけもなく疑ってしまう。 それにしても魔物の悲鳴は真実このような感情をのせて響いているのか。自分が悪い方へ解釈しているだけとも言えよう。 シニタクナイ。 シネ。 シネしね死ね死ね死ねシネ死ねええええええええええ! ――…いで、こっちに、おいで。あなたも、いっしょに―――― カエリタイ……。 ――死ねない! みんないっしょだよ! 永遠に! あはははははははははははは! 「やめてええええええ!」 絶叫していた。束の間、己の声が頭の中で反響する不協和音を凌駕する。そのことに安堵し、喉が枯れるまでに叫ぶ。噎せる。 何処にも届きようが無いとわかっていながらも、「助けて」と繰り返し泣き喚いた。 ――ああ、なんと世界は残酷であろうか。 死ぬこともできずに生き続けるのは、恐ろしい。滅ぶこともできずに現世をさ迷うこともまた、恐ろしい。 まだ見ぬ恐ろしい未来を待つ時間は尚のこと――。 この場所が悪いのだろうか、状況が悪いのだろうか。どの方向に思考回路を向けようにしろ、恐怖が付きまとう。 寒い。 身体中の筋肉が、痙攣してこのまま使い物にならなくなりそうなほどに、過剰に震えている。 「かえりたい……」 帰る場所は失われた、と告げた声が脳裏に蘇る。 憎い。なんとなしに現れて、何もかもを奪った女が。 そうだ、抜け出さねば。抜け出して、あの女をくびり殺さねば。仲間たちの仇を討たずして、何の為に生き延びたといえよう。 抗う。無駄だった。 縄が肌に食い込み、激痛をもたらすだけだ。 (ダメ。これはダメ) 何処かに残る理性が訴えかける。 負の感情が瘴気と混じって、自分は生きたまま魔性に転じるかもしれない。 (此処が聖地ならよかったのに。そうしたら、私は意識を手放せた。聖獣という大いなる存在に満たされて、ちっぽけな私は何も考えなくて良いのに) そこまで思い至って、ようやく胸元の重みに意識が行った。 所持品は大方剥がれている。どういうわけか、教団より賜ったアミュレットは残っている。 感謝する。 聖気を放つと魔物がおびき寄せられるため、今は使えないけれど。 祈りの言葉を捧げるだけの正気が残っていることに、深く深く感謝する。これが一体いつまで保てるものなのかはわからない、が。 ミスリアは誰も見ていない闇の中で笑みを浮かべる。 _______ |
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