46.b.
2015 / 07 / 24 ( Fri ) 「す、みません。重くて申し訳ありませんが、できれば落とさないで下さい」
目を伏せ、消え入るように懇願した。すると王子は喉を鳴らして笑った。 「体重はつかないより、ついた方が良いだろう。餓えていない証拠だ」 「はあ……」 「それより、もっと全力で引っ付け。片手で登れるほど私は器用ではないぞ」 「は、はい」 男性の身体に巻き付けた腕と足に持てる力をありったけ込めた。それに応じて自らの腰を支えていた腕が離れる。 間もなくして、ぐらぐらと風景がぶれた。王子が鉄格子を登り始めたのである。 眩暈がした。瞼を下ろし、もう残っていないと思っていた力を己の奥から振り絞って、更に腕に力を込める。 (この人は、怖く、ないの、かしら……) こういう場合は断固として下を見なければ良いらしいが、それでも手が滑ったらどうしようとか、恐ろしくならないのだろうか――。 オルトファキテ王子から漂う砂のにおいが、今のミスリアの心を落ち着かせる唯一の要素だった。 「気を紛らわせる為に昔話でもしてやろうか」 「…………」 気遣いは有難いのに、返事をしようにも声が出ない。察したのか、王子はひとりでに語り出した。 ――ぎし、ぎし、と檻は音を立てて揺れる。 「私がゲズゥに初めて会ったのも、都市国家郡だった」 「……え」 目を瞑ったまま、ミスリアは声を漏らした。 「今はシウファーガ市国という。当時は国と呼べないほど荒んだ土地だったがな」 シウファーガという地名は聞き知っている――ゲズゥはそこで暮らしていた時期があったはずだ。 「ヤツは特に目的もなく浮遊していたように見えたが、何かから逃亡していたようでもあった」 「逃亡……」 「知っているか、聖女? 『天下の大罪人』が滅ぼしたと噂されている小国を」 その前振りを聴いて、ミスリアの中で友人と交わした会話が呼び起こされた。 カルロンギィを傘下に治めていた都市国家、それこそが滅ぼされた小国だったとカイルは言っていた。 「真相など、きっと呆気ないものだ。たとえばそう――」 オルトファキテ王子は、自らの立てた推論を語った。目を閉じたままのミスリアは、なんとなく彼の一言一句を映像としてイメージする。 「あの国は名をなんと言ったかな。レグァイ、だったか。レグァイ市国は元々勢力を二分して内紛に発展しかけていた。一触即発状態で、なんとか均衡を保り続けて長く……今度こそ決定的な交渉をして平和を紡ごうと、ある時片方の勢力がもう片方に遣いを送った」 ここに来て王子は一旦休憩を挟むことにしたらしい。おそらくは檻の上に立っているのだろう。こちらとしてはまだ目を開ける勇気も足を下ろす勇気も無いけれど。 「遣いの者は従者を一人だけ連れ、敵方の妨害を怖れて人通りの多い道を避けた。しかしそれが、ある意味ではいけなかった」 「どうなったんですか?」 「森の中で遭遇してしまったのさ。たまたまそこに居合わせた、一人の気味悪い若者に。既に神経質になっていた遣いには、そいつを自分を害する為に現れた間者と信じて疑わなかった。ゆえに、誰何もせずに襲い掛かってしまった」 「――!」 その先はもう聞かなくてもわかった気がした。 「襲い掛かってきた敵を返り討ちにするのは生き物として正しい反応だ。ゲズゥ・スディルは何も間違った行為をしていない。しかし遣いを殺したのは果たして何者なのか、和平の可能性を潰したい誰かの仕業か、提案した方の自演か――両勢力の疑心暗鬼に拍車がかかったのは言うまでもない。結果として内紛は勃発し、跡には荒地しか残らないまでに悪化した」 じゃらり、と鎖の目がぶつかり合う音がした。王子がまた動き出したのである。 「果たして聖女よ、これは誰の罪だ? もしもゲズゥが殺さずに相手をやり過ごしていれば何事もなく済んだ話なのか? それとも遣いの運命は元より定まっていて、他の誰かが結局殺していたか? もしもの話にそもそも意味は無いだろうが」 「…………結果だけを省みれば、摂理はきっと、レグァイの滅亡をゲズゥの咎とするでしょう」 複雑な因果関係だったとしても、民の死が大勢の人間の業の末に起きたことだとしても、ゲズゥが罪の一端を背負わなければならないのは確実だ。 |
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