16.c.
2012 / 09 / 29 ( Sat )
 吹き抜ける突風に、心臓が縮み上がった気がした。
 汗の雫が額から頬を伝った。
 時折聴こえる鷹の鳴き声が、やけに大きく鼓膜に響く。
 
(た、高い――)
 後ろを振り返っては駄目だと、ミスリアは何度も自分に言い聞かせた。
(何でこんな、落ちたら気絶も即死も出来ないような微妙な高さなの)
 きっと内出血でじわじわ死ぬか、獣か魔物に喰われて死ぬか――どの道、まともな最期を迎えられるとは到底思えない。

 三日前に決めた通り、ゲズゥとミスリアは山肌に沿って踏み進んでいた――
 
「情報によると教団の人間は大体北へ迂回して遠回りするそうです。私はできれば時間がかからない方を望みます。ゲズゥは何かご存知ではありませんか?」
「……確かユリャンの中央辺りに洞窟がある。そこを通れば一週間程度で楽に山脈を抜けられるが」
「が?」
「賊が張っているはずだ。無茶苦茶な通行料を要求されるらしい」
「大金ですか」
「もっと悪趣味だ。前に話していた知り合いが、旅の連れの一人を売られて、もう一人は腕一本失くしたと言っていた」
「そ、それは、困ります」
「山から下りずに南から回れば余分に二週間はかかるだろうが、山賊を完全に退けられるかもしれない」
「ではその行き方で――」
「……そこは、熊か大山猫が出ると聞く」
「熊!? 他に選択肢は無いんですか!?」
「無い」
「そんな……」

 ――結果、南へ進むことになった。

 道と呼べるような道はほとんど無かった。二人は腰まで来る長い野草を踏み分け、時には岩を登り、山肌を覆う森を突き進んだ。
 幸い、これといった野獣や魔物には遭遇していない。その点を不審に思うべきかどうかはまだわからない。

 ふと、ミスリアが足を踏み外した。
 何か掴める物を求めて両手を振り回したが、運悪く何も無かった。

(落ちる――!)
 最悪の事態を恐れて目を閉じるものの、体は宙に浮かなかった。代わりに、手首が強い力で掴まれた。
 目を開くと、ゲズゥの左右非対称の目と視線が絡み合った。

「ありがとうございます」
 思わずお礼を伝えた。
 ゲズゥは片手でミスリアを引っ張り上げ、次いで両手で抱え上げた。足首を器用に樹の根に引っ掛けて体重を支えている。

 ミスリアを腕に抱えたまま、彼はまた歩き出した。慌ててゲズゥの首に腕を回すと、汗が手に付いた。お互い動き回っているせいで体温が上昇している。

(今更だけど、やっぱりこれは恥ずかしいわ)
 勿論、その為の供でもある。ミスリア一人だったら目的地へ着く見込みが全く無かったであろう旅だ。
(軽々と運ぶんだもの。子供を抱き抱えるのに慣れてるのかしら?)
 そう考えると納得できそうなものだけれど、どこかイメージが合わない。

 草や藪や樹の入り混じった森を進んでく内に、大分標高も高くなっている。
 それまで枝を手や短剣で押し退けていたゲズゥが、手を止めた。途端に、道が開いたのだ。
 ゲズゥは眉間に皺を寄せて近くの枝を調べるように手に取った。

「どうしました?」
「切り口が新しい。奴らの縄張りは思ってたより広いらしいな」
 枝には切られたような痕があった。それは野獣や魔物ではなく、道具を使う人間が、この道を通ったことを物語っている。
「では、熊や魔物が出なかったのも……」
 山賊が原因なのだろうか。

「黙っていろ」
 ゲズゥはミスリアを下ろし、耳元で囁いた。
 耳に熱い息がかかって、ミスリアは反射的に小さく震えた。

「抵抗するな。捕まった方がかえって好都合になり得る。組織の規模や状況がわからないことには始まらない。どの道、今は逃げるのは不可能だ」
 低い声が、鼓膜を打った。
「……わかりました。私にはどうしようもできませんから、貴方の判断を信じます」
 ミスリアは素直に深く頷いた。

「あまり他人を信じると、いつか身を滅ぼす」
 彼はミスリアから離れて、鼻で笑った。
「ゲズゥは私にとって『他人』ですか?」
 どうしてそんなことを訊いたのか、自分でもよくわからない。利害が一致するだけの関係だと昨夜言われたのを、気にしてのことだろうか。

 一瞬、彼が自分を捨てて山賊の仲間入りを選ぶのではないかと頭を過ぎった。しかしそうなっても、詰る資格が自分にある訳が無い。

 ゲズゥは眉を吊り上げるだけで、何も答えなかった。
 そして彼がミスリアに背を向けたその時、周囲が一気にざわついた。

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