30.h.
2014 / 03 / 30 ( Sun )
 硬直が解けたミスリアは大急ぎで水道橋から降り始めた。
 叫び声が止んでいる。少年は頼りない肩を激しく震わせながら、荒い呼吸を繰り返し、鉈を引き抜こうともがいていた。

 血が伝う鉈の刃に、無骨な手が重なる。刃は刺した対象に、その全長の四分の一も食い込んでいない。

「たとえ――」ゲズゥが発した声はひどく冷静だった。「腕が上がらなくなるまで俺を刺しても、或いは殺したとしても、お前の心は晴れない」
「はな、せぇ!」
 子供はひたすら鉈を引き抜こうとしているが、びくともしない。腕力の差は明らかである。

(ダメ。引き抜いたら出血が)
 焦り、ミスリアはレンガの柱を滑り落ちるようにして降りた。

「恨みとはそういう物だ。楽になりたければ、別の方法をみつけるんだな」
「なに、言ってんだよ。そんなんどうでもいい! おばさんをめちゃくちゃにしたオマエを、絶対、ゆるさない! わすれたとは言わせないからなぁ!」
 少年は全身から憎悪をほとばしらせながら一言ずつを恨みがましく吐き出した。

「……憶えてる」
 ぽた、ぽたり、と深紅の滴が草を濡らす。青年はそれを全く気にせずに静かに答える。

(こんな子供が仇討ちを……?)
 衝撃のあまり、身体の動きが一瞬止まった。そしてどうしてかそのことより気になる問題があった。
 ふいにミスリアはシャスヴォルの兵隊長だった男性を思い返した。あの時ゲズゥは何と言っただろうか。

「お前が慕っていた女には殺されるべき理由が多くあった。故郷の村を滅ぼした『実行犯』の一人でもある。あの日に遡って選び直せと言われたら、何度でも俺はあの女を苦しめて殺す方を選ぶ」
「うるさい! おばさんはすごく優しくて、おれにとっては親だったんだ! 殺される理由なんてあるわけない!」

 ゲズゥは少年の必死の抗言を完全に無視して続けた。

「だがあの場に現れたお前に見せつける必要は無かった。お前の憎しみを悪化させた責任は、確かに俺にある」――彼は鉈にかけていた手に力を込め――「だから、思う存分、やりたいようにやればいい」

 やっと水道橋を降り切ったミスリアは、その勧めを聴いて一層強い焦燥感に打たれた。何やら整理しきれない感情を持て余し、覚束ない足取りで二人の傍へ歩む。

(過去の罪に対して罪悪感を感じているのは、良い傾向だと、喜ぶべきかもしれない、けど……)
 そう考えながらも信じられないくらいに自身の動きは緩慢としていた。
 少年がゲズゥの手助けを経て鉈を引き抜く瞬間が、目に見えて間近に迫っているのに、ミスリアの足は速まることができなかった。

『お前が俺に復讐するのはお前の勝手だ。そこで返り討ちにするのは俺の勝手だ』

 シャスヴォルの兵隊長を相手にした時に比べて、ゲズゥの態度が違っている。原因を辿ろうにも、彼が今しがた語った責任の話だけでは釈然としないものがあった。
 今はそんなことより、目の前で繰り広げられかけている悲劇を止めなければならない。

(きっとあの子にとっての取り返しのつかない過ちになる)
 それは、無関係な人間ならではの意見だろうか。どちらにせよ、心の奥底から人を恨んだことの無いミスリアにはわからない。
 止めなければならないという意思の方が、今は迷いよりも勝っていた。

 黒いコートに身を包んだ青年の背中が視界の中で段々と大きくなっている。あと数歩もすれば手が届きそうな距離に達すると、鉄の臭いが鼻についた。
 なんとか仇討ち少年を説得できないだろうか。気を引き締めて、ミスリアは横を回り込んだ――

 低く、形容しがたい音がした。遅れて両目が脳へと映像を読み込む。
 少年は血に濡れた鉈を持ってよろめいていた。

 栓の役割を果たしていた凶器が抜けても、ゲズゥの左脚から劇的に鮮血が飛び出したりはしない。代わりに、真っ黒な革に開いた穴の周りが音も無く潤い、嫌な光沢を帯びる。

「や――」
 その時点でようやっと、ミスリアは声の出し方を思い出していた。
 少年は、鉈を両手で逆手に握って、大きく振り被っている。今度は腹部を狙うのだろうか。

「やめて下さい!」
 かなり危険な真似だと頭のどこかでわかっていたが、それでもミスリアは飛び出していた。
 自分と大して身長の変わらない華奢な少年に体当たりをする。二人して転倒し、鉈は少し離れた場所に落ちた。

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