55.d.
2016 / 04 / 15 ( Fri )
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 外から漏れる声は、車輪や蹄の音などにほとんど掻き消される。時折その隙間に流れる話し声の内容を、ゲズゥは意に留めることなくぼんやりとしていた。
 向かいの席では一枚の毛布を共有した女二人が肩を寄せ合って眠っている。一時期は揺れが激し過ぎて眠るのは到底無理な話だったが、それも大分落ち着いたものだ。このくらいの規則的な騒音ではかえって眠さが誘導される。

 その点、仮眠を取りたいのはゲズゥも同じだが、そこまでの眠気は無かった。とりあえずただ静かに過ごして思考を休めている。腕を組み、瞼を下ろして。
 馬の鼻息がした。その直後には、不思議な静けさが続く。もしかしたらこの時ばかりは柔らかく平らな地を走っているのかもしれない。

「奥の森には何があるの」
 いつになくはっきりと馬車の壁を越えてきたリーデンの声に、思わず片目を開ける。
「わかりません。何故そこに行かねばならなかったのか、も」
「町に入ったら、思い出せそう?」

 ――がらがらがら。
 静寂の時間が終わった。車輪の音に掻き消されて、シュエギと呼ばれる男の返事は聴き取れない。

 ふいに、馬車の中に動きがあった。
 顔を上げると、向かいの席で眠り込んでいた二人の内、小さい方の人影がもぞもぞと動いている。
 少女の大きな茶色の瞳は影がかかっていてよく見えない。少なくとも視線がこちらを向いているわけではないのは感じ取れるが、ならば何を気にかけているというのか。

「……ミスリア」
 小声で呼びかけたものの、応答は無い。少女は異様にゆっくりと、静かな息を立てている。まるで目を開けておきながらも眠っている状態が続いているかのようである。
「――――」
 桃色の唇が分かれ、その奥から声が漏れた。それはゲズゥの耳には不慣れな言語だった。
 独り言にしては抑揚が濃い。

 ――何を見ている。誰と、話している?
 この感覚には覚えがある。たとえば魔物を相手にしている時、心を砕いて歌いかけてあげる時。または聖地と対面した時の――現世を離れたような、曖昧な気配。

 聖女ミスリア・ノイラートは紛れも無い生身の人間でありながら、それが漠然と疑わしくなる時もある。
 いつの間にか彼女のそういった性質に慣れてしまっていたが、これは本当に「正常」なのか。いや、血縁者と目玉だけを通して謎の通信ができる自分がそれを問うのはおかしいか。

 聖なる役割の者の宿命とは、末路とは――
 わからない。何がわからないのかもよくわからない。これ以上考えるのは時間の無駄に思えた。
 右手を伸ばした。

「おい」
「――――」
 少女と目に見えないモノとの交信は、未だに途絶えない。
 指三本の先で頬に触れても、反応がまだ無い。痺れを切らして、掌全体を白い柔肌に押し付けた。

「おい」
 今度は反応があった。びくりと身じろぎした後、ミスリアは何度も両目を瞬かせた。
「ふ!? あ、え……なんでしょうか……この手は、あの……?」
 落ち着かない眼がゲズゥの手と顔を行き来する。

「…………戻ったか」
 いつの間にか止めていた息を、そっと吐き出す。
 するとミスリアは真剣な眼差しになった。
 暗い空間の中、確かに柔らかい手の温もりが手の甲に重なるのを感じた。

「心配、ありがとうございます。大丈夫ですよ。私はここに居ます」
 非常に引っかかる言い回しだ。大丈夫と断言されて、より一層安心という気持ちが遠ざかった。

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