56.e.
2016 / 05 / 09 ( Mon )
 何か言わなきゃ。別の提案をしなきゃ。時間に余裕があったなら、或いは他の作戦に辿り着けたかもしれない。そう思っても声は出ず、手のみが勝手に動いていた。
(代わってあげたい)
 いつも痛い思いを、苦しい思いをするのは彼らであって自分ではない。申し訳ない気持ちで一杯になったが、絶対に泣いてはいけない、とカタリアは呪文みたく脳内で繰り返した。

 手ぬぐいをエザレイに噛ませた。
 震える手で、端と端を後頭部にて寄せる。革の髪紐によって束ねられた、毛先に多少クセのある赤茶色の髪の下で。解けないように、しっかりと猿ぐつわ代わりの布を結んでやった。

 次にエザレイはイリュサの手助けを得て袖から赤く染まったシャツを脱ぎ、泥の上に敷いた。それを寝床にしてうつ伏せになる。両手の指は、どっぷりと泥の中に食い込ませて。
 応急処置として巻かれていた包帯を解いて、イリュサは縫合に使う道具を準備している。その間カタリアは、火傷に覆われた背中の上に膝立ちになった。これは確か彼が家族と死に別れた火事の際に負った、古傷であったはずだ。

 ――二人も乗っていては流石に重くないだろうか、骨が軋んではいないだろうか。
 行き場の無い迷いばかりが募った。
 一方、イリュサはハサミと糸と針を手にする。患部をサッと確認し、エザレイが暴れるのを見越して、前腕を片膝で押さえつけた。

「では、手早く済ませます。それだけは約束できましてよ」
 イリュサの宣言に、当然ながら返事は無かった。
 針の煌めきが目に入る。カタリアの胸内で恐怖が膨れ上がったのも束の間、煌めきは躊躇なく動いた。

「――――――っ!」
 くぐもった叫びが漏れた。同時に、膝の下で押さえつけたはずの四肢が激しくのたうった。
「ひっ」
 つられて悲鳴を上げてしまいそうなのを、なんとかして飲み込む。

 想像を絶する力だった。組み敷いた身体が発する痙攣によってカタリアはバランスを崩しかける。支えを求めて手を突き出し、土を掴んだ。
 苦鳴は尚も続いている。

(早く、早く終われ。おねがい。早く終わって)
 実際その時間はイリュサが約束した通り、短かったはずだった。ことの最中では、果てしなく長く感じられただけだ。
 噎せ返るような血の臭いで、頭がくらくらした。目元が滲んで視界が歪む。カタリアは奥歯を食いしばった。

『あんた一人じゃ心もとないから、連合拠点まで案内してやるよ』
『よろしくしなくていい』

 初めて出会った日の記憶が、何故か耳元に蘇った。

(ごめんなさい。ごめんなさいエザレイ。私が誘ったから)
 激痛に抗い続ける肉体を見下ろし、思う。どうして、代わってやれないのか。
 大した力も持たない右手で、彼の肩を精一杯押さえた。力を込めれば込めるほどに痛い。
 手も、心も――

 ――遥か遠くから、獣の咆哮と指笛のような音が響いた。

_______

 ふわりと身体が軽くなったと同時に、雷鳴が轟いた。閃光が大空を照らしたものの、雨は降っていない。
 引きつつある夢心地に驚き、浅い呼吸が彼女の唇から漏れた。

 宵闇の中に浮かんだ三つの人影は、馴染みのあるものだ。最も近くに立っているのは、大剣を背負った黒ずくめの青年。際立った長身や濃い肌色と物静かな雰囲気などが印象的で、喋っていなくても大木のような存在感をたたえる人物である。

「どうした」
 低く通る声が鼓膜を打った。ミスリアにとっては安心を誘う声である。やっと地に足が付いた心地になって、彼女は旅の護衛であるゲズゥ・スディルに笑いかけた。
「あの……私どのくらいぼーっとしてましたか」
「えー、二十秒くらいじゃない? 何かあったの」

 答えたのは二番目に近くに居た、こちらもそれなりに長身の男性。ゲズゥの母親違いの弟であるため骨格や目元などに似通った箇所はあるものの、兄とは真逆に、徹底して色鮮やかで華やかな印象を放っている。イマリナ=タユスの町で出会い、旅の道連れとなった、リーデン・ユラスという名の銀髪の青年である。
 彼の隣に控える三つ目の人影は、その町と名を同じくする、イマリナと呼ばれる女性。紅褐色の髪をいつも三つ編みにしてまとめているのだが、わけあって今は染め粉で色を変えて、念の為にフードの下に隠している。

「たったの、二十秒……」
 誰にも聴こえないように呟く。
 ミスリアは両手を見下ろし、そのまま視線を下へと落として、膝や足元までを眺めた。
 肌や神経に残る感触はやけに真実味を帯びていた。それに加えて、深い悲しみと後悔が未だに心臓を締め付ける。

(何だったの――)
 白昼夢だとして、とても二十秒で見るような夢とは思えない。
(この人たちこそが、私の仲間)
 改めて傍らの人間を見回した。お揃いのヘアバンドとヘッドバンドを身に着けた兄妹は居ないし、ましてや腕から血を滴らせる青年も居ない。

 どうしてか我が身に起きた出来事のように、おかしな名残がある。しかし一秒経つごとに認識が己の中にしっくりと沈み込んだ。あれは、自分の記憶ではない。
 まさか姉の過去を妄想したのだろうか。

(なんか、納得行かない)
 こんなにも鮮烈な妄想ができるだろうか、自分に。聞いた話だけで?
 ふと舌に、か細い物が絡まったような違和感があった。
 疑問符を飛ばす仲間たちが見守る中、ミスリアは人差し指と親指を口に含んで探ってみる。

「んっ」
 指に何かが引っかかった。唾液に絡まって、灰色の糸が出て来た。
 途端に、数分前の出来事が脳裏に蘇った。



すみません、赤茶色なのは「スターアニス」の種であって「アニス」は別物です。過去の文は一部修正します(読み直す必要はありません)

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