22.b.
2013 / 04 / 24 ( Wed )
 町の人間に恩を売るのもいいかもな、などと考えながら走る。
 人混みを抜ける少年たちの逃げ足はなかなか速かったが、何かと追っ手を気にかけて振り返っているのが敗因だ。一番遅れている少年ひったくり犯が前を向き直った隙を狙って、イトゥ=エンキは鎖を放った。

「うぎゃっ」
 情けない声が少年から漏れた。鎖はしっかりと右足首に巻きついて、少年を転ばせた。
「弱いくせに無理すんなよー」
 挑発とも受け取れそうなその言葉は、イトゥ=エンキにしてみれば本気の忠告だった。やり遂げる力量が無いくせに無茶をすれば、死に至るだけである。

 少年は言い返さずに唸った。「こんなはずじゃ……」みたいなことをひとりごちていたかもしれない。

「まあ、オレの知ったこっちゃねーけどなぁ」
 のた打ち回って恨み言を連ねる少年は食に困っている風には見えなかったし、大切な誰かの為に盗みを決心した、といった必死さも無かった。やはり遊び心だったのだろう。

(同情の余地なしってことで)
 イトゥ=エンキは屈み込んで買い物籠を取り上げ、元の持ち主の姿を探した。ついでに、転がり出た籠の中身を拾い上げて戻す。

 ふと前を見上げればゲズゥが地面を蹴っていた。
 彼は残る二人のひったくり犯が直線状に並ぶのを狙って、跳び蹴りを決めた。
 後方の少年が背中を蹴られて吹っ飛び、前のもう一人に激突した。その瞬間、最初に吹っ飛んだ方がぴたっと止まってぶつけられた二人目が今度は宙を飛んだ。

「運動量保存の法則じゃん」
 キャロム・ビリヤード――キューと呼ばれる棒で一個の球を打ち、二個目や三個目の別の球に当てる卓上遊戯――に用いる物理法則と同じだ。ぶつかり合う対象の質量が同等でないと発動しない。つまり、二人の少年たちの体重は同じくらいになる。

 イトゥ=エンキは思わず膝を叩いて拍手を送った。といっても、ゲズゥ本人はこのような生きていく上で不要な情報など知らないだろう。

「お疲れ様です。ありがとうございました」
「……疲れていないが」
 ミスリアが歩み寄り丁寧に頭を下げると、無機質な声でゲズゥが応じた。
 イトゥ=エンキは可笑しさについ噴き出した。

「単なる労わりの挨拶だろ、言葉通りに受け取るなって」
「……」
 ゲズゥは踵を返して荷物の方へ戻って行った。去る背中を見守りつつ、イトゥ=エンキはミスリアと顔を見合わせ、肩をすくめる。

「あの、本当にありがとうございました!」
 被害者たちも各々礼を言いに来た。金で礼をしたいと提案する者も居たが、ミスリアが頑なにそれを拒んだ。
 その間、周囲に集まっていた町人らが自ら少年ひったくり犯の身柄を確保し、役所へ連行している。

 三組目の被害者の番になった途端、イトゥ=エンキは「あ」と声を漏らした。自分より背の低い男を見下ろして確認する。

「さっきの結婚しないカップルの」
「はい?」
 歩み寄ってきた男が不思議そうな顔をした。
「すれ違いに会話が聴こえたんで」
 にっ、とイトゥ=エンキは悪戯っぽく笑った。

「……それはお恥ずかしいところを」察して、誠実そうな男が頭をかいた。「結婚ではなくお付き合いを申し込んでいたのですよ」
 それを聞いて、なるほど、とイトゥ=エンキは点頭した。

(しっかし恋愛もいいけど荷物はもっとしっかり持とうぜ)
 他人のことなのでどうでもいいが。ある意味、間抜けな人間が居てくれないと盗んで生きなければならない側も苦労する――そう考えかけて、内心苦笑した。ユリャンの連中だったら心配するまでも無いだろう。

「何はともあれ、本当に助かりました。僕たちにできることなら何でもお礼しますよ」
 ――この男、軽々しく「何でも」を口にするとは世間知らずな――。答えずにイトゥ=エンキは隣のミスリアを見下ろした。

「では、岸壁の上の教会に行きたいのですが、方向はあちらでよろしいでしょうか?」
 前方にそびえ立つ時計塔を指差して、少女が訊ねる。
「はい。それなら、我々は教会の縁者でちょうど向かっていた所です。お客様を迎え入れる予定ですので、晩餐の準備もしています。ぜひご一緒に」

「ありがとうございます」
 深々とミスリアが頭を下げた。
「君もそれで構わないね」
 男は、それまで空気のように静かに突っ立っていた相方の女に声をかけた。男の一歩後ろに居た女はずっと何か考え込んでいたのか、今までの会話に入って来なかった。

「ええ」
 短く返事をし、女は男の隣に並んだ。長く真っ直ぐな蜂蜜色の髪が、ふわふわと風になびく。
「さっきからやけに静かだけど、大丈夫かい」
 女の肩に手をかけ、心配そうに男が声をかける。ひったくり騒ぎで怖い思いをしたと懸念しているらしい。

「……そうね、大丈夫」
 ヘーゼルに青が混じった色の視線が、痛いくらいにイトゥ=エンキに突き刺さった。何をそんなに凝視してるのかと思えば、左頬に視線が集中している。

「その模様は生まれつきですか?」
 囁くような問いだった。
「コレ? そーですケド」
「……嘘でしょう」
 イトゥ=エンキが軽い調子で答えると、女は信じられないものを見る目になった。

「や、本当だって。何の言いがかりだ」
 初対面の人間がどうしてそんなことを聞いてくるのか不思議でならなかったが、女の次の行動の方が遥かに驚愕を誘うものだった。

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