46.h.
2015 / 08 / 05 ( Wed )
「そうですね」
 せっかくなので、ミスリアは王子にも当の聖地の逸話を語り聞かせた。七百年前に起こったとされる一つの衝突の話を。
 聞き終わった王子は、「怪獣大戦だな」と笑った。

「しかし、これはヒントかもしれない」
 最初はニヤニヤ笑いを浮かべていた彼が、次第に思慮深い表情に変化していった。
「ヒントとはどういうことですか?」
「もしも谷底の混じり物がその怪獣伝説を――」

 オルトファキテ王子がみなまで言うことは無かった。
 大気を切り裂く甲高い鳴き声が響き渡ったからだ。三人は弾かれるように音のした方を見上げた。
 遥か頭上を、巨大な影が飛行している。

 影の形は長く、左右対称的で、まるで尾や翼を有したように見える。尾の形状を見るに、鳥とはかけ離れた外観だった。
 ――竜などという存在は、空想か伝承か魔性の中にしか具象化されない。そう、ミスリアは認識している。

(まだ陽が落ちてないのに魔物!?)
 それともこれこそが王子の言う「混じり物」だろうか。
 影は咆哮した。骨の髄まで揺さぶられるような、ただならぬ振動だった。一行はその場に縫い付けられて微動だにできない。

 余韻が消えて谷が静寂に包まれてもまだ、呼吸をしていいのかわからなかった。
 影は大きく羽ばたいてゆったりと旋回する。己の意思とは無関係に、魅入ってしまう。
 やがて、ぱらぱらと小石の落ちるような音が耳朶に届いた。

(あれ? 影がこっち来る)
 放心状態からのろのろと抜け出し、目を擦る。
「ミスリア!」
 いつになく切羽詰った声が呼ばわったのと時を同じくして、雨粒が頬を打った。
 あっという間に大雨になった。この世の一切を叩き潰すかのような勢いをつけた水が、忽ち身体を重くする。

 次いで腕を掴まれ、引かれた。暗転した視界に驚いている間に岩場が激しく震動した。何か大きな物がぶつかったのだろう。
 足の下にあった地面が突如崩れ――
 ――落下が始まった。

「目を閉じて息を止めろ! 運が良ければ河の中に落ちる」
 聴き慣れた低い声が怒鳴りつけてくる。
「んっ」
 即座に指示通りにした。

 運が悪かったらどうなるの、と想像している余裕も無かった。抱き抱えてくれる腕に負けじと、ミスリアは必死に青年にしがみつく。
 直後、衝撃が意識を埋め尽くした。

_______

 左眼に映し出される映像が一瞬だけ見知らぬ別物とすり替わった。

(……水飛沫?)
 あまり経験しない現象ではあるものの、リーデン・ユラス・クレインカティには何が起きたのかちゃんと飲み込めた。

「どうかされましたか、解放主(ヴゥラフ)?」
 その所為でぼんやりしてしまったらしい。すぐ近くに控える中年の女が、眉根を寄せて覗き込んできた。
「何でもないよ。で、何の話だっけ」

「あなたさまに、谷底に根付いた脅威を排除していただきたいと、申し上げたのです」
「ふうん。そんなことして僕に何のメリットがあるのかな」
「あまり多くのお礼はできませんけれど……」
 彼女の目線が向かった先には、民がかき集めた食物やら薬草やら山羊やらがある。

「あー、いいよいいよ。大体わかった」
 問いは形式的なもので、リーデンはこんな辺鄙な小国にこれといった期待をしていたわけではない。どう返されたところで決断は変わらない。面白けりゃ何でもいいや、くらいにしか思っていないのである。

「解放主、お供の方をお連れいたしました」
 一人の男が前に進み出た。その背後から人影が飛び出て、一直線に向かってくる。
 ちなみにカルロンギィの民の勝手な思い込みの中では、いつの間にかリーデンが集団のリーダーだったみたいな解釈になっている。実際は十四、十五歳ほどの少女がその立場だったと知れば彼らはどう思うのか、興味深い。

「おかえりマリちゃん」
 リーデンは胸に飛び込んできたイマリナをしっかり抱き止めた。彼女の温もりを身近に感じ、宥めるようにその背中をさすりながらも、そのまま取り囲む連中を観察した。
 連中は他の二人については何も言わない――しかし少なくともミスリアが自ら脱走したらしいのはさりげない手話で今しがた知ったので、よしとする。

「で? さっきの鳴き声、何? みんな、何も聴こえてませんみたいな顔して全力で無視してたみたいだけど」
 そう責めた途端、通訳の女は気まずそうに俯いた。

「……あれは催促ですわ」
「あのさぁ。もっとこう、わかるように言ってよ」
「ですから……我々に、妙齢の娘を差し出せと。数週間ごとに、化け物が催促に来るのです」
 手を握り合わせた女が消え入るように答える。

「へ、えー? それはまたどっかの神話みたいなやり口だね」
 自分はそれを聞いてどんな感想を抱いたのか、それとも抱けばいいのか、リーデンはすぐにはわからなかった。
 ただ、イマリナを一層きつく抱き締めながら、小さな聖女の安否に思いを馳せた。

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