61.b.
2016 / 08 / 20 ( Sat )
「そんな意味があったんですね」
 あの人がブローチをしていたかどうかまでは、思い出せなかった。相対した時は緊張のあまりか、あまり隅々まで注意して見ていなかった気がする。

「おっと」
 唐突にユシュハの声がした直後、ソリが何かにつっかえたような衝撃があった。馬が驚いて嘶く。ガシュッ、と柔らかい雪が跳ね上がった。
 前の席の背もたれを掴んで体勢を保った。隣から「大丈夫?」と手話で話しかけてくるイマリナに、大丈夫ですよと笑って答える。

「石か木の根ですかねぇ。見てきます~」
 前の席から軽々とフォルトへが飛び降りた。その間、ユシュハは馬を落ち着かせる為に声をかけ続けている。
 二人に任せれば安心かなと思い、ミスリアは座り直した。膝からずれ落ちた羊毛のブランケットの位置を整えて、空を見上げる。
 最初は己の白い吐息しか視界に無かった。それが冷たい大気に溶け込んで消えると、空に桃色が伸びているのが見える。

「……極北の夕暮れは、本当に早いですね」
 決して文句を言っているのではなく、率直な感想だった。むしろ今の自分たちは夜の時間にこそをソリを走らせている。日中は野営して睡眠を取り、午後の遅い時間に出発している。
「聖女ミスリアは南方出身でしたっけ~」
 地上から締まりのない声がする。

「はい。教団で修行を積んだ頃に、初めて本物の冬を知りました」
 フォルトへさんたちにそんなこと話したかしら、と不思議に思いながらも肯定した。それにはユシュハが反応した。
「夜が長いというのは、好都合だったろうな。魔物退治の実戦経験を積む機会がいくらでもありそうなものだ」
「まあ……そうですね……」

 教団で過ごす夜は、強力な結界に守られていた。そのぶん敷地から一歩踏み出せば、いくらでも遭遇してしまう。実戦は常に討伐隊編成が抜かりなかったため死人が出たことが無いが、初心者には全てが恐怖でしかなかった。それをある程度乗り越えられるようになるまでが訓練だった。
 ヴィールヴ=ハイス教団本部が北にある理由は聖獣の近くに在りたいがため、そして俗世から少し離れていたいためだと勝手に解釈していた。こうして考えてみると、ヒューラカナンテ高地地帯は聖人・聖女という特殊な聖職者集団を鍛え上げるに最も適しているのかもしれない――。

「終わりました~。もう進められますよ――……」
 引っかかっていた石を全部どけたらしいフォルトへが、何故か立ち上がる途中で言葉尻を切った。途端に馬の嘶きが激しくなる。
「先輩、右方注意っ」
 彼の緊迫した声に、動物が威嚇する声が重なる。

 続いて、パシュッ! と短い音がした。それがユシュハの右手に装着されたクロスボゥの音だと、一瞬遅れて気付く。
 恐々と右方を見た。
 少し離れた場所に、矢に撃ち倒された哺乳類の姿があった。

「コヨーテか。群集を好む動物のはずだが」
「この個体、何かから逃げてたみたいですよぉ。てことは――」
 彼がみなまで言わずとも、答えが横の針葉樹林から飛び出て来た。
 巨大で歪な影。異形。即ち、魔物。
 ミスリアの全身に緊張が走り、無意識に、服の下のアミュレットに手が行った。
 まだ地上に足を下ろしていたフォルトへは逃げようと判断したらしく、動かぬソリの最前列に跳び上がっていた。

「おい。戦え」
 敵に背を向けて逃げた部下に、上司が厳しく叱咤する。
「勘弁してくださいよぉ、先輩。自分の特技は人間の攻撃を先読みすることであって、行動が予測不能の魔物相手じゃあどうにもならないどころか、自分ド近視なんで超不利ですって」
 緊張感の無い返事が返った。

「情けないにもほどがあるぞ!」
「まあまあ。後ろのお二人にお任せしましょう」
 人差し指を弾くようにして、フォルトへはにこにこと最後列を指し示した。
 つられてミスリアは振り返る。

 まるで見計らったのかのように、ちょうど「呪いの眼」を有する兄弟が、ソリから飛び上がっていたところだった。
 大剣が閃く。鉄の輪が宙を舞う。
 ミスリアが息を吸い込み、次に吐き出したまでの短い時間で、魔物は無力化されていた。

拍手[1回]

テーマ:<%topentry_thread_title> - ジャンル:<%topentry_community_janrename>

23:04:32 | 小説 | コメント(0) | page top↑
<<61.c. | ホーム | 一応ながら>>
コメント
コメントの投稿













トラックバック
トラックバックURL

前ページ| ホーム |次ページ